ひんやりと冷たい空気は、まるで肌を突き刺すよう。白い闇を抜けて上昇した飛空艇イサナ号は今、雲海の
マグを握るオルカよりも、高高度の空気が熱をあっという間に奪っていった。
それでも、凍える寒さの中でオルカは動けない。
それほどまでに飛空艇から観る景色は絶景だった。
「オルカ、下の船室でみんなと騒がないですか?」
気付けばオルカの隣には、両手に肉と酒を持ったエルグリーズが現れていた。まだまだ日は高いのに、既に船室では出港祝いの宴が始まっている。先ほどまでオルカもその場にいたが、新たな冒険に出発して団長も団員も皆、上機嫌だった。
我らが団の旅は今、未開の
「エル、君はいいのかい? まだまだノエルの振る舞う料理も沢山あったし、お酒だって」
「いいのです! オルカ……これはですね、風流なのです。ふーりゅー!」
「お、おう」
「エルは天空の風を肌に感じて、肉を貪り酒をかっ食らうのです。ああ、おいひい……オルカはちゃんと食べましたか? 飲んでますか? 酔えましたか?」
「や、俺はそんなにお酒は……ただ、エルの気持ちも少しはわかるよ。ほんの少し、ね」
「はいっ! こうして空高く船を浮かべて、新天地への旅路です。……人類、凄いです」
酔っ払ってはいるが、エルグリーズは確かな足取りでオルカの隣に並ぶ。そうして手すりにしどけなく身を預けながら、彼女もまた遠い目で遥か彼方を見やった。
今、高速で疾走る飛空艇からは、夕焼けの空が西に燃えている。
こんな光景は、大地を闊歩してるうちは見られないだろう。
「壮大なもんだね」
「はいです!」
オルカは珍しく自分が感傷的になっているのを感じていた。人の力、文明の叡智は今、こんな空の高みにまで手を伸ばしたのだ。
だが、同じ感動をわかちあうエルグリーズは、オルカとはまた違う感慨があるようだった。
「人類とは凄いものですね、オルカ。ヒトはまた、大地を制して大海原を渡り、この蒼穹にまで……本当に凄いです」
「エル……」
エルグリーズは人間ではない。両性を併せ持つ身体は、老いも死も知らない旧世紀の産物だ。彼女は遥か太古の昔に作られた、古龍の生体コアなのだ。かつてタンジアの港を襲った恐るべき破壊の権化、
彼女にとって今という一瞬は、数千年も生きてきた中の刹那の瞬間でしかない。
だが、それを慈しむエルグリーズのことが、オルカは好きだった。
好ましいと思う反面、異性としての魅力は全く感じないが。
「それでエル、君も初めてなんだっけか? 天空の村……竜人族の里は」
「はい! 竜人族の集落はあちこちに隠れるようにありますが、天空の村は初めてです。うー、ワクワクしますぅ〜……どんな冒険が待っているんでしょうか、そしてオルカたち人間はどんな活躍を見せてくれるんでしょうか!」
「はは、期待されても困るよ」
「でもでもっ、オルカたちはエルが知ってる人類とはちょっと違います。違うんです!」
そう言って酒を一息に飲み干すと、あぐあぐと肉をはみながらエルは語る。
かつて太古の昔、遥か過去の旧世紀……人はこの惑星のことをラグオルと呼んだ。天の果てより母なる星に見限られて旅立った人類は、このラグオルに漂着したのだという。だが、新天地を得た人類たちを待っていたのは、戦いの日々だった。
さらなる古代文明の負の遺産、その悪しき妄念との戦い。
それを終えた人類が始めた、人類同士の互いを奪い合う戦い。
戦いに次ぐ戦い、戦いのための戦い。
その末期、人は互いに大義を掲げていがみ合い、禁忌の術に手を染める。今は古塔と呼ばれるシステムを構築した一派は、星の龍脈より吸い出したエネルギーをもって、おそるべき攻性生物を生み出した。
それが、古龍。人を排除しシステムを守ることを本能として持つ、最強の生態系。
しかし、反乱軍側もまた、古龍より得られたデータより飛竜を生み出し戦った。
これが人龍大戦と呼ばれる戦争の全てだ。
だが、勝者も敗者も等しく滅び、今のオルカたちの時代になにものも残してはいない。ただ、今は神と崇められる人たちの偉業の幾つかが、民話や伝承に残るだけである。古龍も飛竜も人の手を離れ、野生の動物としてこの星に定着した。
人と人の争いに勝者はなく、その全てを惑星ラグオルは受け入れたのだった。
「人類って強い……強いです。それでいて、弱いのに優しくて、ずるいくらいに温かいです」
「それは、遥斗のことかい?」
「えっ? そ、そそ、それは! ちちち、違うですよオルカ、違うです……秘密です」
「遥斗、一緒に来られなくて残念だったね」
オルカは長身のエルグリーズを見上げてはにかむ。エルグリーズは白すぎる肌を紅潮させると、あわあわと慌てて肉に顔を埋めた。こんがりと焼かれた肉を頬張りつつ、彼女は自分の想い人のことを一時忘れようとしていた。
今や古龍観測所のハンターとなった遥斗は、この新しい旅に同行していなかった。
クイントやイサナ、ラケルと一緒に残ったのだ。
彼らはギルドや古流観測所と協力して、初めて生け捕られた
それでも、オルカは新たな謎があるだけで、気持ちがワクワクと弾む自分を自覚していた。
とりたててこれといったものを持たぬ、平凡な狩人であるオルカでさえ、好奇心と探究心を駆り立てられずにはいられないのだった。
「遥斗はお仕事ですから! エル、遥斗が生きててくれただけでいいです。生きてれば、死ぬまでにいつか会えるですから」
「そうだね。不思議だな……遥斗も同じことを言っていたよ」
「はいです!」
徐々に稜線を赤く染めていた夕日が沈む。
再び登るために一時身を隠して、太陽は夜へと空を明け渡そうとしてた。
オルカはエルグリーズに声をかけて、船室へ戻ろうと歩き出す。
手にしたマグはもう、熱を失い空っぽになっていた。
闇夜を呼び込む空の空気は冷たく、風はオルカたちが向かう先へと吹き荒んでいた。