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 覚醒……見上げるは見知らぬ天井。
 焦点さだまらぬエルグリーズの視界は今、滲む世界がぼんやりと前後する。それがやがて像を結んで、彼女は自分の無事を確認すると同時に身を起こした。
 ベッドに寝せられていたエルグリーズは、一糸まとわぬ全裸だった。
 それでも、毛布を蹴り飛ばして裸足で床へと立ち上がる。
「ここは……どこですか! あのーう、誰かいませんかー」
 だが、返事はない。
 はぁ、と溜息を零しつつ、うつむけば立派にすぎる愚息が今日もぶら下がっている。
「……やっぱり元気ないです。遥斗と別れてからずっとこう……使わないからいいけどです」
 エルグリーズは半陰陽、両性具有の不思議な身体の持ち主だった。
 だが、その男性機能は今、目覚めを知らぬ眠りに陥ってから一年を迎えようとしていた。本当なら毎朝、嫌ってほどに元気で現金な雄々しさだったのに。今はもう、見る影もなく縮こまって、力なくうなだれていた。
 だが、今はそんな自分の分身に語りかけている場合ではない。
 エルグリーズは全裸でも全く気にせず、ズンズカズカズカ歩き出す。
「っとぉ、痛いです! ふぎゅう……」
 そして、何かに蹴躓(けつまず)いて盛大にずっこけた。
 見れば床の上に、小さなタルが置きっぱなしになっている。それに脚を取られたエルグリーズは、床面へと顔面から己を投げ出したのだった。
「いたた……はれ? このタルは……はわわ!?」
 その時、タルがカタカタと鳴り出した。起き上がったエルグリーズは、何事かと顔を近づける。その間もずっと、鳴動するタルは徐々にその振動を広げてゆき、ついには音を立てて内側から破裂した。
 目の前で突如弾けたタルに驚き、ストンと尻もちをつくエルグリーズ。
「旦那さんっ、会いたかったニャア!」
 中から出てきたのは、なんとメラルーだった。漆黒の毛並みも艷やかで、その身は沢山の古傷が見て取れる。それでも元気いっぱいにキャット空中三回転、彼だか彼女だかは身を(ひるがえ)すやエルグリーズの胸に飛び込んできた。
「フニャア、嬉しいニャア。また旦那さんと狩りに出れるニャ!」
「あ、あのう……どちら様ですか?」
「およよ? なんか旦那さん、ちょっとふくよかになったかにゃあ?」
「メラルーさん! わたしはエルグリーズです、メラルーさんのお名前は?」
 自分の胸の谷間に挟まったメラルーを、すぽんと取り出しエルグリーズは両手で抱き上げた。そしていつものように、ぐいと顔を近付けその濡れた鼻に鼻を押し当てる。
「……旦那さん、顔が近いニャ」
「はい!」
「えと、ボクはユキカゼ……人は呼ぶニャ、筆頭(ひっとう)オトモと!」
「おおー! ……なんですか、筆頭オトモって」
 得意気にピンとヒゲを張り巡らせていたユキカゼは、エルグリーズが小首をかしげるのでフニャンとうなだれてしまった。そんなユキカゼを床に下ろして、エルグリーズは立ち上がる。
 ユキカゼはそれでも、腰に手を当てエヘンと胸を張った。
 その時、別の声が響く。
「筆頭オトモとは、世界でも百匹に満たぬオトモの中のオトモニャ。ユキカゼ殿、よーくおいでなすったニャア。その人はうちの旦那さんが昨日助けた、顔見知りのハンターさんニャ」
 ユキカゼとは別の、今度はアイルーが現れた。毛並みは艶やかなカラメル色で、妙に気取った雰囲気を発散している。
「ワニャハイはアルベリッヒ、この旅団で執事ネコをしてますニャア」
「おお、アルベリッヒ殿! このたびは旅団にお招きいただきありがとうですニャ!」
「なんの、筆頭オトモ様をお迎え出来て、団長もハンターさんも喜んでますニャン」
 アイルーとメラルーが仲良く手を取り合い、さらに肉球を重ねて両腕で固く握手を交わしていた。膝に手を当て屈んで見やりながら、エルグリーズは早くもワクワクが隠せない。
「あの! ……旅団、ってなんですか?」
「団長殿が連れて旅する、さすらいの小さな集まりですよ。世界各地を旅して、小さな依頼を片付けたり、遺跡を調査して回っているんです」
 意外なところから答えが飛んできた。
 その方向へ振り返ると、エルグリーズよりさらに長身の美丈夫(イケメン)が無表情で佇んでいる。彼が衣服を投げてくれるので、エルグリーズは慌ててそれを受け取った。
「久しぶりですね、エルグリーズ様。覚えておいでですか?」
「あ……はいっ! お久しぶりです、アズラエル!」
 ぱっと笑顔になったエルグリーズは、思わず裸なのも忘れてアズラエルに駆け寄る。そして手を取り、ブンブンと上下させながら再会を祝った。
 されるがままのアズラエルは、静かにエルグリーズを見下ろしている。
「あの、ひょっとして助けてくれたのはアズラエルなのですか?」
「顔、近いですよ」
「それに、旅団って、アズラエルも旅団なんですか? キヨノブも一緒ですか?」
「ええ、まあ。……顔、近いです」
 ぐいと身を乗り出すエルグリーズは、二度言われてようやくアズラエルの手を離した。そして言われるままにじたばたと服を着だす。インナーは新しいものだったし、シャツとズボンはどうやらアズラエルのらしくてかなり大きい。それでもようやく身体を覆うと、シャツから出した顔の前を……メラルーのユキカゼがスローモーションで舞っていた。
「旦那さぁぁぁぁぁぁん! 会いた、かった、ニャアアアアアアッ!」
 ぶわわと涙を零しながら、宙を舞うユキカゼが両手を広げてアズラエルに吸い込まれてゆく。
 だが、全く表情を変えずに手を伸べて、空中でアズラエルはむんずとその顔面を鷲掴みにした。
「フニャン! ……あ、相変わらずですニャア、旦那さん」
「元気そうですね、ユキカゼ。随分とたくましくなったようですが」
「あいニャ! 修行して、各地を転戦し、ついにギルドが認める筆頭オトモになったニャ!」
「メラルーでは初の快挙と聞いていますよ。頑張りましたね」
 エルグリーズはじっとアズラエルの鉄面皮を見詰める。そこには微笑のビの時も浮かんではいないのに、不思議とユキカゼに向ける眼差しが温かい。
 改めてエルグリーズは、アズラエルとユキカゼを交互に見比べ、笑顔を浮かべた。
「感動の再会、ですねっ!」
「そうでもないです」
「嬉しくないですか? アズラエル」
「そうでもないです、それと――」
 そっとユキカゼを床に下ろして、アズラエルはエルグリーズに向き直った。
 じっと見詰めてくる瞳は、まるで氷河のように清冽に澄み渡っている。
「どうかアズとお呼びください。……あまり好きな名前でもないので」
「はいっ! では、わたしのこともエルでお願いしますっ! エルグリーズのエルなのです」
「わかりました、エル様」
「わかられました! アズ」
 にへへ、と笑うエルグリーズを前に、しかしアズラエルは全く表情を変えずに目元を引き締めた。とたんに真剣な雰囲気が発散されて、二人の間に緊張感が漂う。
「それで、エル様はこれからどうされるんですか? あの時、突然消えてしまって」
「それは……エルは今、旅をしてるです。全ての古龍をやっつけるです!」
「はあ。まあ、それはいいのですが。現実問題、上手くいってますか?」
「上手くいってません! 全然です!」
「得意気に言わないでください、イラッとしますので。あと、顔が近いです」
 ぐいとエルグリーズの顔を押しやりつつ、ようやくアズラエルは笑った。
 それは、しょうがないですね、と言わんばかりの苦笑だが、どこか穏やかで優しげだ。
 彼は閉めきった室内の中を、窓へ向かって歩きながら言葉を続ける。
「私からキヨ様と団長に頼んでみましょう。旅団と共にいれば、古龍にもいずれ」
「いいんですか!? ひょっとしてアズはいい人なんですか!」
「そうではありませんが……いいでしょうか、アルベリッヒ」
 アズラエルが鎧戸を開けると、外の光が差し込んできた。
 広がる風景は、砂海と中原の間に位置する街、バルバレだ。
「団長なら二つ返事ニャ! だって、このハンターさんは団長の恩人ニャから……ワニャハイからも特別に取り計らっておくニャア」
「だ、そうです。よかったですね、エル様。しっかり働いてください」
 エルグリーズは、突然のことだが久しぶりに人のぬくもりに触れた。
 旅の道中、人間は親切だったが、一期一会(いちごいちえ)のゆきずりの仲は過ぎて消えるのみ。そんな中、一年ぶりに見知った顔に出会えたことが嬉しい。アズラエルは狩りで数度一緒だっただけの、特別親しい人間でもないのに。ただ、顔見知りが親切なのが無性に嬉しかった。
「は、はいっ! エル、頑張りますっ」
「では、団長に挨拶にいきましょう。団長もお礼がしたくてウズウズしてるようでしたし」
 陽光の中でアズラエルが微笑む。
 それはやはり、万年光の中で溶けずに輝く、氷河のような静かな眩しさだった。

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