海が聴こえる。  寄せては返す、さざなみの音が。  エルグリーズが目をさますと、潮騒の海を望むベッドの上だった。小さな家の中、窓際に置かれたベッドの上に寝かされている。身を起こせばアチコチ痛かったが、不思議とモガの村を思い出して懐かしい。  もう今は戻れぬ故郷、過ぎ去りし遠き追憶の日々……だが、海は今も目の前にある。  そして、一緒に海を眺めた人もまた、今は隣にいるのだと気付かされるのだ。 「おはよう、エル。具合はどう?」  ふと首を巡らせ横を向くと、そこには信じられない姿が立っていた。  ずっと信じて自ら離れ、ずっと信じる心の源としてきた少年だ。 「……遥斗! どうしてここに……わわっ、その顔! 顔の傷痕! 火傷です……ううっ」  次の瞬間には抱き付いていた、力いっぱい抱き締めていた。 「わっ、エル! ふふ、痛いよエル」  豊満な胸へと頭を抱いて、おひさまの匂いがする髪に顔を埋めていた。  あの日決別した遥斗が、確かに腕の中に、胸の内にあった。 「どうして遥斗が? あっ、もしかしてエルを助けてくれたのは」 「うん。古龍観測所が気球艇を出してくれてね。あいつを追っていたんだ。ゴア・マガラを」  ――黒蝕竜ゴア・マガラ。  それが突然の襲撃者の名前。  古龍そのもの、煉黒龍グラン・ミラオスのコアたるエルグリーズでさえ、知らぬ飛竜。飛竜と断言するにはあまりにも異形に過ぎるその姿。古龍とも飛竜とも区別のつかぬ威容は、船上のエルグリーズたちを容赦なく襲ってきたのだ。  そして遥斗は、それを以前から追っていたという。  自分の生死さえ振り切って、対外的には死んだと処理されながらも。 「……ゴア・マガラ」 「そう、黒蝕竜ゴア・マガラ。エル、何か君なら知ってるんじゃないかな」 「ううん、知らないです。わからない……こわい、わからないの、こわいです!」  エルグリーズにとって、遥か太古の昔の記憶は今も健在だ。だが、それはグラン・ミラオスが倒されエルグリーズが久遠の眠りにつくまでの記憶に過ぎない。その後も古龍を繰る者たちと飛竜を駆る者たち、両陣営の戦争は続いたのだ。今の時代に人は、竜大戦と呼んで神話や伝承に伝えている。  その勝敗はエルグリーズすら知らない……だが、星を二分した争いは終わり、歴史の彼方へと消え去った。今は古龍も飛竜も自然の一部に還って、人間にとっては同じ脅威、そして糧。 「そうだ、エル。体調に変化はない?」  ようやくエルグリーズの胸の谷間から抜け出ると、遥斗が両肩に手を置き見上げてくる。 「えっと、体中痛いです! かなりコテンパンにやられたですから」 「そっか、他には? 具体的には、その、回復力が減退してるとかは……」  そっと遥斗は、エルグリーズの頬に触れてくれた。  温かな手の平から伝わる体温に、エルグリーズは甘い日々を思い出す。  そして、ここ一年ずっとだった体調のある変化を思い出していた。 「そういえば遥斗、遥斗と別れてから……エル、元気がなかったです!」 「それは……だって、エルが自分からいなくなるから。僕も、だよ? 探したんだから」 「遥斗……その、エルは、ずっと元気がなかったんです。……つい、さっきまでは」 「僕はね、エル。大老殿や古龍観測所に出入りしてまで、君を探し……ん? んんんっ!?」  そう、エルは元気がなかったのだ。エルの中の雄が、男性自身が。  遥斗と別れてからずっと、毎朝の隆起もなく、昂ぶりも漲りもなく、ただぶらさがってるだけだった。の、だが……今、毛布を下から隆々と持ち上がって、雄々しく屹立していた。  それを目にした遥斗も、思わず言葉を失い頬を赤らめ目をそらす。  雌雄同体、両性具有のエルグリーズの、その男性自身が再び機能を取り戻していた。  エルグリーズは、久方ぶりに勃起していた。 「遥斗ぉ……遥斗、はると、はーるとー♪」 「エ、エル、その……僕が聞いてるのはそういうのじゃなくて、ね? あの」 「エル、ずっと元気なかったです。でもほら! 見てください! 元気になりました!」 「う、うん……そうじゃなくて、わっ!」  エルグリーズは遥斗をベッドへ引きずり込むと、押し倒す。  こうなるともう止まらない、求めて望みながら別れて離れた、その温もりが目の前にいるから。苦笑しつつ抵抗はしない遥斗だったが、その口はまだ喋り続けている。 「エル、ゴア・マガラは狂竜ウィルスっていう恐ろしい病原菌を持ってるんだ。接触した君は」 「狂竜ウィルス? ですか?」 「うん。生物に浸蝕して、その生命力を蝕みながら暴走させる病さ。それは……エル?」 「はいっ! 大丈夫です、ちゃんと聞いてますよ? 聞いてます、から、遥斗!」  遥斗のシャツのボタンにてをかけつつ、器用にエルグリーズは片手で自分を脱がせてゆく。  まだお天道さまは真上にあって燦々と輝き、真っ昼間だったがもう止まらない。 「ね、ねえエル……おかしいな、古龍には効かないのかな、ウィルスは」 「遥斗、難しいお話は終わりですか?」 「あ、いや……エルが無事なら、いいんだ。いいんだ、けど。まって、ちょっと待ってね」  エルグリーズの下から這い出ると、遥斗は改めて最愛の人を抱き締めた。  人ではない、人の姿をした龍神玉をその胸に抱いた。 「エル、おかえり。そして、ただいま。また、一緒だね」 「遥斗……はいっ! また、一緒です! ずっと、ずっとずっと、ずーっと一緒ですっ!」 「うん。じゃあ……キス、しようか」 「……はい」  そうして二人は、唇を重ねた。互いの吐息を交えて、行き交う呼吸をからませ、息吹を味わいながら舌を絡め合う。僅か数瞬の口吻だったが、エルグリーズには永遠にも等しい一瞬だった。どちらからともなく離れては、再び求めて吸い合い、湿った音で互いを奏で合う。  そうしてようやく気持ちの昂ぶりが落ち着いた時には……その次が欲しくて身体が熱い。 「遥斗……キスの次、欲しいです。次の次も、その先も……ずっと、もっと」 「エル。うん、僕も。でも、ちょっと待ってね、それはまた今夜にでも――」 「待てないです! 我慢できないです! 辛抱たまらんですぅぅぅぅぅっ!」  再度エルグリーズは、遥斗を押し倒した。  そうして、遥斗の前髪をかきあげると、顔の半分を覆う火傷の痕へと唇でキスのシャワーを浴びせる。自分が灼いた傷を癒やすように、何度も何度も、何度でも口吻を零してゆく。そうして遥斗の服をようやく脱がせた、その時だった。 「遥斗……! こ、これは……遥斗? あ、ああ……これは、エルが? そんな……」  顕になる遥斗の肌は、その約半分が焼けただれて変色していた。土気色の半身は、あのタンジアでの決戦時に負った傷だ。そして、エルグリーズがグラン・ミラオスとなって灼いた傷でもある。  それを見下ろすエルグリーズは、涙で視界が滲んで歪むのを感じた。  だが、そっと遥斗はエルグリーズの頬を指で拭ってくれる。 「泣かないで、エル。これは、この傷痕は僕の勲章だよ? 僕が、大事なものを守った、証」 「でっ、でも! 酷い……癒えない傷を遥斗に、エルは」 「大丈夫、もう傷まない古傷さ。それにね、エル。……ああもうっ、ほらエル! 握って!」  ぐすぐすとぐずって泣き出すエルグリーズは、突然手首を遥斗に掴まれた。遥斗は赤面しながらも、耳まで真っ赤になりながらエルグリーズの手を自分自身へと持って行く。  遥斗もまた、エルグリーズと一緒に猛っていた。 「ね、エル。僕もほら……ようやくエルに会えたから」 「遥斗……凄い、です」 「僕は嬉しいんだ。この傷はエルがね、僕に刻んだ証でもあるんだ。ねえ、エル……僕は、エルのものだよ? この爛れた半身も、君がくれた君だけの僕なんだ」 「……痛く、なかったですか? 遥斗」 「千切れるような痛みだって、君との繋がりを僕に感じさせてくれた。だから、いいんだ」  そう言うと、遥斗はエルグリーズを抱きしめてくれた。  二人は再度、どちらからともなく唇を重ねた。