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 遠雷轟く曇天の空は、その重たげな灰色から雫を零す。ポタリ頬に雨粒を受けて、ノジコは顔を上げる。彼女は今、アイルーの御者が進める荷車に揺られていた。雑多な荷物に挟まれながら、不安気に膝を抱く。傍らの機械槍がガタゴトと、荒い路面の起伏を拾って鳴った。
 西シュレイドを出て東へ、東へ……ひたすら東へ。
 思えば随分と遠くへ来た。もはやここは異国の地。国の中にあって国がある、シキ国は冴津のユクモ村へ。ノジコの旅は今、ようやく始まりの地へとその身を運ぼうとしていた。
「あっ、あのっ。少し急いで貰えますか? 雨、降ってきたみたいですし」
「あいニャ!」
 元気のいい返事と共に鞭が鳴って、荷車を引くガーヴァの脚が僅かに速まる。それで揺れが増す中、ノジコは天を仰いで溜息を一つ。それは見えない渦となって空に吸い込まれてゆく。
 徐々に雨脚は強まり、ついには周囲を雨音だけの驟雨が満たした。
 事前に地元のギルドから支給品を受け取り、ユクモシリーズに着替えててよかったとノジコはほっと一息。そうして陣笠を弾く雨のリズムを聞きながら、黙ってしかし一言。
「嫌な空。……何か、いるみたい」
 雷光を纏った雲は逆巻き天を覆いっている。まるで、その奥に何かを隠しているかのように。湿った空気は濡れに濡れて、既に周囲は渓流の風景も見えぬほどの豪雨。ただその一滴一滴を重く注いでくる空だけが、雷鳴を響かせながらノジコに大自然を魅せつけてくる。
 だがその時、西シュレイド王国王立学術院の新米書士は、全身で異様な気配を拾った。
 刹那、落雷の轟音が轟き、煙る遠景の向こう側に稲妻が屹立する。
「なっ、何ニャ!? ……雷が落ちたのかニャア」
「……違う、何かいる。近付いて、くるっ」
 バチバチと蒼いプラズマが、御者のヒゲを揺らしてスパークする。
 断続的な落雷の光が、その轟きが徐々に街道をゆくノジコ達に近づいていた。異様に殺気立った、刺々しいまでに肌を泡立たせる気配が接近してくる。それが未熟なノジコにも、嫌に鮮明に感じられる。
 今や害意の塊となった何かが、落雷に導かれるように肉薄していた。
 一際耳をつんざく轟音が響いて、街道を挟む崖の片方、高く突き出た岩の上に雷が落ちた。
「――っ! と、止めてくださいっ! 人がっ」
「ア、アニャニャッ!」
 急停止で手綱をアイルーが引くと、怯えた様子でガーヴァが大地を掴む。ゴトン! と大きく揺れて止まった荷台からノジコは飛び降りるや駆け出していた。その雨で狭い視界の中に今、何度も弾んで崖を落ちる人影が一つ。
 モンスターハンター、それもガンナーと思しき細い影が、宙で身を翻すやバランスを崩した。
「あのっ、大丈夫ですかっ!?」
 着地というよりは激突に近い形で、なんとかその女性は――そう、確かこの地方ではアロイシリーズと呼ばれる、鉱石で作る防具を着込んだ女性だった。彼女は大地に降り立つや苦しげに膝を突く。その顔は猛禽を思わせるフルヘルムで表情が読めないが、白銀に輝くシルエットは酷く華奢な痩身だった。
 そのスリットが入った兜の向こうから、光る瞳がノジコに向けられる。
「あなたは……その格好、ユクモ村に向かうハンターさんですか?」
「あ、はい。その……何が」
「危ないです、すぐに逃げて……ううん、逃げましょう。ここにいては駄目――」
 逼迫した、しかし同年代と思しき声だった。その言葉尻へ噛み付くように、落石の音を伴い……何かがノジコの背後に降り立った。ズシリと重みを受けて地面が沈んで揺れる。
 ノジコ達の、御者と荷車の背後に、小山のような影が首を巡らせていた。
「あっ、あれは……」
「あれはジンオウガ、ここ最近渓流を荒らしてる新種のモンスター。らしい、ですっ」
 ジンオウガ……その名を叫んで、射手はライトボウガンを構える。リロードのレバーを引けば、バレルは弾薬を飲み込みカキンと弓が機械で弦をしならせた。
 その銃口を向ける先に、強大な敵意がそびえ立っていた。
「ジ、ジンオウガ……」
「そ、そんニャ馬鹿ニャ! こないだ捕獲されて安全になったって話だったニャン!」
 ノジコはちらりと御者を見やり、その背後の荷台に武具や荷物を置きっぱなしなことに後悔した。だが、それが手元にあったとしても同じかもしれない。それくらい、今来た道を塞ぐ脅威は絶望的に獰猛な唸り声をあげている。全身に雷光を纏ったその姿は、降り注ぐ雨を受けるそばから蒸発させ、白煙を散らしていた。
 白霧の衣に包まれし、怒れる雷帝……その鬼神の如き恐懼が絶叫を迸らせる。
 ノジコは両耳を手で抑えながら、総身を震わせおののきわなないた。
「兎に角あなた、ええと」
「ノッ、ノジコです」
「ノジコさん、逃げましょう」
「は、はいっ! お願いします、アイルーさんっ!」
 ピシリとその時、鞭がしなってガーヴァから恐怖を払拭した。金縛りが解けたように、まるで野生の本能が生へとその身を駆り立てるように、普段のおとなしさからは想像もつかぬ瞬発力が爆発した。路面に車輪を取られながら、ガタゴトと荷車がノジコの合図で走りだす。
「旦那さん達、乗ってくださいニャア! ここは逃げるが勝ちニャッ!」
 ノジコは隣で地を蹴る気配を追って、荷台の上へと転がり込む。
 それは荷車自体を巨大な影が覆い潰すのと一緒だった。つい先程まで荷台があった場所へと、水たまりの水を巻き上げながらジンオウガが降ってくる。その慧眼がギロリとノジコ達をねめつけてきた。ただそれだけでもう、言葉を失うノジコは声にならない呟きを漏らして歯をガチガチと鳴らした。
 ただ、普段から訓練を欠かさなかった書士としての積み重ねが、震えながらも荷物へ手を伸べる。
「……いけない、ジャムったみたい。こんな時に、弾が」
「わっ、わわ、わたっ――私に任せてくださいっ!」
 ガチャガチャと銃身を揺する影に先んじて、気づけばノジコは手の内の閃光玉を投げつけていた。短く甲高い絶叫が響いて、昼間とは思えぬ薄暗さを光が白く塗りつぶしてゆく。
 怒りに荒れすさぶジンオウガの巨躯が、その圧倒的な質量が徐々に遠ざかっていった。
 気付けばノジコは、肩を上下させて呼気を貪りながら、その場にストンとへたりこんでしまった。
「閃光は効くんですね。助かりました、ノジコさん」
「い、いえ……私、無我夢中で……」
 ジンオウガと呼ばれるモンスターは、ノジコは遭遇するのは勿論、名を耳にするのも始めてだ。閃光玉が効いたのはもはや、幸運を通り越して奇跡に近い。これがもし、視覚に頼らず狩りをする猛獣ならば……そう考えただけでノジコは恐怖に震えた。
 全身の震えが止まらぬノジコを嘲笑い煽るように、遠ざかる風景が落雷を幾重にも轟かせた。
「わたしこそ忘れてました。なかなか道具を使わせてくれる隙がありませんでしたし」
 気づけばノジコの前に、篭手に覆われた銀色の手が伸べられていた。
 黙って握れば、体温の感じられない手もまた震えていた。どうにか立ち上がって、二人は荷台の上で改めて相対する。ノジコの目の前で今、嫌に細い体躯のガンナーはどこにも肌の露出がない。顔ですら女性用とは思えぬ兜で覆われており、そのスリットから紫陽花色の瞳がこちらに微笑んでいる。
「わたしも突然の遭遇で……ふふ、解ります? こんなに震えてます。ああ、怖かった」
「は、はい……こ、怖かったですよね。あれが、ジンオウガ」
「先日、ユクモ村のハンターさん達が捕獲したって報告を受けていたんですけど」
「あ、さっきそういえばアイルーさんもそんなことを」
 ガンナーの女性は腰を下ろすノジコの隣に座ると、早速先程弾詰まりを起こしたライトボウガンを解体にかかった。手早くテキパキと、部品単位でボウガンが解かれてゆく。
 その手を早めながら視線を上げると、魅入っていたノジコは不意に見詰められて、
「わたし、アウラっていいます。ドンドルマの古龍観測所から来ました」
 よろしく、と微笑む気配はしかし、全く顔を見せてはくれない。
 だが、どうやら目的は一緒のようで、緊張を解いた両者の間には、脱力と共に親近感が行き交った。
「じゃ、じゃあアウラさんももしかして……」
「ええ、新種の古龍の恐れがあるので、その調査に……ジンオウガとか色々調べに来ました」
 気づけば雨雲は遠ざかり、その合間から戻った日差しがアウラの白銀を輝かせていた。
 二人を載せた荷車はようやく、ユクモ村が見下ろせる丘を登り、その稜線の向こうに消えていった。

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