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 サキネは闇に凍えていた。
 あの後、自分はどうなったのだろう? テムジンは無事だろうか? 思考は巡れども思惟は結べず、脳裏を行き交う文字が言の葉を象ることはない。
 ただ、寒い。全身が千切れるように痛む。
 サキネは夢すらみない暗黒の中、ほのかな光を感じて手を伸べる。何も見えず、何も聞こえない中で、感じる。それは抱き寄せれば、確かなぬくもりを返してくる。抱き締めればあたたかさに、痛みが溶け消えるような感覚が伝播していった。
 ――だが、僅かな光を抱いて背を丸める、サキネの意識に忍び寄る影があった。
 それは、例えるなら鬼。雷を纏った鬼神の形相が、咆哮を響かせる。
「うわあっ! ああ、ああっ! っかはあ、はあ――む、夢か?」
 サキネは覚醒するや飛び起きた。
 畳に敷かれた布団の上に、思わず立ち上がって身構える。いつからか腕の中にあったぬくもりはなく、代わって痛みが全身を軋ませた。思わず顔を歪ませながらも、周囲を改めて見渡すと、
「まあ、気付かれたようですね。御館様をお呼びして参りましょう」
 今まで寝てた枕元に、小さな小さな白い影があった。
 それは立ち上がっても、目線がサキネの胸元あたりまでしかない。酷く華奢で心もとない矮躯だ。おまけに、サキネの竜人故の白さとはまた違う、病的に青白い肌をしている。耽美な顔も血色が悪く、短く切りそろえた髪も真っ白だ。唯一、サキネへと細められた目だけが鮮やかに紅い。
 サキネが硬直したままその者を見詰めていると、少女と思しき影もまた不思議そうに小首を傾げる。
「ここは、どこだ? お前は誰だ……痛っ!」
「ご無理をなさってはいけません。さ、横になって。熱はもう下がりましたね」
 痛みに顔をしかめて膝を突けば、少女が寄り添い支えてくれる。そうしてそっと白い手が伸べられ、サキネの額に当てられた。
「……竜人の方というのは、どれくらいが平熱なのでしょうね。兎に角、熱はもういいみたいですが」
「私は、どうして……ここは? そうだ、それよりテムジンは? ……あのモンスターは!」
「どうか気をお鎮めください。ここはユクモ村、安全な場所ですよ」
「ユクモ、村……そ、そうなのか? ここが……それより剣を、いや、先ずは――」
 状況が解らず混乱しながら、サキネは頭を振りながらぶつぶつ呟き、何度か喚いた。
 明らかに動揺していたし、自分の身に何が起こったのかも理解できないでいた。記憶も今は断片でしかなく、その糸を手繰るのももどかしい。ただはっきりと覚えているのは、いまだかつてない恐怖。その記憶にうろたえるサキネは次の瞬間、白い声を聞いた。
「失礼」
 不意に唇に柔らかいものが触れた。
 目の前の少女が身を寄せるや、唇を重ねてきたのだ。それでサキネは硬直して言葉を失い、行き交う互いの呼気に眼を見開いた。静かに眼を伏せた、相手の長い睫毛が僅かに揺れていた。
 初めてのくちづけは僅か数秒だったのに、サキネには久遠にも等しい長さに感じられた。
 そもそも、サキネの里にはない接触行為に戸惑い、鼓動が跳ね上がった。
「……落ち着かれましたか? さ、横になってください。傷に触ります」
「あ、ああ」
 そっと唇を離すと、眼前の少女は薄い笑みで微笑んだ。その表情はどこか弱々しく、生気があまり感じられない。
 サキネがようやく平静を取り戻しつつも、一瞬の甘露を反芻して呆けていると、不意に聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「旦那さん、目が覚めたかニャ! よかったニャ、よかったニャア〜!」
 障子が開いて外の陽光が部屋に差し、思わず眩しさにサキネは眼を庇う。その向こう側から、オトモアイルーのテムジンが転げるように飛びついてきた。慌てて抱き止めると、胸の内から見上げるテムジンは大粒の涙をボロボロと零した。
「一時はどうなるかと思ったニャ。熱は上がるし、三日三晩目が覚めないし……泣くとこだったニャ」
「テムジン、もう泣いてるではないか。……心配をかけたな」
 撫でてやるとテムジンは目をゴシゴシ拭って涙を振り払い、心底安心した様子で喉を鳴らした。
 そうして改めて周囲を見ると、自分はかなり広い部屋の中央に寝かされていたことが解る。今しがた開け放たれた障子の向こうには、瀟洒な庭が広がっていた。何よりその向こうに、湯煙が立ち上る温泉街が開けて見える。
 テムジンを抱きながら立ち上がったサキネは、再度胸中に呟いた。
 紆余曲折を経たが、自分は今確かにユクモ村に到着したと。
 豪胆な声と共に足音がドスドスと聞こえたのは、まさにその時だった。
「目が覚めたか、お客人! カカカッ、そいつは重畳……見た目通りに頑丈だのう」
 傍らの少女が「御館様」と小さく発して、脇に控えた。
 そして、サキネの前に作務衣姿の筋骨隆々たる男が現れた。初老の巨漢は見事な口髭を蓄え、禿げ上がった頭には無数の戦傷が刻まれている。そう、サキネでも人目で見て知れる程に、その人物は男らしかった。胸板は厚く、肩から首にかけての筋肉も逞しい。四肢などまるで丸太のようである。
「とりあえず名は確か……そう、サキネとか言うたな。具合はどうだ、客人」
「! どうして私の名を」
「そこなアイルーに聞いたのよ。よいオトモを連れておるの、おぬし」
「では、私を助けてくれたのはあなたか?」
「うむ、まあ、色々と込み合った話があるのだが……まずは、何か羽織らぬか?」
 カカカッ、と男が笑うので、テムジンを放すなりサキネは自分の艶姿を省みた。全身いたるところに包帯を巻かれていたが、一糸纏わぬ全裸だった。あろうことか雌雄一体の己自身までも晒している。
 しかし動じる様子を見せなかったので、尚男は愉快そうに笑い声をあげる。
「カカッ、眼福! 長生きはするものぞ、珍しいモノをみたわい。……辺境の竜人か」
 その場であぐらをかいて座り込むと、男は身を乗り出して「何ゆえ外界に出てきた?」と片眉を跳ね上げる。先程の少女も横でクスクスと愉快そうに口元を手で覆った。
「嫁か婿を得る為だ。見ての通りの自分だが、我等が一族は今、危機に瀕している」
「ふむ、まあ少しは恥らわぬか。ほれ、布団にでも入っておれ」
「助けて貰ったことには感謝している。……こっちが男で、そっちが女。そうだな、テムジン?」
 隠すでもなく立ち尽くしながら、サキネは足元のテムジンに確認を取る。同時に、両者ともに里には迎えられないとも思った。男は歳を取りすぎているし、女はやけに不健康に見えたからだ。
 だが、サキネの発言に男は目を丸くし、やはり一際豪放に笑い声を響かせる。
「チヨマル、おぬしはまたおなごと間違われたぞ?」
「慣れておりますれば、御館様」
 膝をばしばしと叩く男の横で、少女はサキネに向き直った。
「わたくしは男です、サキネさん。御館様の小姓を勤めます、チヨマルと申します」
「そしてワシがこの家の主よ! 姓はナガトモ、名はテンゼン。今はコウジンサイと呼びならわせ」
 チヨマル、そしてコウジンサイ……共に婿、いや男。サキネは呆然と、一人一人を指差し名を呟いて、小さな頷きを拾った。
「そ、そうか。や、ご両人が命の恩人。心から礼を言う」
 畏まって頭を垂れると、解かれた豊髪が肌を撫でた。コウジンサイとチヨマルは互いに顔を見合わせると、再び笑い出す。コウジンサイは声高に、チヨマルはフフフと。
「とりあえずサキネさん、何かお召し物をお持ちしましょう。それとお食事も」
「うむ、チヨマル。社の方にも一報を入れてやるがよいぞ。お客人の目が覚めたとな」
 チヨマルはその肌や髪同様、真っ白な狩り衣を翻して立ち上がった。そうして去ってゆく背中へと、コウジンサイが嬉しそうに叫ぶ。
「や、やしろ? 社というのは」
 思わず疑問符を浮かべるサキネに対して、
「何、おぬしの命の恩人の一人よ。柳の社というての、そこの巫女におぬしは助けられたのよ」
 聞けば、サキネは瀕死の重傷で激流に流されていたところを、たまたま通ったモンスターハンターに助けられたという。そのハンターというのが、件の柳の社なる神社に仕える巫女とのことだった。
「生真面目な娘での、随分心配しておったわい。何、あとで傷がいえたら顔でも出せばよかろう」
 コウジンサイの言葉にしかし、即座にサキネは部屋を出ようとした。
 それでテムジンに止められて、再度自分が裸だったことにサキネは気付くのであった。

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