飛ぶように馳せるアズラエルの耳は、かすかに空気を震わす二度目の悲鳴を拾っていた。同時に視界が開けて、左右に木々の緑が流れて消える。  街道へと躍り出たアズラエルは、そのまま声のする方向へ走る。  思えば自分は、女の悲鳴程度で動じる人間ではなかった。まして、助けに駆けつけようなどと……アズラエルは改めて自分の行動に苦笑を零すが、考えるよりも先に身体は動いていた。 「……見つけました。旅の御方! 目を閉じて下さい」  ユクモ村へと伸びる街道で、ジャギィの群れに囲まれた馬がいなないていた。その背で手綱を引くのは、黒い長髪を棚引かせる流麗な女性だ。その面影にはどこか、懐かしさを感じるアズラエル。だが、狩場にあってはひとつの精密機械のように、彼は閃光玉を放るや身を低く加速した。  ジャギィ達の悲鳴を聞きながら、とっさに馬を引いてアズラエルはその場を脱した。 「もう大丈夫でしょう。ミヅキ様達は……追いついてきませんか」  少しばかりの距離を走り抜いて、周囲の安全を確認してからようやくアズラエルは歩を止めた。  同時に、馬の背に揺られていた女性もまた一息ついて、旅装の笠を脱ぐ。 「危ないところを助かる、ユクモ村のモンスターハンターか? ……ふむ、異人か」  ほっそりとした小顔は目鼻立ちがすっきりとしていて、凛として涼やかでアズラエルでさえドキリとする。悲鳴こそ叫んだが取り乱した様子はなく、危機を脱した今も彼女は落ち着いていた。その面影というか、纏う雰囲気……匂いのようなものにアズラエルは既視感を抱く。 「私は、ふむ、そうだな……ハルという。ハンター、名は」 「私はアズラエルと申します」  脳裏に浮かぶ疑問を隅へと寄せて、アズラエルは努めて冷静に返答した。だが、その名を聞いてハルは「ほう」と瞳を細める。 「お前がアズラエルか。うん、改めて感謝を。お忍びの一人旅が仇となったわ」 「いえ、お気になさらずに。ユクモ村へ?」 「……古い知り合いを訪ねて、な。どうだろう、良ければ案内を頼めぬだろうか」  ハルの言葉にアズラエルは黙って手綱を手に取り、馬を引いて歩き出す。  それにしても、豪胆な娘だと内心で感心してしまうアズラエル。見れば腰には太刀をはいているし、いでたちはまるで男のようだ。馬の扱いも手馴れたもので、こうしてかしずかれることに慣れた様子さえ見せる。アズラエルの観察眼は自然と、ハルがやんごとなき地位の人間なのではと推測した。  そのアズラエルの内心を見透かすように、馬上のハルが言葉を選んでくる。 「アズラエル、というのは忌み名だな。たしか西方の彼方、北海の言葉だ」 「……お詳しいようですね」 「ふふ、仕事柄、というところだな。アズラエル……世界各地に散らばる伝承や神話、お伽話だ」  アズラエルは自分のこの名が、何に由来するものかを知っていた。幼少の頃より思い知らされてきたのだ。正しく忌み名……アズラエルとは、古い言い伝えにある邪の名だとも言われている。地方や地域で程度差こそあるものの、人ならぬ何かの呼び名として広く世界に広まっていた。  そう、生まれを疎まれ育ちをねじ曲げられた彼には、相応の不吉な名前だった。 「その者、中庸にして中庸にあらず。善良にして善良にあらず。……醜悪にして醜悪にあらず」 「私の育った北海の村にも、同じような言い伝えが」 「古き神々の時代を今に伝える歌だが。さて、そういう時代は本当にあったのか」  どう思う、と問うハルはしかし、昔ばなしには興味がない様子だ。 「星の海を渡る箱舟や、世界を統べる塔……私にも興味がありません、ハル様」 「ハルでよい。そうだな、今を生きる我々には、今の世をこそ考えねばならぬ」  そう言ってカラカラと笑う、その笑顔と笑い声でアズラエルはようやく思い出した。  たしか、この冴津の若殿の名が、キヨハル……なるほど、どこかで会ったことがある筈だ。類まれなる名君の腹違いの兄と、アズラエルは毎日寝食を共にしているのだから。  ハルと濁して名乗ったその真意は定かではないが、この人物はキヨノブの妹だ。  そう、対外的には男として生きる、かつてキヨノブが愛した女だった。  アズラエルにしては珍しく動揺が面に出ていたのか、その横顔を伺うハルが一言、 「案ずるな、兄を尋ねるはついでじゃ。コウジンサイに用がある……火急の用がな」  それっきり言葉は途絶えて、渓流のせせらぎと木々のそよぐ音だけが二人の間を行き来した。  そうしてやがて、ユクモ村を望む小高い丘を超える。湯けむりに煙る秘湯の里が、一面に広がりなだらかな坂の先に待っていた。  この場所に立つと不思議と、アズラエルはひとごこちついて気が休まる。一時とはいえ、キヨノブが待つ場所へ帰ってきたという安堵感が込み上げるのだ。そしてそれは、今は共有する人間が直ぐ側にいる。 「ふむ、兄上を隠すにはもってこいの村よの。さてアズラエル、世話をかけたな」 「いえ」 「なんじゃ、愛想のない男じゃ。……男、よな?」  ポンと馬を降りたハルが、長身のアズラエルを覗き込んでくる。確かに端正な面構えは女性かと見紛う程に整っているが、程良く絞られた贅肉のない肉体は、少年期を終える男の物だ。  そして、そんなアズラエルの顔をしげしげと眺めるハルもまた、中性的な顔立ちのなかに女性特有の柔らかさがある。よくぞこれでばれないものだと、アズラエルはうろんげに見詰めてくる瞳をぼんやり眺めていた。 「アズラエル、その、なんだ……」 「コウジンサイ様のお屋敷なら、表通りを真っ直ぐですが」 「ああ、それはいいのだ。その……暮らしぶりはどうか?」 「どう、と言われますと」  腕組み足を止めて、ユクモ村の風景を眺めながらぼそぼそとハルが言葉を紡ぐ。 「その、あれだ……も、もう解っておろう! 私はこの国の主、キヨハルじゃ」 「はあ」 「……なんじゃ、やっぱり驚かぬな。ま、それはよいのじゃ。して、その」  もじもじと手の指を遊ばせ俯きながら、ハルは僅かに頬を朱に染めた。 「兄上の暮らしぶりは、どうなんじゃろうか。不自由はないといいのだが」  少なくとも不自由をさせてはいないと、胸をはって応えられたらどれだけいいだろうか? だが、アズラエルはアズラエルで、ハルを前にすると僅かに気後れする。それは、相手の正体が殿様だからではない。  ハルは嘗て、あのキヨノブの愛を一心に受けて同じ気持ちを返していたと聞く。  そういうことをアズラエルだけには話してくれる、そんなキヨノブだった。 「私はな、アズラエル。まだ兄上を好いておる……ような、そうでもないような」 「私に言われても困りますが」 「まあ聞け。野に下った兄上が戻ってみれば、異人の男を連れておったのだ。どう思う?」 「はあ」 「その道は武家の嗜みでもあるが、その……先日会った折、私にはすぐに解った」  それは、アズラエルが享受を迷う至福の関係。  ハルは一度言葉を切ると、真っ直ぐアズラエルを見上げて静かに一言。 「兄上は、その異人の男に惚れておるのだ。あの目……私に解らいでか」  今度はアズラエルが頬を赤くする番だった。自分でも制御不能な感情がこみ上げ、不思議と身体がこわばり熱くなる。  同時に、胸の奥の暗闇から声がする……今まで積み上げてきた人の不幸が堆積した、心の底の暗部から。その資格があるのかと問うてくるのだ。酷く冷たい声が、過去を省みよと呼び掛けてくる。その声に振り返えるのが今、アズラエルには怖い。否、いつでも恐ろしいのだ。朝に夕に、日々の暮らしが充実すればする程、その声は密やかに忍び寄ってくる。アズラエルにまるで、幸せになる権利など微塵もないかのように。  だが、凝立するアズラエルの手を取り、ハルはぐっと身を乗り出した。 「気に食わぬ異人ならば、張り倒してくれようと思うたが。……ふむ、困ったことよな?」  それだけ言って春風のように笑うと、ハルは再び颯爽と愛馬に跨った。 「ご苦労、アズラエル。感謝を……今後もよしなに。よいな?」 「そ、それは」 「よ、い、な? この私が問うておる、返事をせい!」  それでもアズラエルは口ごもり、幼子のように黙ってしまう。 「ああもう、兄上はかような男のどこが……まあ、捨ておけぬは分かるが」  ぶつぶつと呟くハルは唇を尖らせそっぽを向くと、ゆっくりと馬をユクモ村へと進ませた。アズラエルはただ狼狽えながらも、美しいこの国の君主の後について家路を辿った。