昇る朝日の日差しが、寝不足のまぶたを刺すように焼く。  物陰に身を起こしたラケルは、血と泥に汚れた頬を手の甲で拭った。 「奴の気配は……ない。もう行ったか? イサナ、クイントの容態は」  立ち上がると同時に振り返れば、仲間の筆頭ハンター代理、イサナが神妙な面持ちで頷く。その横に寝かされたクイントは、鼻ちょうちんを膨らましての大いびきを奏でていた。 「出血は止まって、今はよく寝ている。が、傷は深い……移動するなら私がおぶろう」 「いや、二人で運ぼう。グラビド装備の大剣使いだよ? 運ぶだけでも一手間だってば」  それだけ言って、ラケルは苦笑を零しつつ、クイントの頬を指で突く。安らかに眠っている彼女だが、昨夜の激闘では最前線で壁役をこなしてくれたのだ。クイントの名誉の負傷がなければ、今頃ラケルたちは生きてはいないだろう。  ラケルたちを襲ったのは、恐るべき襲撃者……黒触竜ゴア・マガラ。  この樹海の奥へと追い詰めた筈が、手痛いしっぺ返しを喰らう形となった。 「ムニャ……むふ、しゅちにくりーんッス……美少年美少女くいほーだいッスゥ〜」 「やれやれ、どんな夢見てんだか。さて、脱出しよう。なんとしてもバルバレに帰り着くよ」 「承知。我らの団団長殿にもお伝えせねば……やはり、ゴア・マガラは危険」  ラケルはムニャムニャ言うクイントの上体を起こすと、肩を貸す形で抱え上げる。逆側からイサナも支えてくれて、三人はゆっくりと未開の地を南へと歩き出した。 「フニャ? あれ、自分は……あ、イサナん! ラケルっちも! おはよーッス」 「はいはい、おはよう。クイント、傷の痛みは? 一応止血したけどね、ザックリいってる」 「幸い、骨や内臓に異常はないがな。だが、膿めば痛手となろう」  左右を交互に見て、クイントは傷口の腹に手を当てる。  グラビドメイルの堅固な装甲が真っ二つに裂けて、ドス黒い血が既に乾いていた。  仲間を庇ったクイントの防御を貫き、ゴア・マガラの一撃が達した証拠だ。 「……思い出したッス。痛い……痛いッスよぉぉぉぉ!」 「あー、うるさいうるさい。泣くなって、クイント。イサナ、肉持ってない? 少しなら大丈夫だから」 「残念ながら食料はもう……薬品も底をついてしまいました」  状況は絶望的だが、ラケルは悲観してはいない。彼女は日の出とともに天測を済ませており、イサナも切り株の年輪を調べたりと裏付けを取ってくれた。  南へと抜ければ街道に出られるし、そうすればバルバレは目と鼻の先だ。  それに、危機的状況からの困難な脱出は、何も今回が初めてではない。 「……やだなあ、思い出してきちゃったよ。あの時はあたしがウィルやルーテシアに運ばれてたっけな。意識不明の重体だったのに、不思議とよく覚えてるんだよね」 「筆頭ガンナー代理、何か?」 「ん、ちょっと独り言。まあ、気晴らしにはなるかな? 昔話さ」  ラケルの脳裏をよぎる、錆びた鉄の味。真っ赤に濡れた天と地と、人智の及ばぬ恐怖、脅威。  あの日のシュレイド城跡地が、今もラケルの中で鮮明に色付いていた。伝説の黒龍を前に、仲間たちは次々と倒れ、戦列は崩壊……名だたる騎士団や旅団のハンターたちが、あっという間に命を落としていったのだ。  その日を歴史は、傭兵団《鉄騎》崩壊の日と記録している。  組織は半壊し、カリスマだった団長を誰もが等しく失ったのだ。  気付けばラケルは、そんな過去を語って聞かせられるようになった自分が、少しおかしかった。少し前なら、思い出すだけで震えが止まらず歯の根が合わなくなったというのに。 「なんと、そんなことが……では、もしや筆頭ガンナー代理殿は」 「おっと、詮索は無用だよ? って言っても、もろバレか。そ、あたしは傭兵団《鉄騎》にあの時いた……瀕死の重傷を負って、それ以来狩りに出られなくなった臆病者さ」 「しかし今、ラケル殿は仲間を見捨てず最善を尽くしているではありませぬか」 「ま、臆病者ではあっても卑怯者じゃないってことで。……少し急ごう」  クイントの肩を背負い直して、ラケルは額から吹き出る汗を拭う。  昇った太陽の熱気が今、ジリジリと三人を木漏れ日で温めてくれるのだが……そんな中でさえ何故か、ラケルは背筋を這い登る悪寒を感じていた。  振り切った筈の視線、そして気配が追いかけてくるような錯覚を覚える。  そしてそれを、錯覚と一笑に付すだけの余裕が、今はない。 「しっかし、こっぴどい負けだったなあ。クエストエラーって、久しぶりだよ」 「同感です。しかし、非常に貴重なデータが取れました。ゴア・マガラとの本格的な実戦経験を積んだハンターは、恐らく我々が初めてでしょう」  うんうんと頷くクイントが、不意に顔をしかめた。その表情に滲む汗は、何も日差しの熱気がもたらしているものではない。それに気付いたラケルが脚を早めれば、調子を合わせてくれるイサナの歩調が今は心強かった。  同時に、激痛に苛まれてるであろうクイントの図々しい物言いも頼もしい。 「む、むむ……むぅ! ラケルっち、けっこー胸あるッスね」 「こらクイント、どこ触ってんの、どこを」  肩に回したクイントの手を、おもいきりラケルはパン! と、はたく。  それでも悪びれずに、クイントはニコニコ笑いながら痛みを堪えていた。 「いやしかし、ゴマちゃんはあれッスね……やっぱ飛竜なんスかね」 「ゴマちゃん? とは」 「ゴア・マガラのことッスよ、イサナん。昨日の戦い、覚えてるスか? ……罠、効くんスよ」  それはラケルも驚いたことで、思い出したのかイサナの顔つきが生真面目に引き締まる。  先日の戦闘では、正体不明のモンスターが相手ということもあって、手探りの狩りが続いた。その中で得られたデータこそが、唯一の狩果ともいえたのだった。 「閃光玉、音爆弾は効かぬ様子でしたな。しかし、落とし穴やシビレ罠は有効」 「うむス……でもでも、ゴマちゃんには四肢と別に翼があるんスよね。……あっ!」  突然クイントが素っ頓狂な声を上げて、それでラケルは思惟を現実に引き戻した。  目の前に今、巨大な岩盤が行く手を塞いでいる。迂回しようにも、左は切り立つ崖の下に激流が音を立てており、岩伝いに右に進む先は……深い闇をはらんだ原初の森が暗い。 「これ、乗り越えられないスね……今の自分じゃ」 「イサナ、地図を。最短で高低差のゆるい道を選んでるけど、これじゃあ……ん、やばっ」  その時、目の前の岩肌に黒い影が映り込んだ。  同時に、耳をつんざく咆哮が響いて、木々から鳥たちが逃げ惑う。  振り向けばそこには、逆光を日輪の如く背負った黒触竜が舞い降りていた。最悪のタイミングでの再遭遇。逃げ場のない中、とっさに前に出たのは、クイントから離れたイサナだった。 「ラケル殿、迂回を! ここは私が抑えますゆえ」 「待て、イサナ! それは無理だ、自分でもわかってるだろう? 一人で敵う相手じゃ」 「無理は承知の上! しかし、三人で逃げれば共倒れは必定。となれば――」  イサナは背中の太刀を抜く。それを振り返って、クイントは自らラケルから離れた。  彼女もまた、ふらつく足取りで背の大剣を身構える。 「残るなら死に損ないの自分じゃないスかねえ? イサナんとラケルっちの脚なら、逃げ切れるッスよ!」  全滅……その言葉がラケルの脳裏を過る。  既にもう、自分たち筆頭代理チームの壊滅はバルバレに、そして遠く我らが団の元へ届いているだろうか? 後に続く者たちがいる限り、ハンターに敗北はないというが、それとラケルたちの生還とは別の話だ。  覚悟を決めたラケルが、背のライトボウガンに炸薬を装填するや銃口を向ける。 「麻痺は効くんだよね。やるなら三人で行こう。どうせ逃げ場はないしさ」  未だゴア・マガラに関しては不明な点も多く、なによりもうラケルたちには物資がない。どんな一流ハンターでも、食料や薬品の備蓄なくしては、狩りの成功などありえないのだ。  だが、そんな状況でも三人のハンターは互いを庇いつつ立ち上がる。  目の前に迫るゴア・マガラへと向けた武器が、朝日を浴びて鈍色に輝いていた。  そして、腹をくくったラケルたちの耳に、福音にも似た声が降ってくる。 「旦那さん、居たニャ! 筆頭代理チームのみんな、生きてるニャン!」 「ふむ、そのようですね。ト=サン様、オルカ様、ここで降りましょう」  不意に頭上から声がして、見上げれば古龍観測所の気球艇が飛んでいる。  太陽の中へと消えたその船影から、三人のハンターが見を躍らせるのがラケルには見えた。