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 遠く峰々は雲が煙り、その合間より差し込む陽光に緑が萌えて清水がせせらぐ。――渓流。
 風光明媚な絶景を前に、少女は目を細めた。その真っ白な頬を今、温かく立ち昇る湯気が撫でてゆく。
「ふう、これが里の外。……これが世界、か」
 旅装の少女は、溢れる漆黒の長髪をぞんざいに総髪へ結っている。そのマントの上からでも、十代最後の豊かな起伏が彩る肉感が、少女を脱ぎ捨て大人の女性へと孵化する直前の肉体美が感じ取れる。何より、淡雪の如き白い肌の下には、鍛え抜かれた狩人としての筋肉が引き締まっていた。
 少女の名はサキネ。背に大剣を背負ったモンスターハンターだった。
「旦那さん、のんきに用を足してる場合じゃないニャ」
 オトモのアイルーにせかされながらも、サキネは釣り目がちな大きい瞳で視線を遠くに放る。
 彼女は今、小用を足してる真っ最中だった。
 それも威風堂々、立ち小便である。
「急ぐ旅路でもないが、テムジン。日が落ちる前には着きたいものだな。その、ユクモ村とやらに」
 我が身に溜まった荷物を降ろし終えるや、サキネは手にする逸物を軽く振って飛沫を切る。そう、彼女の手が伸びる股間には、本来少女には備わっていないはずの立派な器官がぶら下がっていた。
 サキネは両性具有、半陰陽に生まれし竜人の一族だったのだ。
「旦那さんには少し、緊張感が足りないニャア。里の存亡を背負ってるという、その自覚がないニャ」
「ん、そんなことはないぞテムジン」
 真面目な口調を作ってみせて、サキネはテムジンと呼ぶオトモのアイルーを見下ろした。同時に自分自身をしまって帯を締めなおす。手近を流れる清流に屈んで手を洗うと、彼女はふと追想に耽った。自然とテムジンの声が遠ざかり、生まれた隠れ里が思い出される。
 サキネの脳裏に、里の長の声が鮮明に蘇ってきた。
『よいですか、サキネ……里の為、我等が一族の存続の為に。外の血を連れて来るのです』
 サキネ達は竜人族、それも雌雄同体の希少種。故にシキ国の山奥に隠れ住み、何世代にも渡って縁者同士千人足らずで血を紡いできた。そう、それこそ気の遠くなるような時間を、そうして営んできた。
 それがここ数年で、ついに円環廻る閉じた連鎖に破綻と破滅を呼び込んだのだ。
『これもひとえに、血の限界……もはや我々は、我々だけで子孫を残すことができません』
 まぐわい交じわるも、子を孕む者は年を追うごとに少なくなっていった。
 そして、赤子は皆死にながら石のようになって生まれてきた。
『かつて遥か昔、里が同じ危機に瀕した時……外界より新しき血を招いたと伝承にある』
 隠れ里の長は一族の存続の為、決断を下した。長らく外の世界より隔絶され、固く門を閉じていた……その禁を今こそ破る時が来たのだと。選ばれた若者を旅立たせ、外より子作りの相手を連れてくる。
 サキネもまた、そうして選ばれた少女だった。今年で数えて十九になる。彼女の目的は、健康で健全な外界人を里へと連れ帰ること。自分達と共に里で子をなしてくれる者を探すこと。
 ふと我に返って、サキネはぼんやりと長の言葉をつぶやき反芻していた。そして、
「とにかく、テムジン。そのユクモ村とやらで探してみようと思う。嫁か、婿か」
「なら先を急ぐニャ! さっきからヒゲがビリビリするのニャ……一雨くるのかもニャ〜」
 愛らしい外見とは裏腹に、渋く低い声でテムジンが忠告してくる。
 里でハンターとして働いてる頃からの相棒に、サキネは黙って頷き立ち上がった。同じく旅装に身を固めたテムジンが、ちょこまかと足元を走りながら旅路をせかす。
「よし、では行こう。できれば婿がいいと長は言ってたな。婿というのは確か」
「男ニャ。外の世界の人間は、男と女が存在するニャ」
「そう、それだ。男が婿、女が嫁だったな。……うまく見つかるといいのだが」
 否、うまく見つけてみせるとサキネは心に結ぶ。
 一つ、健康な肉体を持った若者であれ。
 一つ、健全な精神を持った若者であれ。
 最後に一つ……決して昔のように、人さらいも同然に拉致するなかれ。実際、過去に血の限界を迎えた際には、一番近い街道を行く外界人を誘拐してきたという伝承もある。今回はしかし、穏健派の長は前例を反省してサキネを遣わせたのだ。
「しかし不思議なものだ。本来なら私も、誰かと初めての交配を……ん?」
「どうしたニャ、サキネ」
 不意にサキネの表情が緊張に強張る。その細面が凛と引き締まり、自然と手が背の剣に伸びた。
 幼少の頃よりモンスターハンターとして里で暮らしてきた、サキネの直感と本能が殺気を捉えた。それも、野に住む獣とは思えぬ程に強力な威圧感を纏っている。
 後から気付いたのか、キョロキョロとしていたテムジンが鼻息も荒く身を伏せた。
「な、何ニャ? 何かいるニャア……」
「しっ! そこの竹林だな。ようし、一つ手土産をこさえて行くとしようか」
 いつでも踏み込み抜刀できる構えで、僅かに前傾しながらサキネは足元を確かめる。獲物の気配を探りながら、乾く唇をちろりと舌で舐めた。瞬間、鍛えられたしなやかな肉体が躍動して、全身の筋肉をバネにサキネは疾風になる。
 阿吽の呼吸でタル爆弾を構えたテムジンを置き去りに、サキネは目の前の竹林に飛び込んだ。
 ――つもりだった。
「ちぃ! 後の先を取られ、た、か……何だ? これは……テムジンッ! これは何だ!」
 獰猛な唸り声をあげる、巨大な一陣の轟風とサキネは擦れ違った。
 あわてて大地を足で掴んで、悲鳴をあげる全身で手を突きターン。その視界を、屹立する青白い輝きが覆った。
 瞬く雷光を纏い、煌く稲光を呼ぶ、その巨躯。
 碧玉の如き巨大な双眸がギロリと、硬直するサキネを睨んだ。
 瞬間、咆哮に空気が沸騰する。気付けばサキネは自身を叱咤して、耳を手で押さえながらも歯を食いしばる。そうして、突然目の前に現れた正体不明の脅威に相対した。
 剣の柄を握る手が震える……ハンターになって初めて感じる、それは恐怖。
「テムジンッ、こいつは何だ。里では見たことがないっ! 牙獣種なのか? いや、違うなっ!」
「旦那さんっ、ボクも初めて見るニャ! 何だかしらないけど……ヤバい、ヤバいニャァァァ!」
 それは強靭な四肢で大地に立つ、とてつもなく巨大な孤狼を思わせた。全身を刺々しく飾るのは、帯電して光る甲殻と体毛。サキネが間近で見上げる頭部には、鬼神を彷彿とする左右一対の角が禍々しく尖っていた。
 正しく、雷神降臨――それは言うなれば、獣の姿を借りた稲妻そのものだった。
「手土産などと言ってはいられない! テムジン、逃げるぞ!」
「合点承知ニャ! ……もっとも、あちらさんにはその気はないみたいニャァ〜」
 既にサキネは刃を交えることを、狩猟を放棄した。
 目の前に唸り近付くは、今までサキネが狩ってきたあらゆるモンスターと雰囲気を異にする。普段であれば、巨大な剣を向ける相手は皆、生存本能の赴くまま自衛の為にサキネへ立ち向かってきたが。だが、恐懼の権化と化した目の前のケモノは違う。
 まるで闘争そのものを求めるように、ゆっくと、しかし確実に自ら近付いてくる。
 一歩、また一歩と下がるサキネの足が震えて膝が笑った。
「テムジン、先に行けっ! くっ、狩りの道具は荷物の中か……ええいっ、運のないっ」
 剣と一緒に背負った荷物の中には、普段から常用するハンターの道具が一揃えある。徒歩の長旅故、どれも一纏めにしまいこんでいた。閃光玉を放れば目くらましになるかもしれないし、コヤシ玉を投げれば向こうから逃げるかもしれない。だが、荷解きをするような隙を見せれば、たちまち自身が餌食になることは明白だった。
「だっ、旦那さん!」
 テムジンが短く叫んだ。それが声ではなく空気の震えで耳朶を打った。反射的に剣を翻したサキネは、激しい衝撃と共に大地へと組み伏せられる。その巨体からは想像もできぬ瞬発力で、圧倒的な質量の雷獣はサキネへと襲い掛かったのだ。
 圧し掛かられて押し返す剣が、徐々に喉元へと下りてくる。その刃に牙をたてる獣の唾液が、ポトリポトリと顔に垂れてくる。絶体絶命に息を飲んだサキネは、次の瞬間目を剥き絶叫した。
「――っかはあ!」
 今や迫る死そのものとなったモンスターは、その強靭な前足でドシリとサキネの腹部を穿った。
 申し訳程度の旅装が防御力を発揮するも、骨が軋んで内臓が圧搾され、サキネは喀血に呻く。その間も、両手で必死に剣を保持して、ともすれば頭から噛み付こうと迫る鬼の形相を遠ざける。
「旦那さんっ! 今っ、助けるニャ! レスキュゥゥ、ダァァッシュ! ニャッ!」
 テムジンがタル爆弾を高々と掲げて、よせばいいのに向かってくる。それがぼやけた視界の隅に映った。逃げろ、と叫んだつもりが呟きにもならず、サキネは薄れゆく意識の中で呼吸を貪る。全身が痛覚になったように、千切れるような激痛が五体に波紋を広げていた。
 テムジンの絶叫にも怯む様子を見せず、火薬が炸裂する光を一層強い雷光で飲み込むと……迫る脅威は軽々と首を巡らせ、勢い良くくわえた剣を放り投げた。サキネは、剣だけは離すまいと最後の力を振り絞る。
 中空を舞う一瞬は何倍にも引き伸ばされ、久遠にも感じる刹那の後、サキネは激流渦巻く断崖絶壁の下へと落ちていった。遠くテムジンの追いかけ飛び降りる気配だけが、最後に感じた全てだった。

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