夢は、蜜。甘い甘い、蜜。  遠く遠くに遠ざかる程に、濃密な甘さが眠りをとろけさせる。 『エル、エルグリーズ……僕のかわいいエルグリーズ。さあ、おいで』  エルグリーズは夢を見る。  惚けてふやけるほどに甘い、媚薬のような夢を。 『さ、パンにハチミツを塗ってあげるね。ビスケットにも……ああほら、そんなに慌てないで。あーん、して』  恋する前に恋を忘れた、愛する前に愛を捨ててきた。そういう一年の間、ずっとエルグリーズは夢を見る。眠る度にそれは、切なく優しく龍の魔女を苛み慈しむ。  夢の中でいつも、その少年は笑顔でエルグリーズを迎えてくれる。 「ふぁ……おいひい。むにゃにゃ、遥斗……もっと、もっと食べたいですぅ〜……ふぎっ!」  ハチミツ色の夢は唐突に終わり、エルグリーズの世界が暗転した。遠く暗がりの向こう側へと、愛しい追憶が去ってゆく。  ハンモックが大きく揺れて、エルグリーズの長身は真っ逆さまに脳天から床へと落ちた。  ガコン! とものすごい音が響いたが、さらなる空気の震えは断続的に船を揺らす。今、エルグリーズを乗せた交易船は、熱砂の海を快走していた。筈だった。エルグリーズが夢にうつろう、その間ずっと。 「い、痛いです……遥斗、エルの頭が……ほえ? ……ま、また、あの夢」  のっそりとエルグリーズは、頭を擦りながら涙目で身を起こす。さらりと溢れる緋色の長髪が、その奥に緋色の双眸を潤ませていた。真っ白な肌はインナーしか身につけておらず、起伏に富んだ長身はまだ半分寝ているようで重い。  それでもエルグリーズは、即座に船の異変に気がついた。  船倉の天井を見上げれば、頭上の足音はけたたましい。彼女の世界は傾いており、怒号と悲鳴が轟音に入り交じる。慌てて飛び起きたエルグリーズは、未だ夢の残滓に火照る身を奮い立たせた。そうしてそのままはしごを駆け上がり、陽の光に身を晒す。  甲板上は阿鼻叫喚の大混乱で、船体を覆う巨大な影がエルグリーズを出迎えてくれた。 「クソッ、沈むぞ! ダメージコントロール!」 「舵がきかねえぞ、クソッタレ!」 「頑張れ、バルバレまであと少しだ! 浅瀬に逃げ込めばこっちのもんよ!」  船員たちは皆、血相を変えて右に左にと走り回る。  よろけながらもエルグリーズは、四つん這いに甲板上を這って歩いた。転がるタルが散乱する中、どうにか手すりにつかまり立ち上がる。  目の前に今、巨体をもたげた砂海の王がエルグリーズを睥睨していた。 「豪山龍! ダレン・モーラン!」  傾きながらも風に乗る船は今、並走する巨大な古龍の影に飲み込まれていた。  荒ぶる大自然の脅威は、砂をまき散らしながら巨体をぶつけてくる。バリバリと木が割れて鉄が弾け、その都度船は砂へと沈みながら必死で走る。 「……攻城種。大地を統べる猛鯨……あれもまた、狩らなきゃです。古龍は、全てエルが」  揺れる甲板上に立ち上がるエルグリーズの、紅蓮の瞳に光が宿る。彼女はしかし、鋭い眼差しに使命感を込めた瞬間、喉元を迫り上がる酸味に口を手で抑えた。  船酔いだ。 「エルが、この世の古龍は、全て、ウップ! う、うぇ……ま、また今度頑張るです」  足元に転がり込んだ小さなタルを蹴りあげ、それを抱きしめるやエルグリーズは生理現象に従った。こんなとこだけは人並み以上で、どちらかと言えば凡人以下。聞くにたえない流動音も、周囲が聞いていないのをいいことに遠慮無くぶちまけられる。  命の危機を前に呑気で豪胆なことだが、それがエルグリーズの全てだった。 「おいそこ! ねーちゃん、なにやってんだ!」 「手前ぇもハンターだろうがよ、手伝え! いいから大砲の弾を運ぶんだよぉぉぉぉ!」 「おっさん、アンタはもう下がってな! 怪我人の出る幕じゃねえ」  他のハンターたちは皆、忙しく戦っていた。両手いっぱいにバリスタの弾を抱えて銃座に座り、手の空いた者は誰もが大砲の弾を求めて船尾へ走る。  そんな中、エルグリーズの隣に一人の男が腰を降ろした。 「やれやれ、とんだ船旅になっちまったなあ。イチチ……それより、あれをどう取り戻すか」  髭面の男は眉間にしわを寄せながら、鮮血の溢れ出る二の腕を手で抑えている。出血は派手だが、命に別状はなさそうだ。  それがわかってて尚、エルグリーズは大げさに緋髪を逆立て甲高い声をあげた。 「おじさん、血が! 血が出てるです!」 「ん? あ、ああ。なんの、掠り傷だ。ちょいと破片がえぐっただけよ」 「ダメです、血が出すぎると人間は死んでしまうですよ? 絶対にダメです!」  エルグリーズは知っている。人間の命は儚く弱い。自分とは違って。些細な怪我や病気で、生命の灯火はあっという間に掻き消えてしまうのだ。それでも、たったひとつのか弱い我が身を、人間たちは戦いへと放り込む。望むと望まぬとにかかわらず、人間の闘争心が向かう先は一つだった。  その古い歴史が連なる今を、エルグリーズは悠久の刻を超えて生きる。  全ての龍を狩り尽くすために。 「エルが手当するです! おじさん、じっとしてるです!」 「か、顔が近ぇな、お嬢ちゃん。ありがとよ」  額を擦るように顔を近付け、男を覗きこんでエルグリーズは意気込む。そうしてインナーの上を引き千切れば、たわわな二房の実りがまろび出た。それにも構わず、引き裂いた布で止血をしながら、不器用に包帯代わりにして結ぶ。その間もずっと、船は傾斜を増していよいよ沈没寸前まで追い込まれていた。  この暑さと湿度で砂漠に放り出されれば、半日と待たずに全員死んでしまう。  そのことは頭でわかっているが、それでもエルグリーズは目の前の流血から離れられない。 「これでよしです!」 「こりゃまた豪快に結んでくれたな、お嬢ちゃん! よしよし……ついでだ、一つ頼めるかい?」  白い布地に覆われた傷を擦りながら、男はニヤリとダレン・モーランを指さす。  ついと目線を巡らせれば、エルグリーズの視界に小さな赤い何かが横切った。それは、ダレン・モーランの切り立つ岩盤のような背中に引っかかっている。目を凝らしてよく見れば、その物体は―― 「俺の帽子が飛んじまってね。大事なものだ、ちょっと取ってきてくれねえか?」 「大事なもの……それはつまり、大切なものですね! 任されますです!」  顕な裸体も顧みず、エルグリーズは立ち上がった。その眩しい姿に見とれる余裕は、今の周囲には微塵も存在しない。彼女は揺れる甲板でうまくバランスを取りながら、近付くダレン・モーランへと跳躍する。  真っ青な空に白い肌と紅い髪が舞った。 「よっと! っとっとっと……凄い甲殻と鱗。龍齢四百年はくだらぬ大物です。なんて立派……」  感心に頷きながらも、エルグリーズはダレン・モーランの背を登り出す。背中は船が鳴らす銅鑼の音を聞いていた。その衝撃に身を捩る巨大な豪山龍は、徐々に船から離れてゆく。そのことにも気付かず、ゆっくりとエルグリーズは風になびく帽子へ手を伸べ掴みとった。  その時、帽子の中から輝きが転がり落ちた。  慌てて拾い上げれば、手の内に不思議な虹色の光。 「これは……鱗? ですか? ……エル、知ってます。これって、わ!? わわっ」  その時、耳をつんざく咆哮と共に、天へと向かってダレン・モーランが身を屹立させた。  急に傾斜を増す中で、エルグリーズは転がり落ちて何度もあちこち擦りむき、それでも帽子を手放さない。どうにか甲殻の継ぎ目を掴んで体勢を整えた、その時にはもう交易船は徐々に小さくなってゆく。  怪我を抑えて立ち上がる男の隣から、声が走った。 「エルグリーズ様! ……ですよね、あれは。あのハチャメチャっぷりは」 「ああ、間違いねえな。あの無茶ぶりとむちぷりは、モガの森の魔女エルグリーズだ。おいアズ」 「はい。では……ロープを投げます! 飛び降りてください!」  その声に弾かれるように、エルグリーズは意を決して砂の海へと飛び降りた。  同時に、放られたロープがうまい具合に身体に巻き付く。何度も波間にバウンドして打ち身にまみれながら、必死でエルグリーズはロープを手繰った。だが、帽子を手放さないので片手が不自由なため、どうにもうまく身体を安定させられない。 「んぎぎぎぎぎ……あ、あれ? 絡まっ……わ、わわ! はれれ、ダメですぅ」  背後では巨大な砂柱を立てて、ダレン・モーランが大地へと潜ってゆく。  どうやらこの砂海の主は、交易船を襲うのを諦めたようだ。肩越しに振り返るエルグリーズは、その上空で群れをなすガブラスが遠ざかってゆくのを見る。じたばたともがきながら、なんとか手繰るロープは幾重にもエルグリーズの裸体に絡まり締めあげてきた。 「た、助かったです……あ、あれ? 力が、急に……」  極度の緊張感から解放されたエルグリーズの視界が狭くなってゆく。  同時に、痛みすら忘れて遠ざかった。  疲労感に重い体の感覚が、意識とともに引き剥がされてゆく。  重くのしかかってくる瞼の裏には、先ほどの声が騒ぎの中でロープを引っ張ってくれた。 「おいおい、なんだこりゃ? 亀甲縛りみたいになってるじゃねーか」 「キヨ様、笑い事ではありません。引きずり上げますので下がっててください。エルグリーズ様、大丈夫ですか?」  呼びかけてくる声が遠ざかる。  エルグリーズが落ち込む闇の中には、もう甘い夢は舞い降りてはこなかった。