酷く凍えたような寒さの中で、オルカは夢の中の恐怖を振り払うように覚醒した。目覚めたオルカは、自分が怪我人でごった返すシナト村の集会所にいるのに気付いた。  あれからどれくらい、時間が経ったのだろうか?  ふと額の汗を手で拭って、敷かれた布団から上体を起こす。  手にはまだ震えがあって、恐るべき古龍を思い出せば止まらない。震える右手を握る左手もまた、同じ恐怖にブルブルと止まらなかった。 「目が覚めたか、オルカ。……お互い目立った怪我はないが、今は休むといい」  その声に首を巡らせれば、枕元にト=サンがいた。  彼は酷く疲れた顔で、なにやら細かい作業を進めている。よく見れば彼が破片を並べているのは、火竜リオレウスの鱗と甲殻で紡いだ防具だ。一流ハンターの証であるレウスシリーズは、見るも無残に砕けていた。ト=サンは辛うじて原型をとどめた鎧の骨組みを前に、砕けて割れた破片を並べている。  よく見ればト=サンの手も、小刻みに凍えていた。  あの百戦錬磨のベテランハンター、ト=サンが恐怖に怯えていたのだ。  それを隠さず、黙々とト=サンは作業を続けている。  オルカが声をかけあぐねていたその時、聞き慣れた声が背後で響く。 「気付かれましたね、オルカ様。無事でよかった……本当によかったです」  振り向くとそこには、大きな麻の袋を背負ったアズラエルが立っていた。彼はオルカを見て、珍しく弱気な表情を浮かべる。まるで、生き別れた兄弟か家族に巡りあった幼子のようだ。  あのアズラエルがこんな顔をすること自体が、オルカには驚きだった。 「なにか温かいものをお持ちしましょう。村民は怪我人が多数ですが、なんとか死者を出さずに済みそうです。先ほど遥斗様がラケル様やイサナ様、クイント様と来られました。今は村のあちこちで救援活動に動いてくれています」 「兄さんたちが?」 「……とても恐ろしいことが起きていると。ですが、まずはこの村と、なによりオルカ様たちのことです」  そう言うと、アズラエルはト=サンの前に麻袋を置いた。  ト=サンもそれを見やると、大きく頷く。 「かなり激しい戦いでしたからね。村中を駆け回って、かなりの量の素材が集められました。しかし、ト=サン様……本当にこれを使うのですか? 武具や防具の新調には足りないかと」 「大丈夫だ、アズラエル。助かる……ありがとう」 「いえ、別に」  オルカは、恐怖に縮こまる両手を見下ろし、拳を握って膝を叩く。  あの惨劇のあと、なにが起こったのだろう?  なにも覚えていない……なにもわからない。  ただ、圧倒的な敗北感だけがオルカの魂に刻まれていた。  そしてアズラエルは、オルカの手に手を重ねて話してくれる。 「オルカ様、あの戦いから……戦いとすら言えない、圧倒的な力の行使から、三日が経ちました。その間、オルカ様はずっと」 「なんてことだ、三日……そんなに」 「古流観測所ともパイプのある、筆頭代理チームのラケル様たちが駆けつけて教えてくれました。あれは……最も恐ろしい古龍、黒龍ミラボレアス」  ――ミラボレアス。  そう、確かにあの時そう名乗った。頭の中に響く声が、災厄の名を告げていた。  戦いと呼べるレベルではなく、神にも等しい圧倒的な力の前に、ただオルカたち人間は震えてうずくまるしかできなかったのだ。それをエルグリーズは、原初の恐怖と言った。遺伝子と呼ばれる肉体の隅々に宿りし血の通貨に、太古の昔に刻まれた恐怖が宿っているのだと。  そのエルグリーズはどうしたのだろう?  彼女が紅蓮に逆巻く緋髪を翻して、人の姿を捨てたところでオルカの記憶は途切れている。 「エル様は……もう」 「アズさん、エルは? もしかして、エルは」 「エル様とは、以前オルカ様と一緒に暮らしたモガ村、モガの森で出会いましたね? そして、タンジアの港、厄海に眠りし脅威とも戦いました。そう、エル様は煉黒龍グラン・ミラオスの核。古の御業が生み出した、人の姿をした古龍そのもの」 「それは、そう、だけど……でも、エルは。エルは、俺たちの仲間――」 「エル様はあのモガ村での戦いのように、全身から湧き出るような鎧に身を固めて、燃え盛る翼を背に……人の姿を捨て、ミラボレアスに挑みました。たった、一人で」  淡々とした口調だが、アズラエルにしては珍しく声が湿っている。  そしてオルカは知る……自分が意識を失っている間に、神と神との最終戦争にも等しい戦いが行われたことを。 「封龍剣を手にエル様は戦いましたが、御承知の通り既にグラン・ミラオスは……エル様の本体は倒されています。蘇ったミラボレアスとの力の差は歴然でした」 「エルは、じゃあ」 「激しい戦いでした。ミラボレアスも流石に無傷ではいられなかったのでしょう。どうにか撃退に成功しました。ですが、エル様はもう」  エルグリーズには、アズラエルたちの声が届かなかったという。  自ら吹き出す傷の血さえも沸騰させて、その血煙の中で彼女は一度だけ振り向いた。そこにはもう、あのだらしなくゆるんだ笑みはなかったのだ。彼女は既に、僅かに残る古龍の力の、その全てを己の身に招いてしまったのだろう。  エルグリーズは逃げたミラボレアスを追うように、自らを燃やして焦がしながら飛び去った。  まるでそう、暗い焔で自分ごと全てを焼き払う、破滅の炎のような輝きが尾を引いたという。 「……まだ、遥斗様には話してません。ハンターズギルドや古流観測所もそれどころじゃないらしく……ですが、機会を見て私から話しましょう」 「いや、それは」 「ただ事実を話します。正しい真実だけがハンターにとって、なによりも貴重で利となるでしょうし……それに、憎まれ役は私でいいでしょう。私は、エル様のあの惨状を、身の毛もよだつような死闘のあるがままを語っても……不思議ともう、心が動きません。感じませんから」 「アズさん……」  アズラエルはそういえば、普段より情緒不安定になっているようだが、オルカ自身よりも落ち着いている。話を聞きつつ、受け取った麻袋から漆黒の鱗や甲殻を取り出すト=サンもだ。  彼らも原初の恐怖とやらの影響で、普段通りとはいかない。  それでも、オルカに比べると少しだけマシなように見えた。  そのことを素直に口にしてみたら、不思議とオルカは少し楽になった。 「オルカ様。それはオルカ様が健全だからです。恐れを感じて恐怖に支配される、それは心のある人間として当然のことです。私は……そのあたりが凍って麻痺してるのでしょう」 「アズのいうことも一理あるな。俺とて怖い、怖いが……このままでは終われん」 「ト=サン様はあの時、誰よりも冷静でした。エル様とミラボレアスの人智を超えた戦いに、割って入ろうとしてましたが……その動きは、無謀な蛮勇ではなかった」 「どうかしていたのだ、俺は。そして今も、どうかしている。俺は……ミラを助けたい」  その後、オルカはアズラエルから改めて仔細を聞いた。  誰もが原初の恐怖、遺伝子がもたらす抗い難い異変に蝕まれながら……シナト村を守ってエルグリーズを援護するために戦った。だが、全く話にならなかったという。人を捨て魔神と化したエルグリーズは、正しく炎の化身……その名の通り、灯火の破壊者と言われる力でミラボレアスと激突した。  だが、復活したミラボレアスは余りに強大だった。  人のサイズでしかないエルグリーズは、火炎を浴びえて溶け落ち、牙と爪で八つ裂きにされた。人ならば何度も死に終えた中で、彼女もまたミラボレアスへと封龍剣を突き立てる。  その間ずっと、ただの人間でしかないハンターたちはなにもできなかったのだ。  ト=サンだけを除いては。 「ト=サン様は、村人の避難を優先させつつ……ミラボレアスへと挑みました」 「まあ、結果は散々たるものだったがな。見ろオルカ、俺の防具は……いや、まだだな」 「ト=サン様はエル様とミラボレアスの間に割って入り、強力なブレスの直撃を受けました。しかし、咄嗟に背負っていたタル爆弾を着火し、その爆発を自ら浴びることでブレスの炎を相殺したのです。……正気の沙汰とは思えませんが」  ようやくアズラエルにも、いつものふてぶてしい苦笑が戻ってきた。  だが、オルカは見る……誰も皆、陰った表情は疲労も顕で痛々しい。そして、戦う前から負けていた……敗者の記憶が遺伝子なるものに、身体の隅々に刻まれてた。その悔しさだけが、オルカの全身を今も支配していた。