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 ――激震。イサナ船の竜骨を伝う衝撃が、客室のエルグリーズを叩き起こした。
 先ほどの荒波とは別種の何かが、急造のイサナ船を大きく傾かせる。
「はぎゃっ!? なっ、なな、何事ですか!?」
「と、とりあえずノエルを助けてあげないと……樽が崩れてきた、下敷きに……うっぷ!」
 ちょうどハンモックで昼寝していたエルグリーズは、何かが激突する揺れで床に叩きつけられた。その横でぐったり寝ていたオルカが、青い顔を白くさせながらヨロヨロ立ち上がる。彼が助けようとしているのは、読書中だったノエルだ。かわいそうに、崩れてきた樽の山へとその姿は完全に埋没している。
 慌ててオルカに手を貸そうとしたその時、
「クソッ、武器を持ってこい! ……こいつぁ、何だ? ()()()()()()()()()()()!」
 甲板の上から団長の叫び声がした。
 そして、その声をかき消す絶叫。聞いたこともない咆哮と共に、イサナ船を織りなす木という木がビリビリ震える。
 咄嗟にエルグリーズは、部屋を転がるように飛び出た。
 そのまま廊下に立てかけていた大剣を手に取り、背負いながら階段を駆け上がる。
 大きくうねるように揺れる甲板上に、それは待っていた。
「こっ、これは……え? 嘘……エル、こんな子は知らないです! あなた、誰?」
 そこには、暗雲渦巻く嵐を背負った影が(よど)んでいた。そう、漆黒の影……古龍とも飛竜ともつかぬ不思議な生物が、敵意を剥き出しにして吠え荒んでいる。
 周囲の闇さえ眩しいほどの暗黒……さながら浸蝕する虚無の深淵。
「エル様、気をつけてください! 先ほど突然こいつが……」
「おいぃ、ト=サン! 先に船尾へいけ! ミラちゃんを守るんだよ!」
 アズラエルに庇われながら、キヨノブが何かを叫んでいる。その横では、ミラを抱えたト=サンも言葉を失っていた。そればかりか表情も抜け落ちたよう。あの熟練狩人のト=サンでさえ。まるで初めて竜を目にした時のような……初めて龍に触れた時のような。
 だが、そんな中でも冷静だったのはアズラエルだ。
「キヨ様、掴まってください! 最悪、海へ飛び込みます」
 キヨノブを軽々と肩に担ぎ上げると、アズラエルはト=サンを先に行かせつつ船尾へ走る。傾斜がいよいよきつくなった甲板上を波が洗い、ひっくり返りそうになったエルグリーズは目一杯海水を飲まされた。
 武装していればアズラエルやト=サンは戦えたかもしれない。
 武器はなくとも、バリスタの弾を取り出し、砲弾を運び出すことで応戦も可能だろう。
 だが、今の二人には優先して守らねばならぬ者が側にいた。
「とっ、とりあえずエルが食い止めるです! 皆さんは隠れててくださいっ!」
 すでに激流の最中、大河のような甲板上をエルグリーズが走る。その先で翼を広げる姿は、異形にして異様。翼自体が第二の前肢であるかのように、大きく広がってマストを鷲掴みにする。
 ミシリと嫌な音を聞いた時、反射的にエルグリーズは踏み込み抜刀していた。
「それをっ、折っちゃあああああ、ダメッ、です!」
 直後、インパクト。大上段から振り下ろされた刃が断頭台(ギロチン)の如く敵意に落ちてゆく。
 だが、ぬるりと暗油が濡れて滴るように、目標は軽々とエルグリーズの一撃をいなして避けた。その図体、巨体からは想像もできない身軽さ。
 咄嗟のことで二の太刀を繰り出せず、エルグリーズの混乱は度合いをましてゆく。
「おかしいです、エルの知らない子……こんな子、あっち側にもこっち側にもいなかった!」
 そう、エルグリーズたちの陣営にも、相対した敵陣営にも。遙か太古の昔、星を二分して戦われた人龍大戦で生み出された攻性生物……飛竜と古龍。両者は相討つ存在であり、その当時の科学力を凝らして作られた生体兵器だったのだ。今は退化してその名残を残しつつ、大自然の一部として生きるそれらを、エルグリーズは全て知っていた。
 何故なら、彼女自身がその頂点である古龍の生体コアだったから。
 だが、その彼女の知らない脅威が目の前にいる。
「……来るっ!」
 大剣一振りインナー姿で、エルグリーズは大きく両足を開いて腰を落とす。裸足の脚と脚とが甲板を掴んで、防御に身を固めた瞬間だった。船体を軋ませ甲板上を飛ぶ影から魔手が伸びる。翼にも見える副腕のような器官が、大きくせり出しエルグリーズを襲った。
 衝撃に後ずされば、全身の骨と肉とが悲鳴をあげる。
 それでもエルグリーズは、人知を超えた膂力(りょりょく)胆力(たんりょく)とで凌ぎ切った。
「くっ! なんてパワー!? 鎧竜や角竜にも匹敵するです……イテテ、手が、痺れて」
 甲板の上を転がり身を投げるエルグリーズへと、執拗に追撃の手が伸びる。逃げても逃げてもそれは、イサナ船を壊しながら迫ってきた。
 あたかも、エルグリーズを狙っているかのように。
「こんにゃろっ、何か打開策を……せめて船首におびき出せれば撃龍槍で、あっ!」
 追い詰められた瞬間にはもう、身を守る大剣が弾かれ飛んでゆく。それは遠く波間の彼方へと消えた。遺跡平原奥地で発掘した、錆だらけで風化した武器でも、なくなってしまうと既にエルグリーズは無手の徒手空拳。無防備な彼女へと容赦なく、澱む(やみ)よりのブレスが注いだ。
 夜を凝縮したような漆黒の吐息が、凍える冷気でエルグリーズを(あぶ)る。
 のたうちまわるエルグリーズは、遂に捕まった。
「うぐぅ? あ、あがが……エル、を……狙っ、て? どうして」
 巨大な左右一対の腕が伸びて、エルグリーズの身を握り締めてくる。強力な力で圧縮されたまま、エルグリーズは高々と持ち上げられ……そして、甲板へと叩きつけられた。
 何度もバウンドするエルグリーズはやがて、大の字に天を仰いで動けなくなった。
 その上に容赦なく、黒い害意がのっそり身をかぶせてくる。
 ――もう、ここまで? ここが、旅の終わり?
 突如現れた理不尽と不条理の闇に、エルグリーズが飲み込まれそうになった、その時。見上げる空、闇衣を広げる敵の向こうにエルグリーズは見た。雲の切れ間に飛ぶ、それは――
「あれは……古流観測所の、気球船……? あっ」
 キラリと光った高高度の気球船から、何かが純白を広げる。落下傘だと気付いた時には、そこから切り離された何かが降りてきた。……否、まるで弾丸のように落ちてきた。
 ガンッ! と船首側に着弾したそれは、ゆっくりと煙を巻き上げながら立ち上がる。よく見れば人のシルエットをした、強固な装甲に覆われた鋼の狩人。重甲虫ゲネル・セルタスの素材を幾重にも重ねたその鎧は、ガシャリと鳴って厳つい姿を甲板上に現出させた。
 その方向へと、ぬめるように首を巡らす黒き魔物。
 常人ならば握り潰され全身バラバラの圧力に屈しながらも、エルグリーズは目を見張る。
 突如空より現れた狩人は、背の巨大な盾を取り出し、対となる剣を手に取ったのだ。
「この子と、戦う気で……ダメです、逃げてください! この子、普通じゃ――」
 だが、エルグリーズの声を無視して、むしろその言葉に頷くように狩人が甲板を蹴った。同時にエルグリーズを放り出した魔物もまた、黒衣を翻して疾駆する。
 そして、激突。真正面からぶつかる力と力の中で激しい金切り声に盾が歌った。
「エル様、大丈夫ですか? さあ、掴まってください」
「あれは……まさか、チャージアックス? もう実用化されているのか? 誰だ、一体!」
 エルグリーズは放心したまま、アズラエルとト=サンに救い出された。そうして、人と魔との戦いから遠ざけられる。重装甲の狩人は、剣と盾とで巧みに黒邪の爪と魔手とをさばききる。そうして、その重量感からは想像もつかぬ華麗なステップで後ずさると、
「むう、やはりそうか! 全員伏せろ! 属性解放の余波で吹き飛ばされるぞ!」
 ト=サンが叫ぶのと同時に、その男は手にした盾に剣を接続、そのまま振りかぶって身を沈める。刹那、何かを圧縮するような高音が唸るように響いて盾を輝かせた。
 エルグリーズは気付けば、その狩人が男だと確信していたし、知っているような気がした。
 それが何故かを理解するより早く、剣を接続された盾が変形してゆく。
 巨大な戦斧へと変貌を遂げた武器を、狩人は迷わず振り抜いた。
 同時に、沸騰していた場の空気が弾けて、渦巻く周囲にエルグリーズは吹き飛ばされそうになる。これが、ト=サンの言っていたチャージアックスの威力……恐るべきその破壊力。
「むう、見ろ! 奴が空へと逃げるぞ!」
「ふう、これで一安心、でしょうか? ですが……あのハンターは」
 エルグリーズには、わかった。感じたのだ。
 それは、別れを告げて別れるべき人で、再会を祝して再会したい人……そんな気がして、それが確信に満ちてゆくのだけが全てだった。
 薄れゆく意識の中で、確かにエルグリーズはその名を呼んだ。
 去ってゆく嵐の中、暴魔の襲撃者(イントルーダー)が消えたイサナ船は今……ゆっくりと海中に没しつつあった。

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