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 ぼんやりと脱力した我が身を、なんとかジンジャベルは椅子へと座らせていた。
 ここはバルバレ、いつものおふくろさんの屋台だ。
「無事でよかたニャルよ、お嬢。ほら、たらふく食うニャル」
 目の前に熱々の料理が並べられるが、そのどれもがジンジャベルの目には映っていない。香ばしい匂いも、油の弾ける音も、何もかもが凍えた感覚に伝わってはこないのだ。
 九死に一生を得た、その実感すら今はなく、どうして自分が生きてるのかもわからない。
 イャンガルルガの猛追から、ただただエルグリーズに守られて脱した。命を拾ってすらいない、あの時エルグリーズが跳んでくれなければ……援護の矢が飛んでこなければ、今頃。
 込み上げる震えに今、ジンジャベルは小さく握った拳を膝の上へじっと見詰める。
 そんな彼女の視界に、そっと湯気に煙るマグカップが差し出された。
「だいじょぶ? ビックリさせちゃったよね。ほら、これ飲みなよ」
「あ、あなたは……さっきの」
 ようやく顔をあげたジンジャベルの視界に、一人の少女が微笑んでいた。歳は自分より少し上だろうか? もうすぐ少女という時代を駆け抜けつつあるだろう、美しい顔立ちの女性だ。背に弓を背負った彼女は、自分と同じモンスターハンターだと知れる。
 だが、今はもう自分をモンスターハンターだと思えなくて、ジンジャベルは身を硬くする。
 そんなジンジャベルの手にマグカップを握らせ、少女はポンと背を叩いてくれた。
「オルカー、この娘はええと……」
「ジンジャベル、ベルってみんな呼んでるよ」
 先ほどまでアズラエルやト=サンと話し込んでいたオルカが、こちらの方へとやってくる。なんだか顔向けができなくて目を背ければ、情けない気持ちにジンジャベルの視界は滲んだ。
 なにもできなかった。
 できることがなかったのだ。
 ただ、自分は勇気と無謀を勘違いした、ただのルーキーハンターだったのだ。
 そして、足手まといの役立たずだと思っていた裸のエルグリーズが、彼女こそが咄嗟の判断力と行動力を示した。その勇気にジンジャベルは救われて、今こうして生きている。
「……ボク、なにもできなかった。やばいと思った時にはもう」
「ベル、ジンジャベル。……気にすることはないよ。ほら、クルクマも心配してる」
 オルカの言葉は優しいが、その優しさが今は少し胸に痛い。
 先ほどからしきりに頭上をぐるぐる回る相棒の羽音ですら、今は耳の奥へ突き刺さるのだ。
 その時、不意にジンジャベルは頭を抱かれた。暖かくて柔らかな抱擁(ほうよう)だった。
「初めて怖さを知ったね、ベル? えっと、ベルって呼んでもいい?」
「え、あ……はい」
「その気持ちを忘れないことだよ。モンスターはどれも、恐ろしい大自然の一部なんだから」
「……はい」
 顔をうずめた胸の中で、少しだけジンジャベルは泣いた。
 ただ、顔を上げた時にはもう、零れた涙を拭って、溢れそうな涙は押しとどめる。そうして改めて、自分を慰め励ましてくれた人を彼女は見上げた。
「あ、ありがとうございます! えっと」
「アタシはノエル、ドンドルマのハンターだよ。オルカたちとは古い馴染みって感じ」
 頷くオルカと交互に見やって、改めて立ち上がるとジンジャベルは頭を垂れる。
「ボク、ジンジャベルです! ベルって呼んでください。助けていただいて、ありがとうございました!」
「やだなあ、かしこまって。それに、ベルを助けたのはアタシだけじゃないから。えっと――」
 ノエルは周囲をきょろきょろと見渡す。同じ人物を探して、ジンジャベルも首を巡らせた。周囲ではアズラエルがト=サンと、イャンガルルガについて真剣に言葉を交わしている。なにせ、幻の怪鳥種とまで言われた黒狼鳥(こくろうちょう)だ。もし狩れるのなら、得られる富と名声は計り知れない。
「えっと、エルは――」
「ほら、お嬢ちゃん。噂をすればって奴だ、帰ってきたぞ」
 キョロキョロとジンジャベルが周囲を見渡していると、同じテーブルで酒を飲んでいたキヨノブが杖をクイと持ち上げる。その指し示す先に、相変わらずインナー姿でこっちに向かってくる長身痩躯(ちょうしんそうく)があった。
 エルグリーズはジンジャベルと視線が合うと、まるで童女のような笑みで顔をくしゃくしゃにする。そして、手を振り名を叫びながら、こっちへと走ってきた。
「ベル、ベルベルベル! 大丈夫でしたかあ? エルは大丈夫です、このとーりっ!」
 そうして、あっという間にベルは抱きしめられて持ち上げられる。手のマグカップからお茶をこぼさないようにするのに苦労したが、頬ずりされながら奇妙な安堵感にじんわり胸が熱い。
 熱い抱擁の後、ようやくエルグリーズはジンジャベルを地面へと降ろした。
 それは、ノエルがその背に立つのと同時だった。
「久しぶりだね、エル。元気そうじゃないか」
「その声……あっ! やっぱり! お久しぶりです、ノエルッ! 助けてくれたのはやっぱり、ノエルだったんですね!」
「顔、近いって。それと……」
「はいっ! うわぁ、嬉しい再会です! ノエルのことも……ギューってしたいですっ!」
 一度ノエルから顔を離したエルグリーズは、両手をパッと広げて抱擁に迫った。
 だがその時、意外過ぎる光景にジンジャベルは絶句する。オルカも顔を手で覆った。
 ノエルに抱きついたエルグリーズは、派手に吹っ飛んで地べたに叩きつけられた。
「ふぎゃ!? ……いたた、ノエル? どうしたんですか、ノエル。今、殴られたかと思いました。なんでだろ」
「そうかい? 殴ったんだよ、エル。エルグリーズ、あんたを殴ったんだ、アタシが」
「おお、やっぱり! ……え? どうして? ノエル、あんなに仲良しだったのに」
 ノエルは固く握った拳を、まだ下ろしてはいなかった。そして、腫れて真っ赤な頬を手で覆うエルグリーズは、何が起こったかわからず目を瞬かせている。
 ノエルの小さな声が、やけにはっきりと周囲に響いた。
「……遥斗をほっぽって、どこ行ってたんだい? エル」
「それは、その……エルにも、色々と。あ、でもっ! 遥斗は元気ですか? 元気ならエルは嬉しいです。……元気でいてくれるだけで、エルには十分で、ぐっ!?」
 立ち上がったエルグリーズの首もとをひっつかんで、ノエルが精一杯背伸びする。頭一つ以上身長が違うので、吊るし上げるようにぶら下がって見えるノエルだったが……その全身から発散する怒気は、ジンジャベルには本物に見えた。
 この二人に何が……? 答を求めるようにジンジャベルはオルカを見る。
「そこまでにしてあげなよ、ノエル。ベルも困ってるじゃないか」
「オルカ……ごめん。ちょっとカッとなった。エルも、ごめん。けど!」
 ようやく手を離したノエルは、俯きながらも声を絞り出す。
「遥斗はね、エル……遥斗は。ドンドルマで」
「ドンドルマで? まさか」
「あいつは、大老殿に近付いた。エルのことをもっと知りたいって、古龍の研究をしてる機関にも出入りを初めて……そしてある日突然、詳細不明で未公開の緊急クエストを受けて」
 エルグリーズの白い顔が、さらに白くなって表情を失った。
 拳を握りしめたまま、ノエルは地面へと言葉を叩き付けた。
「帰ってこなかったよ、遥斗は……あの日からずっと、消息不明だ」
「そんな……! 嘘です、遥斗は強いんですよ? すっごく強くなったんです、だってエルを」
「そうだよ、あいつはドンドルマでもっと強くなった! けど! ……帰ってこなかったんだ」
 オルカがその場は諌めて、ノエルの細い肩をそっと抱く。
 だが、そのオルカも唇を噛み締め震えていた。ジンジャベルは後に、オルカにとって弟のようだった少年だったと知る。それが、遥斗という存在だったのだ。
「……ごめん、エル。エルが悪くないって、知ってる。でも、アタシはドンドルマでもずっと遥斗と一緒だったんだ。一緒だった、のに……止められなかった」
「ノエル」
「ねえエル。どうしてあの日、アタシたちの前から消えた? どうして遥斗と一緒にいてやらなかったんだよ……あいつが、遥斗が気にすると思う? エルが人間じゃ――」
 そこまで言って、慌ててノエルはジンジャベルを見ると、口を固く噤んだ。
 その意味が今は、ジンジャベルにはわからなかった。

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