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 空気は戦慄に凍りついていた。再び渓流を満たす狩猟の空気は、今までの何倍もの緊張でミヅキの肌を泡立てる。それはあたかも、狩る側から狩られる側へ、強者から弱者へと転がり落ちたかのよう。そんな凍えた雰囲気を感じているのは、なにも彼女だけではなかった。
「おっ、おお、お姉ちゃん!? なにあれ……今のガオーンってのは。ま、まさか」
 そのまさかだと言うまでもなく、アワアワと落ち着かないルナルにミヅキは小さく頷いた。同時に腰のビンを確認し、その中の薬液の残量を重さで計る。
 アズラエルもまた、しばし構えたままだったランスを砥石で磨いて背負い直した。
「兎に角、こうしていても始まりませんね」
「ええ、でも今回は固まって動きましょう。いいですか? 皆さん」
「その方がいいでしょう。私としても異存はありません」
 オルカやルナルの頷きも拾って、ミヅキは勝手知ったる渓流を奥へと進む。あれほど歩き慣れた狩場が、今はもう未知の魔境にも等しい威圧感を湛えている。どこか清々しささえ感じた朝は払拭され、異様なまでの敵意が、殺気が全身を突き抜ける。
 先程の咆哮の正体は、誰もが薄々察知していた。アズラエルが一応確認をと言ったが、その彼自身知っているのだろう。この先に現れた、今もハンターとしての嗅覚で感じる恐怖の正体が、ユクモ村をおびやかしている雷狼竜……ジンオウガであることを。今までドスファンゴやアオアシラ等しか狩ったことがないミヅキは、自分が震えているのを隠すように手に手を握る。それでも腰のビンが中の薬液をチャプチャプと鳴らした。
「奥に、いますね……強い気配を感じます」
「ミヅキさん、その手……」
「え、ええ。その……わたしも簡単な狩りしか。渓流しか回ったことがないので」
 そう、恐怖がミヅキの全身に絡まり圧して締め付けてくる。先程から凍てつく恐惶に震えが止まらないのだ。
「基本的にコウジンサイ様がうちの村のハンターですから。わたしなんて、まだまだ」
「そっか、うん。俺も実は、怖いんだ。恐ろしい、恐ろしい奴がいる……この奥に」
 ふと隣で肩を竦めて、オルカがクイと欠けたユクモの陣笠を上げて顔を覗かせる。無理に作った笑顔が引きつって、オルカもまた同じ気持なのだとミヅキには知れた。そのオルカは、平然と先をサクサクあるくアズラエルを追って、
「出来れば逃げ出したいけど、そうもいかないでしょ? 獲物の顔ぐらいは見ておかないと、ね」
 肩越しに振り返って、張り付いた笑みを強ばらせる。不器用ながらもミヅキの緊張を和らげようとしているらしく、自分のことは二の次で気を使ってくれる。それがありがたくて、ミヅキは頬を自らはたいて気合を入れた。
「……よしっ! 皆さん、いきましょう! ほらっ、ルナルも」
「う〜、い、行くの? 行くかー、オルカっちもアズにゃんも、お姉ちゃんも行くなら」
「そ、シャキッとして。あなた、一人前のハンターやってたんでしょ?」
「そ、そだけどさ。あの……こんなの初めてなんだよね。……なんか、やばい感じ」
 仲間達のことなど眼中に無い様子で、アズラエルはどんどん先へと歩いてゆく。もはやミヅキの案内も不要なようで、僅か数時間の行動で彼は渓流をあらかた把握しているようだ。その隣が安心するのか、オルカも並んで歩調を強める。追うミヅキは躊躇も露な妹に軽く激を飛ばしつつ歩いた。
 狩猟にいたらぬまでも、その存在を確認しなければいけない。未知の新種にして驚異、ユクモ村を脅かす害獣……ジンオウガ。遭遇したサキネの話が思い出され、蹂躙され重傷で自分に発見された時の無残さがミヅキの胸中を掠めた。思わずゴクリと喉が鳴る。口の中がカラカラに乾いて、呼吸が僅かに浅くなった。
「ねね、見るだけだよね? オルカっち、アズにゃんも……チラッと見たら、帰るよね?」
 ミヅキを追い越し駆け足で、ルナルがぽてぽてと矮躯を二人の間に滑り込ませる。そうして左右を見上げながら、彼女は不安も露に脚を動かした。
「そ、そうだね。俺も、それに賛成かなあ。……サキネさん、凄い怪我だったらしいし」
「そうだよ、サキネっちはおねにーちゃん? おにねーちゃん? だけど、一応ハンターじゃん」
 そう、今も怪我で療養中の彼女は、ミヅキより何倍も経験の豊富な、とある里のハンターだったらしい。それが鎧袖一触、何もできずに蹴散らされたのだ。ミヅキ達は四人だが、その中で唯一ハンターシリーズの防具を着こむミヅキ自身、そこまで難易度の高い狩りはしたことがない。
 そんな彼女をさして気に止めた様子もなく、アズラエルがポツリと零した。
「可能ならば狩りましょう」
「げっ、アズにゃん……マジで?」
「幸いにも道具や薬には余裕があります。様子をみて、可能ならの話ですよ」
 涼しげな顔に表情を変えることなく、アズラエルは静かにルナルを見下ろす。流石に隣のオルカもブルリと身を震わせたが、覚悟を決めたのか背の斧を手に取った。
 同時にアズラエルが、片手で一同を制して身を屈める。促されるまま、ミヅキ達も腰を落として地面に手を突いた。全身を這うようにして身を隠せば、振動と共に足音が近づいてくる。それは刺々しいまでの殺気を放ちながら、ミヅキの中の本能的な恐怖を煽ってきた。
 ミヅキ達四人が身を隠した茂みの向こうを、巨大な影が覆った。
「これが、ジンオウガ……」
 身を低くしながらミヅキは小さく呟いた。目の前を今、巨大な獣がゆっくりと通りすぎてゆく。その碧玉の如き慧眼は獲物を求めて光り、グルルと喉を鳴らして唾液をしたららせながら歩を進める。それは正しく、血に飢えた孤狼を思わせた。すぐ目と鼻の先を、死の体現者が徘徊していた。
「もっ、もも、もう、いっ、いいんじゃないかな」
「そ、そそ、そだよね、オルカっち。……はいっ、確認完了っ! か、帰ろうよぅ」
 カタカタと歯を鳴らしてオルカとルナルが顔を合わせる。互いに鼻先がつきそうな距離で声をひそめて呟き合う。ミヅキ自身も先程から歯の根が合わず、震えは強くなる一方だった。ただ一人アズラエルだけが、徐々に遠ざかるジンオウガに鋭い視線の矢を射ていた。
「……一当てしてみましょう。どういった特性のモンスターか、少しは解るでしょうし」
「ア、アズにゃん!? うえー、や、やるのぉ? どーしてさー」
「お忘れですか? ユクモ村はあれを退治するためにハンターを集めたんですよ?」
「それはそうだけどさー、でも、物事には順序ってもんがあるじゃん」
「無理はしませんよ。私も……私にも、帰る場所がありますから。それが、守る場所なら」
 そう、守る人がいる場所なら……そう最後に呟き、アズラエルはその一言を異国の言葉でかき消した。ミヅキには耳に馴染まぬ外国語で、オルカやルナルも知らない様子だったが、その声に篭る意志だけは理解できた。この場でモンスターハンターとして、一番冷静でいられたのはアズラエルだった。
「……よしっ! ミヅキさん、退路を確保しつつ援護射撃してください」
「うわー、オルカっちまで。こ、怖くないの?」
「怖いさ、恐ろしい。でも俺等、この為にユクモ村に来たんだし」
「はぁ、貧乏クジだ……いーよ、あたしも前に出るから」
 覚悟を決めたように、オルカが表情を引き締めた。まだ緊張が強張り動きは固いが、その背後で溜息を零すルナルも同様のようで。背中の狩猟笛をゆっくり静かにおろすと、いつでも走り出せるよう肩に担いだ。
 そうして前の三人が、一番後ろのミヅキをちらりと見詰めてくる。
「全員で先制します。……でも、無理はしません。アズラエルさんも、いいですね?」
「ご安心を、元からそのつもりです。まだ、無理をする時期ではありませんし」
「……アズラエルさんは、怖くないんですか?」
 矢筒から引き抜いた一矢の、尖る鏃をビンの毒液に浸す。そうして弓を展開させながら、いつでも飛び出せる体勢でミヅキが身を乗り出した。同時に阿吽の呼吸で誰もが身構える。
「恐ろしいですが、私は……べつに」
「慣れてるんですね、狩りに」
「……昔ならもう、飛び出していたかもしれません。一人でも……でも、今は違いますね」
 玲瓏で端正な顔に、僅かに笑みが浮かんだ。それは冴え冴えとして、見る者の緊張を僅かに削いでゆく。アズラエルもまた同じ臆病という病に蝕まれながら、一人一歩前にいた。ハンターとして一歩、一歩だけ意識が前に。それに並ぼうとミヅキが息を大きく吸い、肺腑にとどめて相手を見据える。
「――行きますっ!」
 ミヅキの掛け声と同時に、四人のハンターは草むらを躍り出た。それは振り返るジンオウガが咆哮を迸らせるのと同時だった。空気が沸騰して、五体が蒸発するかのような錯覚の中、夢中でミヅキは仲間達と走った。

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