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 がたごとと揺れる竜車の荷台で、荷物と荷物の間にはさまりながらオルカはページをめくる。
 先日ト=サンが調達してくれた本は、長旅の共にはぴったりの超大作だ。ここではない時、いまではない場所。人間の想像力が創りだした物語の中で、神木(せかいじゅ)の迷宮に挑む冒険活劇にオルカは夢中だ。
 今も、山と積まれた荷物を超えて、友が背後に立ったことにも気付かない。
「オルカ様、お茶を淹れました。……オルカ様」
「あ、ああ、アズさん! ごめん、つい没頭してて。いつからそこに?」
「先ほどから呼びかけてましたが」
「ご、ごめん……」
 いいえ、と微笑を零してアズラエルが隣へと降りてくる。
 オルカはその手から温かなマグカップを受け取った。湯気をくゆらす熱い茶が満たされて、覗き込めば茶柱が立っている。シキ国の茶葉は今日もいい香りをオルカの鼻孔へと運んできた。
「何をお読みになってるんですか?」
「んー、一大叙事詩ってとこかな。スケールの大きな物語は嫌いじゃないし。アズさんは?」
「ト=サン様と爆薬を調合していました。これから先も必要になると思うので」
「あいかわらず狩りの準備に余念がないね」
 我らが団のキャラバンは今、ナグリ村へ向けて街道を西進中だ。午後の日は高く、日差しは強いが風はもう涼しい。でこぼこな道のりを今、アプトノスの引く竜車はガタゴト車輪を鳴らしてゆっくり走った。
 オルカは茶を一口すすって感嘆のため息を零すと、再び本のページをめくりはじめる。
 なにも言わずにアズラエルも、隣に長身を折りたたむように座って茶を飲み始めた。
 二人の時間がゆっくりと進み、言葉はないのに会話が成立していた。
 そして、車列の後ろからは賑やかな女性陣たちの声が聞こえる。
「よしっ、散髪終了っ! どうだい、アタシの腕も捨てたもんじゃないだろう?」
「ノエル、凄い……よかったね、ミラ。ほら、すっごくキレイになったよ!」
「ありが、と、う。ノエルも、ベルも」
 ふと本から顔をあげれば、後ろの荷車ではミラが散髪を終えて立ち上がったところだった。ノエルは器用にハサミをチョキチョキ歌わせながら、どうだと言わんばかりに得意顔。ジンジャベルもほうきで切り落とした髪をはきながら、ニコニコの笑顔で猟虫クルクマと顔を見合わせていた。
 切りそろえた髪を風に遊ばせるミラは、小汚い浮浪児の面影を脱ぎ捨てた可憐な乙女だった。
 その姿を見詰めて目元を緩めていると、隣でやはり同じようにアズラエルがはにかむ。
「いいものですね。最初はト=サン様の正気を疑いましたが」
「ああ。でも、団長が了承したことだしね。それに……やっぱり子供には笑顔が一番だよ」
 二人は並んで頷き合う。
 オルカの視界では今、ノエルとジンジャベルが自分たちの着替えを持ち寄って、ミラのボロ着を脱がせにかかっているところだった。自然と目を逸らせば、遠くの稜線(りょうせん)は緑に()いでいる。夏はもうすぐ過ぎ去り、もうすぐ黄金の秋が訪れようとしていた。
 かしましい二人の間で、戸惑い気味だったミラの声も次第に子供らしく弾んでゆく。
「俺もよく、姉さんに髪を切ってもらったな。うちは女の強い家でさ。アズさんは?」
「私は自分で……邪魔にならなければ気にしないので」
「そ、そう」
 そこで一旦話は途切れた、かに見えたが……アズラエルは両手でマグカップを包みながら言葉を続ける。その声音は心なしか、普段の抑揚に欠く冷たいものとは別種に感じられた。
「最近はでも、キヨ様が切ってくださいます。キヨ様は本当に器用で」
「そうか、キヨさんが。面倒見がいいんだよなあ、前から」
「そうなんです、いつもこう言うのです、キヨ様は」
 立ち上がったアズラエルは数歩前に出て振り返る。
 そうしてゴホンと咳払いを一つすると、
「アズ、お前ぇもちったあオシャレと身だしなみに気をつけな? もったいねえぜ、男前がよ」
 こういう具合です、とキヨノブの声真似をしてみせた。
 全然似てない、物真似にすらなっていないが、自然とオルカは頬が綻んだ。
「そういう訳で、私も以前より気にかけるようにはしてるのですが」
「アズさん、そういうの苦手そうだもんね」
「自分に関心を持つのは、それは難しいことなのです。……おかしいでしょうか」
「いいや、ちっとも」
 笑ってオルカは、目の前で頭をバリボリとかきむしるアズラエルを見上げた。
 その向こうでは、着替えを終えたミラがくるりと回って自分を見渡している。おそらく彼女もそうだろう……自分に関心を持つ余裕はなかったはずだ。自分自身は唯一の商品(うりもの)にして財産、それ以上でもそれ以下でもなかったのだから。
 だが、そんな日々はト=サンがこれから終わらせてくれるだろう。
 何を始めるかは、ミラ次第だが。
 オルカの視線を追って、振り返るアズラエルも目元が優しく緩んでいた。
「まあしかし……オルカ様。ミラ様を快く思わない者もいるようです。その、まあ、私は別にどうでもいいのですが……あの笑顔、いつでも見守りたいですね」
「うん。……そうなんだよね、どうしてそう毛嫌いするのかな、エルは。ねえ、エル?」
 栞を挟んで本を閉じると、オルカも立ち上がって振り向いた。
 ミラたちの荷車とは逆、前をゆく荷台にその姿がある。エルグリーズは難しい顔で、じっとミラを睨んでいるのだ。一定距離を保ちつつ周囲を翔ぶ猟虫クガネにも、今日ばかりはじゃれつこうとしたりしない。
 そう、ミラを毛嫌いして邪険に振舞っているのは、誰であろうエルグリーズなのだ。
「オルカ、エルは警戒してるデス! むぎー!」
「なんでまた……せめて理由くらい教えてよ」
「ミラは……ミラは、ミラは! ……ちやほやされてます! エルは羨ましいのです!」
「……あ、そう」
 がくっ、と力が抜けて、やれやれとオルカは苦笑を浮かべた。
 アズラエルは相変わらずの無表情だったが、呆れ顔という感じにオルカには見える。
「エルもちやほやされたいです! 甘いものやお酒をたんまりとみんなにお世話されたいです。髪だって……」
「ノエルに頼めばいいじゃないか。仲直りしたんだろ? 行っておいでよ」
「ほら、噂をすれば……ミラ様たちがエル様を呼んでますが」
 ちらりと見やれば、旅団の三人娘がエルグリーズを呼んで手招きしている。
 だが、ぷぅと頬を膨らませて腕組みすると、エルグリーズはそっぽを向いた。
「ふーんだ! ……なんかミラは好きくないです。どうしてだか、それは……わからないですです! けど! なんだかこう、嫌な予感がするデス」
「それじゃ駄々っ子だよ、エル……困ったなあ」
 ちらりとアズラエルを見やれば、頷きが返ってくる。
 アズラエルは「僭越ながら」と二人の間に言葉を挟み込んだ。
「エル様、よければあとで私が髪をお切りしましょうか」
「ホントですか!? やたっ、アズはやっぱりいい人ですね! エル、大好きです」
「私はそうでもないですが。あとでお酒もご用意しましょう。おやつも」
「じゅるり……ア、アズゥゥゥゥ! エル、こういうのを待ってたです」
 ひょいと一足飛びにアズラエルに抱きつこうと跳んだエルグリーズ。それをサッと無慈悲によけつつ、アズラエルは言葉を続けた。
「エル様は我らが団のアイドルですから。まあ、そのご威光を示してやれば、ミラ様だってきっとエル様にちやほやしてくれますよ」
「ゴイコーをシメス……もっと簡単に言ってください! そ、それは?」
「ミラ様は大変苦労をされてきた方です。エル様ほどの人ならば、優しくしてあげてもバチは当たりませんよ。それどころか、流石はエル様とみんな改めてちやほやするでしょうね」
「おお! おお、おお! それです、アズ! エルが求めてるのはそーゆーのですっ!」
 ちょろい。
 ちょろすぎる。
 思わず込み上げる笑いをオルカが飲み込んでいた、その頃だった。
「うおーい、ナグリ村が見えてきたぜぃ? ……なんか様子が変なんだけどよ!」
 先頭の車両で御者をしていたキヨノブの声に、オルカは目を見張った。
 鉱山と鉄鋼業の集落、ナグリ村……だが、溶鉱炉の火も薪を燃やす煙も見えてこないのだった。まるで沈黙したように静かな寒村が、徐々に近付いてくるだけだった。

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