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 ト=サンの買い物は順調に消化された。
 エルグリーズから頼まれた酒は買えたし、これは直接業者がキャラバンの荷車に届けてくれる。オルカには何冊か本を頼まれていたが、さる有名な吟遊詩人の全集が古本で手に入った。最初の一巻だけを手荷物に、残りはやはり配達してもらう。
「さて、あとはアズラエルに果物か。もう一度市場の方へと戻るとしよう」
 ト=サンは改めて、バルバレの中心街へと脚を向ける。この活気に溢れた砂漠の街を、気付けばト=サンは気に入っていた。自分の故郷に空気が、いや……匂いが似ている。
 乾いた空気と砂の匂い。男たちは皆、額に汗を流して働いている。女たちは皆が皆、華やかでしたたかだ。自分が育った鉱山の街にとてもよく似ている。それは小さな郷愁(きょうしゅう)を誘うが、寂しげに思う前に気持ちが晴れやかになるのだ。
「フッ、思えば随分と遠くに来たものだ。そして今また、さらなる遠くへ……因果だな」
 ト=サンは独りごちて小さく笑みを浮かべた。
 元が鉱山の発破(はっぱ)職人の育ちで、代々坑道を爆薬で広げて進める家業を生業(なりわい)としてきた。親方譲りのその技術を活かして、彼がモンスターハンターになったのには訳があるのだが……そのことを今は、ト=サンは胸に沈めて思い出さない。追憶を掘り起こすには、感傷という名の爆薬が足りな過ぎた。
 そうして我に帰って、ト=サンが背の荷物を担ぎ直した時――
「……ん? どうしたのかな、お嬢ちゃん。俺に、用か?」
 気付けば目の前に、小さな小さな少女が立っていた。
 年の頃はそう、まだ十かそこいらだろう。酷く痩せていて、伸び放題の黒髪もぼさぼさだ。着ている服もボロボロに汚れていて、ところどころから覗く白い肌が嫌に眩しい。
 長身のト=サンを見上げる少女は、弱々しい笑みでニコリと微笑んだ。
「おじ様、あの……」
 もじもじと少女は、背に隠していた両手で握る籠を差し出してくる。
 籠には、野で摘まれた花が色とりどりに競って咲いていた。
「お花、買ってください」
「花売りか」
「は、はい……お花。今朝、摘んできました。どれも、綺麗、だから」
 おずおずと上目遣いに瞳を向けてくる少女。その大きな目は潤んで星が揺れる夜空のような漆黒。黒髪黒眼の少女は、じっと哀願するようにト=サンの前から離れない。
 ト=サンはすぐに、この少女が哀れだと思ったが、それを己の中に訂正する。
 職業に貴賎はない。こうして少女は必死に生きているのだ。
「ふむ。ノエルやベルが喜ぶ……とは、思えん、が。あいつらはそういうタマではないからな」
「お、おじ様」
「ああ、すまん。こっちの話だ。では、適当に頼む。言い値で買おう」
 仲間である娘たちにとも思ったのだが、すぐにその考えを自分で否定したト=サン。しかし、差し出された花を前にノエルにかわいく赤面されても困るし、ジンジャベルに愛らしくはしゃがれても戸惑う。だがまあ、これから長い旅が始まるのだ。今夜の食卓へ花瓶に活けた草花があれば、きっと旅立ちの宴も華やぐに違いない。
 だが、そう考えて財布を出そうとしたト=サンは、以外な光景を目にする。
「……おじ様に、なら……いい、よ? 全部……全部、買って」
「全部、か。ふむ、まあ……そう言うなら。物入りなのだな? 訳は聞かんが、全部いただこうか。これで足りるか――あ、おい!」
 ト=サンへ花いっぱいの籠を押し付けるや、少女は代金も受け取らずに走り去った。彼女は一度だけ振り向くと、狭い路地の奥へと消える。
「困ったな、代金は渡さないと。……どこの街も暗部は一緒か」
 ト=サンはすでに察していた。どこの街にでもいる、彼女はきっと浮浪児だ。親もなく、住む家もなく、今日食べる食料も明日を生きる希望もない。それでも、死ねない今日を生きると誓って、必死に生き続けている子供なのだ。……ト=サンの過去が、それを教えてくれている。
 ト=サンは籠を手に処女を追って、薄暗い路地へと脚を踏み入れた。
 それは、聞き慣れた嫌悪すべき音が聞こえたのと、同時。
 肉が肉を打つ、人が人を殴る音だ。
「この糞ガキッ! うちの店の裏で客を取るんじゃねえ! 失せろ、失せやがれっ!」
 ト=サンの眼に惨劇が飛び込んできた。薄汚れた路地裏の地べたに、先ほどの少女が倒れている。そしてそれを、コックらしき大人が足蹴にしていた。彼は先ほど振るったばかりであろう鉄拳を頭上に、湯気を吹き出さん勢いで激怒している。
「ご、ごめん、なさい……でも」
「でも、じゃねえ! ここはなあ、ハンターが行き交う交易の街なんだ。お前らみたいな汚ぇガキが流入してくるから、街の評判が落ちるんだよ!」
「でも、お客さん、が……花、買ってくれたの。全部……だから」
「うるせえ! さっさと野垂れ死ね、このドブネズミが」
 男が唾を吐いて、それが少女の頬を汚した。
 次の瞬間には、路地裏に花が舞う。籠を手放したト=サンは、再び振り下ろされようとしていた拳を掴んで、籠を手放していた。
「そのへんでもういいだろう。大人が子供を殴るなど見苦しい」
「あ? なんだ、あんた。ああ、物好きな客か? 色街に行けばこんな貧相なガキじゃなくて、もっといい商売女が抱けるだろうに。……それとも、そういう趣味なのか? ええ?」
 無言でト=サンは、男の腕をねじり上げた。
 たちまち路地裏に絶叫が響いて、あちこちの窓が開くや視線が殺到する。
「花を買った、だから代金を渡しに来た。それだけだ。……街の評判というが、懸命に生きるこの娘とてバルバレの住人、街の一部ではないのか?」
「けっ! んなわけある、がへぇ!? い、痛ぇ! わ、わかった、わかったよ、離してくれ!」
 ト=サンは許せなかった。理不尽な暴力と差別、そして貧困が。
 そのどれもが、自分をモンスターハンターへと駆り立てた全てだったから。
 そして気付けば、自分の服の裾を掴んで立ち上がり、少女が首を横に降っていた。
「おじ様……駄目。人を、傷つけては、駄目」
「傷つけられたお前も人だろうに」
「……仮に、そうだと、しても。わたしは、おじ様にそういうこと、してほしく、ないの」
 その言葉でト=サンは、男の手を離した。
 だが、燻る怒りは収まらず、不条理への憤りが煮え滾る。
 それはもう、握った紙幣を少女に渡してやっても収まりそうにない。
「と、とにかくアンタ! おー、痛かった……ここいらでこのガキは客を取ってて、街のみんなは迷惑してんだ! 悪いこと言わねえ、関わるのはよしな」
「……わかった。最後にもう一度だけ確認しよう。この娘を、バルバレは拒むのだな?」
「あったりめえよ! 土地柄、俺たちはきれい好きなんだ!」
「ふむ」
 よく言ってくれると、ト=サンの怒りが冷たく尖る。
 きれい好きが聞いて呆れる、要するにきれいな街が好きで、そこに住んでる自分を好むだけだろうに。清濁併せ持つ人の道理もあって、それを望まず誰もが受け入れ認めるのが俗世漢(よのなか)というものだと、そういうものだとト=サンは知っている。
 ――納得はしていないが、そうやって飲み込まねば生きてこれなかった。
 ト=サンは少女の頬を拭ってやると、そのまま自分の半分ほどの矮躯を抱き上げる。
「わわっ、お、おじ様?」
「俺は仲間と街を出る。……一緒に来るか? 違う生き方もある、知るも知らぬもお前次第」
「わたしが……おじ様と?」
「俺だけではない。仲間も一緒だ。名は? 俺はト=サン、モンスターハンターだ」
 モンスターハンターだと名乗った瞬間、先ほどまで少女を足蹴にしていた男は血相変えて逃げ出した。散らばった花を踏みながら。
「わ、わたしは……ミラ。ひとりぼっちの、ミラ。街の外を知らない、ミラだよ」
「そうか。ではミラ、俺と来い。知って覚えて身につけて、それから好きに選べばいいさ」
「……いいの?」
「ああ。温かい食事と寝床がある。ただそれだけが目的でも、誰が笑おうものか」
 自分が決して笑わせない。無垢な命を嗤って暮らす、この街の暗部に埋もれさせはしない。
 そう誓うとト=サンは、ミラを抱いたまま光差す表通りへと歩き出した。

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