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 轟く遠雷亭で上機嫌のミヅキを前に、オルカはまんじりともせず茶をすすっていた。
 同じテーブルを囲んで向かい合う二人の顔は対照的で、あの堅物を絵に描いたようなミヅキが今は鼻歌混じりで矢を作っている。反対に先程からオルカは、アンバースラッシュの刃を研ぐ手も止まりがちだ。
「……やっぱり、おかしい。詮索は無粋だとしても、おかしいよなあ」
 ポツリとオルカが零す一言に、「え?」とミヅキがにこやかな笑みを凍らせた。
 今日の仕事はドスバギィの狩猟、それも午前中には片がついた。その道中、大先輩のベテランハンターへオルカは不要な言葉をかけなかったが。自分でもそうすることが最大限の敬意でもあり礼儀だとも思ったが、やはり腑に落ちないのだ。
 コウジンサイの突然の引退宣言はしかし、目の前の少女を張り切らせている。
「そんなにおかしなことですか? コウジンサイ様ももうお年ですし」
「いや、高齢を理由にって人には見えないんだよな。今日も、ほら」
 オルカは思い出す。接敵と同時に手際よくペイントして後方のガンナーへ射線を渡すや、サイドから鋭い踏み込みで一閃したコウジンサイの妙技を。老いてなお盛んというのは、あのご老体のためにあるような言葉だとオルカは思う。事実、狩りは一方的な大成功に終わった。
 豪放にして大胆、それでいて繊細で老練な手管は圧巻とさえ言えた。
「コウジンサイさんの力や技に衰えは感じない。……きっと多分、本人も」
 だが、ミヅキはしばし考える素振りを見せながらも、鏃を固定する作業に戻った。
「でも、コウジンサイ様はもう楽隠居されてもいいと思いますけど」
 これからは自分が楽をさせるのだとさえ、ミヅキは言う。肉親も同然の慕いっぷりを見せるミヅキだが、オルカはなにか言い知れぬ不安が胸中に黒い霧を巡らせてゆくのを感じていた。
 言うなれば、若いなりに、新米なりにのハンターとしての勘。直感と言ってもいい。
「なにかこう、事情が……俺達には言えない難題を抱えてたりとか?」
「ならっ! わたしがお助けします! ……で、どんな困りごとですか?」
「や、それがわかれば苦労はしないけどさ」
「ちょ、ちょっとわたし、お屋敷に行ってきます!」
「あ、ちょっとミヅキさん! や、俺の勘というか、単なる思い込みかもしれな――」
 弾けるように立ち上がったミヅキは、お手製の矢をテーブルにそのまま振り向いた。
 慌てて手をのべ止めるオルカはその時、酒場の入り口に見慣れた仲間の姿を見る。向こうは先程からこちらを見ていたようで、しかし声をかけあぐねているようだった。
 そう、現れたアズラエルは普段と同じ無表情だったが、そこには小さな変化が読み取れる。
 なにがあってもけろりとしてる美丈夫は今、戦慄に鉄面皮を僅かに震えさせていた。
「あら、アズラエルさん」
「アズさん、どしたの? と、とにかく二人とも座りなよ。ミヅキさんも」
 オルカがとりなし、勇み足のミヅキは渋々座る。その隣に腰掛けるアズラエルは、心ここにあらずといった雰囲気で近づいてくるウェイトレスにも無反応だ。オルカが茶碗を一つ頼んで、それがテーブルに届きポットから熱い茶が注がれても、アズラエルは一言も喋らない。
 不思議な沈黙に耐えられなくなったのはミヅキだった。
「どうしたんですか、アズラエルさん。あの、なにが――」
「わかりません」
 アズラエルは冗談を言わない男だ。それは短い付き合いながら、ここ数ヶ月の間でオルカにはよくわかっていた。だが、再度わからないと零して、アズラエルはうつむいてしまう。
「……実は、コウジンサイ様や皆様に相談をと思ってたのですが」
「ああ、うん。俺等でよければ」
「で、どうしたんですか? アズラエルさんっ! わたし、力になりますっ」
 ようやく話の本題に入ったアズラエルの口から、どこかで聞いたような言葉が漏れ出た。
「キヨ様の様子がおかしいのです。でも、どうしてか私にはわかりません」
「そ、そうなの?」
「キヨノブさんって、アズラエルさんのとこの……お加減でも悪いんですか?」
「……わからないのです。わからない、それがこんなにも恐ろしい」
 アズラエルはテーブルに肘をつき、色素の薄い髪を指ですいて頭を抱えてしまった。
 オルカはただただミヅキと顔を合わせるばかりだったが、
「キヨさんもかあ……コウジンサイさんのこととなにか関係があるんだろうか?」
「そういえばコウジンサイ様、キヨノブさんとは旧知の仲というか……特別?」
 ミヅキが疑問に思う関係性を、ぼんやりとだがオルカは察していた。あれはそう、臣下の礼だ。どこか恭しく、奉ずる王やそれに類する者への態度。コウジンサイはいつでも、口調こそ砕けているもののキヨノブに対して忠臣のように接する。
 それは痛々しいまでの献身を見せるアズラエルとはまた別の意味で特別に見えた。
「キヨ様も? と、言うと……」
「うん、なんだかね。コウジンサイさんも今日は様子が違ってさ」
「引退されるそうなんです。でもオルカさん、様子がおかしいって言うんですよ」
 本人の前では普通に接していたが、やはりおかしいとオルカは心に結ぶ。男と男なれば、若輩の身とて相手の気持を汲むものだ。静かに凪いだ海のような老人の瞳は、詮索無用の一言で澄んでいたから。だから今日はただ、同じ狩人の仲間として仕事を共にして別れた。
 だがもう、二度と会えないような気が今はしてきて気持ちが焦る。
「それで、キヨ様が? いえ、違うはずです。喜ばれてはいない様子でしたから」
「と、いうと」
「コウジンサイ様はキヨ様の恩人であり、師に当たる方です。でも――」
 オルカは少ない情報から現状を整理してみる。
 まず、キヨノブの様子がおかしいらしい。そして実際目にしたが、平静を装うコウジンサイも同じく様子が違う。両者の関連性は不明だが。
 だがその時、二つの点を結んで線にする者の声をオルカは聞いた。
「ぬしらの心配はもっともじゃ。生死を共にし死線を潜る仲、自然と察したか」
 カウンターを振り向けば、コウジンサイの客人が盃を片手に振り返っていた。
 この麗人の名はハル。隣で酔い潰されたらしいサキネ、竜人の娘にも引けを取らぬ見目麗しさで濡れた視線を三者へ三様に放ってくる。オルカは年頃の男子相応の反応で思わず生唾を飲み下した。
「あ、あの、ええと」
「私の名はハル。キヨノブの妹じゃ。……そうか、礼を言わねばなるまいな」
 クイと手の盃から酒を飲み干すと、とっくりを片手にハルは近づいてくる。その足取りは酔った素振りを見せなかったが、突っ伏し酔いどれ眠るサキネを見るに、随分前から店にいたようだ。
 ハルは有無をいわさずオルカの隣に座って卓を囲んだ。
「おぬしら狩りの仲間に感謝を。よき友を得たな、テンゼン……いや、コウジンサイは」
「それはどういう意味でしょうか」
「そう怖い顔をするな、アズラエル。兄もまた、いい知己を、伴侶を得た。そうだろう?」
 アズラエルの声は驚くほどに落ち着いていたが、逆にその平静さが怖い。嫌に低く響く声音は、研ぎ澄まされた氷のよう。その凍てつく言葉を吸い込み、ハルは寂しそうに視線を外す。
「時には大を取るために小を捨てる、そういう話だ」
 オルカは、それは状況と状態にもよると思ったし、親しい仲では捨てる小を拾ってやれるだけの気概はあった。覚悟もあったし、それで当然という仲を得ているとも思っていた。
 それが事実で共有できる財産であることを、ミヅキが声高に叫ぶ。
「コウジンサイ様がそんな、損得勘定の話をされるはずがありませんっ! ……キヨノブさんも」
「……私がしているのだ。この、私がな。両者を天秤にかけて、重きを取る。それが私のさだめ」
 どうにもつかめぬ話だったが、アズラエルが突然身を乗り出して呟いた。
「キヨ様にもう、会われましたか? ハル様、キヨ様には」
「まだ会っておらぬな。ふふ、どんな顔をして会えと言うのだ? 先日城に顔を出した時も――」
「会ってください。今夜、いえ今すぐ。そして話してください。何時間でも、一夜でも」
 オルカは驚いた。あの冷静沈着でどこか老成したアズラエルが、声を弾ませ訴えかけているのだ。感情も顕に。そしてハルとの両者には、二人にしかわからぬ特別な気持ちと想いが揺れて見えた。
 ただただミヅキが首をかしげるのを前に、オルカは助け舟を出す。
「ハルさん、でしたっけ? キヨさんに会いに来たんじゃないんですか? 兄妹なんでしょ」
「そっ、そそ、それは」
「俺、兄も姉もいるからわかる。話さなきゃいけないこと、あるんでしょう? 違うかな」
 オルカはそれだけ言って勘定をテーブルに置くと、席を立った。
 ただ一言、アズラエルの耳元に囁いて。今夜行く場所がないなら、一狩りいかないかと。そうしてハルとキヨノブの時間を作ってやると、オルカは高まる不安感と深まる謎に思案顔で轟く遠雷亭を出た。

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