霞む視界に映る己の手は、かじかみ震えて皮膚がささくれだっていた。極寒の大地に夜が訪れ、睫毛も凍る程の寒さにオルカは身を震わせる。  シキ国の北方に広がる凍土は今、静かに闇に包まれようとしていた。 「……っ! しまった、最後のトラップツールが」  指が上手く動かないのは、寒さだけが原因ではない。オルカはもう、疲労困憊な上に満身創痍。今も痛みと寒さが身体を絞めつけてくる。  彼の手の中で今、トラップツールに収める筈だったネットが暴風にさらわれた。後に残ったのは、開封してしまって使い物にならないトラップツール。それはもう、火をつけ暖を取ることすらできない、燃えないゴミ。 「旦那さん、しっかりするニャア」 「くっ、捕獲は諦めるしかない。となれば……決着をつけるしかないか」 「今、ユキカゼが様子を見に行ってるニャン。旦那さん、少し休むニャ」  荒れ狂うブリザードの中、オルカは身をたたむように己を抱きながら、僅かでも暴風を防げる岩場の影に屈む。ウルクススの毛で編み込んだ防具は防寒性能に優れていたが、そのふわりとした着心地を侵食するように冷たさが滲んだ。  オルカが狩りに挑んで、既に一日が終わろうとしていた。早朝、日の出と同時に凍土を踏みしめた時は、好天で風も穏やかだったのだが。二度ほどネコタクでベースキャンプに放り込まれ、返す刀で何度も走りまわっているうちに天候は悪化した。まるでそう、この地に巣食う主の怒りを体現するように。  凍土の主、その名は氷牙竜ベリオロス……厳寒の地を統べる恐るべき飛竜だ。  オルカは長らく素材の為、何より己の限界を見定めるため、ベリオロスに一人で挑んでいた。 「今戻ったニャ! 旦那さん、ベリオロスは巣に逃げ帰って寝てるニャン。捕獲の好機ニャ」  否、一人ではない……二匹の頼れるオトモが、ずっとオルカを助けていてくれた。  ユキカゼはメラルー特有の黒い毛並みを雪で真っ白に染め、オルカの前に舞い戻るやブルブルと身を震わせた。それでも雪だるまのようになってしまっているユキカゼに、トウフがピッケルを向ける。 「チェリオーッ、ニャッ! ……雪、取れたかニャア」 「取れたニャ。ありがとニャン、トウフ。それより、旦那さん!」  アイルーとメラルーがじっとオルカを見上げてくる。そのつぶらな瞳を交互に見やって、オルカは長く深い溜息を一つ。それは白くけぶって、凍土の夜空に消えていった。 「今、罠の調合に失敗しちゃってね。捕獲は無理みたいだ」 「ニャンですとお!? 申し訳ないニャ、ボクがシビレ罠の術を覚えてれば……修行不足ニャア」 「や、ユキカゼは悪くないよ。付き合ってくれて、ありがとな」 「旦那さんの友達は、みんなボクの旦那さんニャ! これくらい当たり前ニャア」  オルカの仲間達は皆、誰もが狩りに手を貸すと動向を申し出てくれた。それを自分の都合で気持ちだけ受け取り、遠慮したのが裏目に出た。もっとも、それでもとオトモを貸してくれたアズラエルや、何かと気を使ってくれるサキネ、心配してくれる他の仲間達はありがたかったが。  例えば、無愛想だがその実親身なランサーがいてくれれば、こんなに手傷を負ったりはしなかっただろう。婿にこいとしつこいのには苦笑するしかないが、大剣使いがいてくれれば尻尾の切断ももっと楽だった筈だ。矮躯のあどけなさを残す狩猟笛使いや、金髪碧眼の射手に、異国の学者らしき女性達。そして、ユクモ村古参の老ハンター……皆、頼れる仲間だ。 「……ふぅ、何をこだわってたんだろうな、俺は」 「ニャ? どしたニャ、旦那さん。どこかまだ痛むかニャア」 「ううん、ただちょっと。意地っ張りで意固地なだけの、未熟者だったのかなって話」  オルカは再度溜息を零して、ポーチの中のアイテムを確認する。既に回復薬は尽きており、トウフが採取してきた薬草が一束あるだけだ。砥石にはまだ余裕があるが、ホットドリンクのビンはもう一つしかない。そしてそれを飲んでも、維持するべきスタミナが尽きかけていた。無論、携帯食料やこんがり肉は既にあらかた食べてしまった後だ。  寒さに震えながらオルカはスラッシュアクスを降ろし、その刃に砥石を当てる。  モンスターハンターの狩りには時間制限があり、期日を過ぎればその狩りは失敗となる。滅多にないことだが、タイムリミットの存在もまたオルカにプレッシャーを与え圧してくるのだ。 「そんなことはないニャ!」  気落ちするオルカの耳朶を、不意に大きな声が突き抜けた。  見ればユキカゼが胸を張って再度「そんなことはないニャア」と叫び、トウフもうんうんと頷いている。この小さな相棒達は、先程のオルカの弱気な一言を跳ね返してくれているのだ。 「旦那さん、旦那さんは立派ニャア。己を見極めることは大事だニャン」 「そうニャ、ユキカゼの言う通りニャア。これで駄目なら、改めて仲間に頼ればいいニャ」  二匹のオトモが交互にオルカを励ましてくれる。  そう、今こそ極限状態に身をおいて、自分が持つ力の限界を見定める時。まさしく全力全開、自らの全てを投じたこの狩りこそ、オルカというモンスターハンターの試金石なのだから。だから、これで駄目なら堂々と、なんら恥じることなく仲間達を頼れる。何ができて何ができないか、それが解る今ならば。  研ぎ終えたスラッシュアクスを背負うと、オルカは二匹のオトモの頭を撫でた。 「そうだな、うん……そうしよう。駄目ならそうするとして」  まだ、狩りは終わってはいない。次に体力が尽きる時は、流石にギルドのネコタクもオルカをユクモ村へと強制送還するだろう。それでも僅かながらオルカには余力が残っており、迫る期日にも若干の余裕がある。  なにより長い時間と労力を使って、オルカはあのベリオロスを追い詰めたのだ。  ここが正念場とばかりに、オルカは立ち上がるや気合を入れて頬をはたく。 「よしっ! 勝負に出る……ここまで追い込んだんだ、絶対に狩ってみせる!」 「旦那さん、その意気ニャ! 最後までボク達、しっかりオトモするニャア」 「あいニャ! 採取しか能がないボクだけど、回復笛くらいは習ってるニャン」  トウフは採取した鉱石やら昆虫でいっぱいのポーチから、小さな角笛を取り出した。それを口にあてて息を吸い込むと、次の瞬間には穏やかな戦慄が周囲を満たした。豪と荒れ狂う風雪の中、しとやかにオルカの四肢に癒しのメロディがいきわたる。  笛を吹きながら走り出すトウフに続いて、オルカも全身に鞭打って駆け出した。  トウフが奏でる回復笛のメロディは、どこかで聴いたことがある気がした。 「トウフ、この曲は……」  疾走するオルカは、足元に並ぶ相棒を見下ろす。 「あいニャ! これはももまんの旦那さんに習った曲ニャア」 「そうか、ルナルの……あの日、聴いたことがあるな。そうか」  それは酒場でいつも、仲間の一人がオカリナで吹いていた音楽だ。素朴で単純な、しかし軽やかでしなやかなその音色。それが今、トウフの角笛から癒しの力となってオルカに満ちる。  ますます足を早めれば、たちまち残り少ないスタミナが削れてゆく。それにも構わず、オルカは目の前に現れた氷の絶壁に飛びつくと、かじかむ手に力を込めてよじ登る。肺腑を出入りする呼吸だけが熱く、反対に自分を取り巻く空気は刺すように冷たい。  伸べた手が暗い空を掴んだその瞬間、オルカの視界が不意に開けた。 「いたニャ、ベリオロス! 寝てるニャン、チャンスですニャア」 「旦那さん、ボク達もしっかりアシストするニャ。トドメ、いっくニャァ〜!」  凍土の牙王は今、オルカ同様に傷だらけの身を横たえていた。その翼にあった棘は砕かれ、尾も切られている。立派な牙も今は見る影もなく、その白無垢の全身には真っ赤な鮮血が彩られていた。それでもなお、眼前でふてぶてしく寝息を立てる貫禄は、まさしくオルカが超えるべき壁とした飛竜そのもの。  オルカは一度だけ深呼吸をすると、素早くスラッシュアクスを展開する。 「属性ビン、強制圧縮っ! ……行こうか、トウフ。ユキカゼも」 「あいニャ!」 「日頃の修行の成果を見せるニャア……メラルーだってやる時はやるニャン」  オルカはスラッシュアクスに内包されたビンに通ずる、緊急用のボタンを勢い良く叩く。バシュン! と音を立てて、青熊斧改の毒ビンは手動で緊急圧縮され、その中の劇薬が一瞬でチャージされる。オルカはそのまま一振りで刃を展開させるや、両手で正面に構えてゆっくりとベリオロスににじり寄った。  まるでオルカを待ちわびていたかのように、むくりと身をもたげてベリオロスが咆哮を轟かせる。  その空気の振動が伝わるか伝わらないか、ギリギリの距離で大地を踏みしめ……オルカは決死の一歩を踏み出した。