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 キヨノブの様子がおかしい。
 お調子者で気さくな一面はそのままに、どこか時々陰りのある表情で遠くを見ている。その異変に気付いたのは、アズラエルだけだった。
「キヨ様」
 呼んでみる。普段ならもう、呼ばずとも向こうから声をかけてくる距離だ。
 視界に踏み入っても、ぼんやりとしたキヨノブのまなこは自分を写してはくれない。
「キヨ様? 竿、釣れてます。……キヨ様」
「え? あ、ああ、おう。わっとっとっとっとぉ! お、おう」
 農場の桟橋で水面に太公望だったキヨノブは、アズラエルの再三の呼びかけにようやく応えた。その手元は感じていなかった手応えにうろたえながらも、どうにか竿がしなる。アズラエルは横から手を貸してやりながら、やはりおかしいキヨノブの横顔を見詰める。
 普段なら釣り一つとっても大はしゃぎ、どこか子供じみた一面を見せるはずなのだが。
「……あー、逃げられちまったなあ」
「なにか考え事でもなさってたのですか? キヨ様」
「ん、いやなに……なんでもねぇよ」
 なんでもないと彼がヘラリヘラリ笑う時、それは自分だけで処理しきれぬなにかを抱えている時だ。長年連れ添ったアズラエルには、それがわかる。それだけがはっきりと知れるのに、その正体に気付けない自分が少し悔しい。心の奥底に暗雲を取り巻かせて、キヨノブは何か思案顔で再び竿を振る。
 餌もつけてないのに、浮きがポチャリと川面に浮かんだ。
「なんでえ、アズ。今日は狩りに行かねぇのか?」
「今、ランスを新造してるんです。それを待って、午後には」
「そうか、そりゃいい。昼、食ってから出るだろ? 俺に任せろぃ、今でけえ魚を――」
「餌がついてませんが、キヨ様」
 アズラエルがやわらかな苦笑で、しかし切なげに切羽詰まった言葉を滲ませる。
 ようやく気付いたキヨノブもまた、バツが悪そうに再度竿を引き上げた。
「やはり、なにか心配事でもおありですか?」
「……いやあ、その、なんていうかな」
 アズラエルはキヨノブに並んで腰を下ろす。
 天は広く青空で、雲は高くをゆっくりと流れていた。
「先日そう言えば、古龍のお話をしてましたが」
「あっ! あれな! うん、あれは……その、あれだ、あれなんだよ」
「あれ、ですか」
「そう、あれなんだ! うん……がはは、あんましアズには関係ねぇ話なんだがよ」
 そう言ってしかし、見透かすような澄んだ瞳で見詰められてキヨノブは息を飲んだ。そのままアズラエルを真っ直ぐ見据えて、竿をあげるや傍らに置く。
「関係なくはないな……お前に関係ねぇ話なんざ、俺には一つもねえよ。そうだろ?」
「キヨ様……」
「だが、ちょいと厄介なことでな。この足が動けばいいんだが、そうもいかねぇだろ?」
 ポンとキヨノブは、普段から引きずってる片足を叩いた。
 キヨノブの片足はもう、血の巡りも悪く用をなさない。昔、老山龍を撃退するという大激闘の末の、名誉の負傷だ。本人がそう嘯いて気にした様子もないが、アズラエルには心痛を察することができる。ようやくモンスターハンターという生き方に出会えた男が、その生業の最中に道を失ったのだ。共に野を駆け、山河を渡り、夜空を眺めて寝る……そういう暮らしはもう、できない。
 アズラエルを安心させるように笑ってみせるキヨノブが切なくて、アズラエルはつい身を乗り出した。
「キヨ様。私の命をお使いください。私は、キヨ様の杖になると誓ったのです」
「アズ、お前ぇ」
「杖であると同時に、剣にもなります。私を使ってください、キヨ様」
「馬鹿言えぇ! お前っ、お前の命はなあ、お前のもんなんだよ!」
 キヨノブが声を荒げたが、アズラエルも引き下がらない。
「私の命なら、私が好きにできるはずです。キヨ様のために使いたいんです」
「あーっ、駄目だ駄目だ! ……お前の命を踏み台に、俺が何かを得ていいと思うか?」
「キヨ様が望むなら、私は嬉しいです」
「誰が望めるかよ、そんな大事……気持ちはうれしいけど、よ」
 思わず前のめりに上体を屈めていたアズラエルは、額をコツンとキヨノブに打たれる。しかし次の瞬間には、キヨノブは額に額を押し当て、互いの吐息が拾える距離で呟いた。
「いいかアズ、もっと自分を大事にしなきゃいけねえ。そ、それにだ」
「キヨ様……」
「お、俺は、なんつーか、嫌なんだ……お前をもう、危ない狩りには出したくねえ」
 キヨノブはもにょもにょと要領を得ない呟きを漏らして、最後に「わかったな」と、よくわからない締めくくりで離れた。だが、アズラエルの白い肌が僅かに朱をおび、その熱がじんわりと温かい。
「はぁー、もういっそあれだな! 逃げちまうか! ……って訳にもいかねぇよなあ」
「キヨ様がお望みなら、私は構いませんが」
「見栄もメンツもねぇが、恩だけは裏切っちゃなんねえ。アズもそう思うだろう?」
 アズラエルは言われて、きょとんと首を傾げる。
 アズラエルという男はようやく少年期を脱するという年齢にもなって、未だに恩らしい恩をひとつしか感じていなかった。生来、人から疎まれ蔑まれて生きてきたという生い立ちだし、常に誰かのなぐさみものだったという育ちだからだ。だが、ただひとつの恩義が目の前で困り果ててるというのだけは、敏感に察知できてしまうのだ。
「それになあ、アズ。自分で言っといてなんだが、もう逃げ場所もねえよ」
 ここはキヨノブの故郷、シキ国は冴津のユクモ村。
 だが、アズラエルは無学だが無知ではないし、むしろ利発的な言葉が口をついて出る。
「キヨ様はこの地へ逃げてきたのではない筈です。ここが故郷だから……ふるさとだから」
 無論、アズラエルとて木の股から生まれたという訳ではない。故郷もあれば生家もある。年中灰色の空が低く垂れ込める、氷と雪に閉ざされた北海の地……そこにはもう、なんの未練もないが。だが、だれしもが思う郷愁があるとしたら、アズラエルはキヨノブの隣にこそそれを感じる男だった。
「この地で全てを清算するためだと私は思うのです。だから、妹君とも向きあった」
「それは……そう、だけど、まあ、あれだ」
「お綺麗な方ですね」
「……意外だな、アズ。お前が人をそんなふうに言うのはよ」
 アズラエルは対外的なことに興味を示さず、他人に目を向けるような男ではなかった。まるで狩猟のための精密機械のような、そんな冷たい男だったのだが。だがもう、今は違う。ミナガルデの仲間達を懐かしく思い、ユクモ村での仲間達を大事に思う。そういうことを最近食事や就寝後の一時に話す横顔は、以前よりも表情が豊かにキヨノブには感じられるのだ。
「……まあ、アズ。心配すんな。俺がなんとかすっからよ。……なんとかせにゃ」
「キヨ様」
「気持ちはうれしいけどよ、アズ。俺のことを想ってくれるなら、自分を大事にしろよな」
 そう言ってキヨノブは、薄いアズラエルの金髪をクシャクシャとなでる。
 自分を大事にしろなどと言ってくれるのは、アズラエルにはキヨノブしかいない。今まで自分の上を通り過ぎた男達は皆、アズラエルを愉悦の道具としてしかみていなかったからだ。
 だが、キヨノブはアズラエルを安心させると再び釣竿を手に取る。
「……キヨ様。それでも私はキヨ様のためなら、この命を使えます」
「よせやい、そんな」
「使いはしますが、捨てはしません。それだけはキヨ様にお約束します」
「……おう。じゃあ約束な。俺も約束する、命を無駄にしねぇ」
 たとえ文字通り足手まといだとしても、無駄だとは言わせねえ。キヨノブは確かにそう言って竿を振った。やはり餌を付け忘れた針が、遠くに波紋を幾重にもめぐらしポチャリと音を立てた。

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