広がる海原は穏やかに凪いで、進む船は帆に風をはらんで馳せる。  白い飛沫をあげる波濤の先へと、アズラエルたちを乗せたイサナ船は全速で進んだ。  今、アズラエルたち我らの団の団員たちは、船上の人となって未開の地を目指す。出港したナグリ村を出てもう三日、大洋は振り向くも水平線、見据えるも水平線……見渡す限りの青い空と青い海。 「いい風だな、アズ」 「ええ。近くに雨雲もありませんし、航海は順調そのものです」  双眼鏡から目を離したアズラエルは、傍らで樽の上に座るキヨノブに向き直る。それはまるで、主人に従う忠犬のようで。だが、昔と違ってアズラエルの表情は穏やかだ。  穏やかだと断言できるのはキヨノブやオルカといった親しい者だけ。  凍れる無表情のアズラエルから表情を読み解くには、交わした絆の深さと太さが必要だった。 「そういやアズ、オルカの奴はどうした? こんないい天気なんだ、茶でも酒でもなんでもいい、適当に囲んで遊ぼうぜ」 「キヨ様? そうやって実は、最近覚えた博打でオルカ様を驚かせたいだけでは?」  遊び人を気取るキヨノブは、「お見通しかよ!」と、ピシャリ自分の額を打つ。この片足の不自由な男は不思議な人物で、かつてはアズラエルと一緒に野山を生きるモンスターハンターだったとか。  だが、今はちょっと覚えたサイコロ遊びで知己をカモにしようという、そんな安っぽい一面を無邪気にのぞかせる青年だった。 「キヨ様、ゼニーを賭けないのなら私がお相手するのですが」 「いやいや、まてまて! お前は、なぁ……妙な運が強過ぎるんだよ。もっとこう」 「エル様やト=サン様のような?」 「そう、ああいう感じのカモいのを、ちょちょっと……まあ、やり過ぎないようにはしてんだぜ? 全額巻き上げたら可愛そうじゃねえか。……でも、賭けねえと面白くねえしよ」  そう言ってキヨノブは、手の中にサイコロを遊ばせている。  妙な遊びを覚えられたとアズラエルは溜息を零すが、遊びは遊び、遊びでしかない。嗜む程度にしかやらない男だと知っているから、あえて見逃す。キヨノブは博打で身を崩す男ではないし、仲間内でやりすぎることもない。  何より、自分がやめてと言えばやめてしまう男だと、アズラエルはわかっていた。 「で? その、オルカはどうしたんだっけ?」 「ああ、オルカ様でしたら……ほら」  アズラエルが親指を立てて背後を指さす。  その時、船倉へと続く扉がバタン! と開かれた。  噂の人、オルカが口元を手で抑えながら現れる。 「ゆ、揺れてる……それも、こんなに。この、イサナ船っての、急造だけあって……うぷぅ!」  血の気の引いた白い顔を青くして、再びオルカは扉の向こうへと消えてしまった。  どうやら酷い船酔いのようだった。 「はは、おいおいマジか? アズ、ありゃ」 「ええ。船酔いです。まあ、確かに揺れますが……せめてもっとこう、まともな船を作ってくれればよかったんです。龍撃船じゃあるまいし」  アズラエルたちの団長がナグリ村で作ってもらった船、イサナ船。それは、船首に龍撃槍を備えた急造船だった。突貫工事で作られただけあって、その乗り心地はお世辞にもいいとは言えない。  氷海育ちのアズラエルや、旅慣れてるキヨノブは平気だが……他のメンバーは皆、船酔いに悩まされて客室でへばっている。唯一しゃんとしてる人物はと言えば―― 「キヨノブ、アズも。よくこの揺れで平然としてられるな」  小さな少女を連れて、ト=サンが現れた。彼は、上着の裾を掴んで身を寄せるミラを気遣いつつ、二人の輪に加わる。  キヨノブが嬉しそうな顔をする一方で、アズラエルが内心舌打ち。  ――キヨ様と二人きりの時間を、この野郎。  そう思ったが口には出さず、静かに椅子代わりの樽を運んでやる。ト=サンは「悪いな、邪魔したか?」と気遣いを見せ、その背中に隠れるミラがちょこんと頭を下げてくる。  アズラエルは基本的に他者への興味を持たぬ人間だったが、狩りと旅の仲間として二人のことはそれなりに良く思っていた。……半分はどうでも良く思っていたが、好ましい道連れだと感じているのも確かだった。  それはそうと、現れたト=サンにキヨノブは破顔一笑、嫌に嬉しそうな笑みを零した。 「よぅ! やるかい? この間はすまねえなあ、俺ぁなんかあの日だけツイててよ」  何をいわんや、博打の話だ。  もうキヨノブはサイコロと椀を取り出している。  ルールは単純、椀の中に転がしたサイコロの目を言い当てるだけのゲームだ。だが、ここで重要なのは……アズラエルだけが知っていることだが、キヨノブはある一定の割合で出したい目を決めることができる。  こういうつまらないことに一生懸命努力できるのもキヨノブなら、実際努力して習得してしまうのもキヨノブという男で……惚れた弱みか、アズラエルはそのくだらなさが気にならない。 「何、気にしないでもらおうか。こっちも退屈している……一勝負、いこう」 「そうこなくっちゃあ! よしやろう、すぐやろう。レートは」  やれやれと肩を竦めつつ、気付けばアズラエルは苦笑していた。  こんな時に子供のような笑顔を見せる、無邪気なキヨノブが好きだから。  始まった博打に背を向け、アズラエルは再び双眼鏡を覗き出す。本日晴天、波穏やかで風強し……そう胸の内に呟いた瞬間だった。  首を巡らせるアズラエルは、遠く彼方に暗雲を発見する。突然湧いて出たような、嵐。  稲光をまとう暗黒の雲は、風にのってこちらへと近付いてくるようだ。  咄嗟に船の仲間たちに警告の声をあげようとした時……アズラエルは悲鳴を背中で聞く。 「うそだろオイ! たっはー、かなわねえなあ……これで五連続じゃねえかあ!」  振り向けば、キヨノブが頭を抱えてひっくり返っていた。  どうやら賽の目を操るのに失敗したのか、彼は情けない表情でよろよろと立ち上がる。その対面に座るト=サンは、自分でも意外なのかあっけにとられた顔で頭をかいていた。 「勝負は時の運、と言うが……すまんな、キヨノブ」 「あー、いいっていいって。こないだ巻き上げた分もあるしよ。へへ……もう一勝負しようぜ」 「あ、ああ。俺はいいのだが」 「何、博打も遊びよ。こんだけ勝ったんだ、お前さんミラちゃんに次の街で服でも買ってやんな? なぁ、ミラちゃん。こいつにおねだりして、かわいいの買ってもらいな」  キヨノブは負けても笑顔で、再びサイコロを握る。  だが、その時アズラエルは気になる光景を目にした。ト=サンの影に隠れながら、じっとミラが無言でサイコロを、それを握るキヨノブの手を凝視しているのだ。その視線は寒々しいまでに研ぎ澄まされていて、一種異様な雰囲気。だが、サイコロ遊びに夢中でト=サンもキヨノブもミラの放つ奇妙な違和感に気付かない。  そして、気付いているアズラエルもまた、そのことを口にしてる暇はなかった。 「キヨ様! 皆様も……嵐が来ます! すぐにでも!」  その時にはもう、青い空を駆逐するように頭上には漆黒が広がっていた。そして、ポツリと頬を雨粒が打つ。遠く遠雷の轟きは今、猛スピードで近付きつつあった。 「っと、こりゃやべえな。ト=サン! 続きは客室でやろうぜ」 「ああ。ではミラ、中へ戻ろう……ミラ?」  不意に、ずっとサイコロだけを凝視していたミラが天を仰いだ。  そして、一言だけポツリと零す。  その小さな声は、嫌に不気味で不穏な気配でアズラエルの鼓膜を揺らした。 「……嵐に乗じて……あいつが、来る。擬態種が」  ミラの呟きを飲み込むように、強まる風に荒波が立って船が揺れる。  アズラエルたちを乗せたイサナ船が嵐に遭遇した、次の瞬間にそれは起こった。 「むっ! あれは……!? アズラエル、あれを! キヨノブも」 「何だありゃ? ……嘘だろ、おい! 海の上を、走ってきやがる!」  うねる嵐の海に、アズラエルも目撃する。  波間を右に左にと走り来る、黒衣の襲撃者の姿を!