夜風に乗って流れてくるは、ほがらかな人々の喧騒。それが笛の音や歌声を伴い、村の外れのこの屋敷にも届いてくる。キヨノブは縁側に座って、ぼんやりと光る村の祭を見やった。癖のようなもので、自然と手は用をなさなくなった片足をさすっていた。  耳をすませば虫の鳴き声がかすかに聞こえる、本当に穏やかな夜だった。 「ささ、若様。まずは一献」 「もう若様じゃねぇんだがな、これがな」  苦笑を零しつつ、キヨノブは用意された盃を手に取った。薄闇にあってぼんやりと光るような、真っ白な少年が酒を注いでくれる。一口飲む。美味い。故郷の酒は五臓六腑にしみわたるようだった。  少年は薄い笑みを湛えて「何か肴をお持ちしましょう」と去っていった。  驚くほど存在感の希薄な、細く小さな背中が遠ざかってゆくのを視線で追っていると、 「あれが、チヨマルが世話を焼いてくれるので不精をしておりますわい」  どっかと隣に腰を下ろすや、コウジンサイは手酌で一杯やりだした。  キヨノブは旧知の恩人を隣に見上げながら、黙って杯を乾かす。 「友の忘れ形見でしてな。ああいう童ゆえ忌み子と疎まれてるとこを引き取ったのですが」 「変わらねぇな、テンゼン……いや、コウジンサイ。あんた、昔からそうだった」  静かに互いの杯に酒を注いでは、長い年月を埋めるように静かに飲む。  祭の賑わいを伴奏に、月だけが青々と輝いて二人を照らしていた。  キヨノブは胸中に再度、変わらないものだと呟く。今はコウジンサイと名乗るこの巨漢の老人は、初めて出会った少年の頃からそうだった。城に出入りし武家の子として励むようになってから、専ら師はこの男だった。武芸や学問は言うに及ばず、教養から悪い遊びまで。キヨノブにだけでなく、他の者達にも驚くほど老将は面倒見が良かった。 「カカカッ、しかし驚きましたぞ若。突然お戻りあそばすとは」 「いや何、気まぐれというか……まあ、一段落ついたしよ」 「ハル姫様にはこってりと絞られたでありましょう?」 「そりゃもう、な……こんな駄目兄貴だ、怒りたくもならぁな」 「いやいや、あれで内心喜んでおるのです。まあ、実際的には困り者ですがの」  そう、今の自分は悩みの種だとキヨノブは実感する。腹こそ違えど、かつてこの地を治めた男の血を引いているのが己だ。そして、それを知らぬ少年時代に、キヨノブは淡い過ちを犯したのだ。  半分血が繋がっているとも知らず、妹とも知らずに恋をした……結果、国を災禍へ放りこんでしまったのだ。何より、最愛の妹その人を、その中心へと投げ捨ててしまった。そうして自分は、逃げ出してしまった。 「……コウジンサイ。俺が国を出るときのあれは――」 「無論、ワシが御注進申し上げました。ハル姫様に求められました故な」  キヨノブは一瞬、目元を険しくした。だが、尖る視線を受け止めて尚、コウジンサイは泰然として言葉を紡ぐ。 「若の兄君方は皆、小心にて……若が跡取りと知るや、結託して亡き者にせんと企んだのです」 「それは解ってらあ! ……解ってた。だがよ、それがどうしてああなる?」 「我が教え子ながら、ハル姫様は文武に秀で聡明でありすぎた……というとこでしょうなあ」 「だから、俺を逃がして兄貴達全員ぶった斬れと? そうして国を盗れと入れ知恵したのか」  盃を握る手がわなないていた。詰問の声も震えている。  キヨノブはかつて、この冴津のお家騒動の中心人物でありながら、全てを捨てて国外へ逃れたという経緯がある。それが今、ふるさとに戻って再び膿んで出血を始めたのだ。古傷は激しく疼いて真っ赤に染まる。  だが、それを演出した影の脚本家は意外な言葉を口にした。 「普段は冷静沈着、これが男子であればと思うハル姫様がです……泣きつかれましてな」  不意にコウジンサイが目線を逸らして、ふと夜空の月を見上げた。 「今でも覚えておりますわい。キヨ兄様をお助けする手はないものかと……そう言って、それはもう幼子のように泣かれた。しかし時既に遅く――」 「俺はマヌケにも、兄貴達の掌の上……まな板の上だったって訳か」  コウジンサイは短く「左様」と言葉を切って、酒をグイと飲み干した。 「事態は急を要しておりました。また、若を亡き者にした後、他の若君達が国を巡って争うは必定」 「ならいっそ、ハルに国を……そう思ってか」  黙ってコウジンサイは頷いた。  キヨノブは今でもはっきりと憶えている。病に臥せった母を見舞いに来る、後に父と判明する男を。その厳つい強面が連れてくる、可愛らしい女の子……後に妹と判明する姫君を。 「俺ぁ相手が妹とも知らず張り切って、それで兄貴達に目をつけられて……とんだ道化だな」 「しかしそれも終わったこと……ハル姫様は自ら望んで、キヨハル様となられたのです」 「……解った、この話はもうよそうぜ。俺もこう、なんというか……善処するからよ」  そう、キヨノブはキヨノブで、過去を清算し未来を少しでも明るくする……その為に故郷へと帰ってきたのだから。その為には、過ぎた話を蒸し返すよりも、今を語るべきと心に結ぶ。 「して若、外の世界はどうでしたかな? 何やらいい目をするようになりましたなあ」 「よせやい、ガラじゃねぇ……ちょいと夢を見てきたまでよ。夢を、見果てたのさ」  そう、故郷を追われて無為に西へとさすらったキヨノブは、西の果てで夢を見た。それはもう、毎日が夢のような生き方に巡り会えたのだ。その残滓が今も、不自由な足が痛まなくなった今も胸のうちにある。モンスターハンターとして仲間達と駆けた日々が、今はもううたかたの夢。  その夢が覚めた時、ようやくキヨノブは過去と対面し未来を切り開く強さを得たのだ。  キヨノブが軽くこれまでの経緯を語ると、コウジンサイは腕組み大きく何度も頷いた。 「若もモンスターハンターを……解ります、解りますぞそのお気持ち」 「ハンターってないいな、いいもんだ」 「ワシも年甲斐もなくそう思いますわい。血が滾るものですわ」  豪快に笑うコウジンサイは、思い出したようにポンと膝を叩いた。 「それはそうと、若。連れておるあの異人は」 「ああ、アズのことか」 「家中の者ではないと言っておりましたが……いやしかし、若もやりますのう!」  バシバシと背中を叩かれ、キヨノブはコウジンサイの勘違いに酒を吹き出した。そういう遊びも教えられたし、武家社会では嗜みとも言えたが。キヨノブにとってはアズラエルは、そうした対象ではなかった。 「違うぜ、アズは……俺の連れだ。仲間で、そうだな、今は相方だ」  何故か不思議と、アズラエルは自分に懐いている。こんな自分を信用して、信頼して、好いてくれている。その好意の色に未だ気づけぬキヨノブではあったが、同種の異なる好意を彼もまた寄せていた。不自由な身体になった今、アズラエルの存在はとてもありがたく、得難い唯一無二の連れとも呼べた。  キヨノブはミナガルデでの日々を詳細に語り、自分と共に狩りに生きた者達をコウジンサイに語った。誰もが勇敢で誇り高く、何より強かで活き活きとしていた。そんな中、どこか別種の雰囲気をまとっていたアズラエルもまた、大事な仲間の一人だった。今は唯一身近な、とも言える。 「あいつはよ、なんか危なっかしくて……その、色々とアンバランスでよ」 「ですなあ。一目見てこのワシも感づきましたわい。何やら抱え込んでおりますのう」 「……そう見えるか? そうなんだがよ、それが何なのか……」  酔って火照った頬に夜風が気持ちいい。  キヨノブは黙って杯を床に置いた。 「まあでも、俺がしてやれることは少ないからな」 「それと若、あの異人……そうとうの手練ですな」 「ん? ああ、ちっちぇえ頃から狩場に出てたらしいからなあ」 「恐らく狩場だけではありますまい……あの眼」  ふとキヨノブは、縁側の床板に寝っ転がって頭の下に腕を組む。そうして見上げる月にふと、相方の面影が浮かび上がった。確かにアズラエルは暗く冷たい眼差しをいつも湛えて、誰彼構わず相手との間に壁をつくっている。  だが同時に、それが自分にだけは和らぐような気がするのだ。 「あいつはでも……俺の大事な、そうさな……弟分というか……放っておけないのさ」  キヨノブは自分でも言葉で定義できぬ関係性に、何やら胸がもやもやと熱くなるのを感じていた。