このユクモ村を訪れてからというもの、ハルは何度となくこの家を訪れていた。村のモンスターハンター達に貸し出される、簡素な二階建ての一軒家。訪れてはいたがしかし、敷居をまたぐのをいつもハルは躊躇していた。  今日もまた、アズラエルに言われて来てみたものの、やはり躊躇いが門の前を行ったり来たりさせる。どんな顔をして兄に会えばいいのか、今もってハルにはわからないでいた。  それでもようやく勇気を振り絞って、引き戸をトントンと軽く叩く。 「おう、入んな! 悪ぃ、今ちょっと手が放せなくてよ。ミヅキちゃんか? ルナルちゃんか」  兄の声がした。大人の男に成長してなお、懐かしい響きが感じられる声音だ。  おずおずと戸を開けて上がりこんだハルを、一瞥してキヨノブは意外そうに手を止めた。だが、ふと優しく微笑み再び作業に針と糸を動かす。 「なんだハル、お前か。珍しいな、どうした? ……てっきり避けられてるのかと思ったぜ」 「私が兄上を? まさか、どうしてそんな……そんな、こと、なくも、ない」 「はは、素直じゃないか」  囲炉裏の前にあぐらをかいて、キヨノブは針仕事の真っ最中だった。  暖かな炎が静かに燃える、そのパチパチと小さな火の粉をあげる音を挟んでハルも座る。正対してじっと見詰めると、キヨノブはようやく作業の手を止めた。 「アズの奴が採取に出ててな。レザー一式を着てったから、その間にちょちょいのちょいよ」 「兄上、なにをしておるのじゃ?」 「これか? あいつの一張羅に装飾品をつけてるのさ」  モンスターハンターは古来より、防具の材料となったモンスターにまつわるまじないを重要視する。武器の斬れ味があがるまじないに、ボウガンのリロードが速くなるまじない。腹が減らなくなるものから、採取が上手くいくような気がするまじない。そう、気がするだけで十分なのだ。山野での狩りに生死を賭けるモンスターハンターには、そうした些細な験担ぎを軽んじる者は少ない。  キヨノブが今、くたびれたユクモ一式に縫い付けているのは、そのまじないが込められた装飾品の数々だった。 「アズは防具を新調しないからな。も少しいいもんにしろって言って聞かせてるんだけどよ」 「……なぜじゃろうか。ハンターにとって武具、とりわけ防具は大事なのではないのか?」 「気ぃ使ってんのさ。自分の防具より俺の生活費に稼ぎを使う、あいつはそういう奴だ」  キヨノブは再び、小さな輝きを発する珠を器用に縫いつけてゆく。  ハルは、やはり敵わないと思った。悟ったし、納得した。  兄キヨノブがちまちまと手を動かす、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。 「……で? お前さん、ちゃんとアズに会ってくれたのか?」 「あ、ああ。うん……兄上、あの異人は……アズラエルは、悪い奴ではないな。うん」 「当たり前よぉ。ちょっと危ういとこがあるけど、そりゃ俺も一緒さ」  キヨノブは側に置いてた茶碗を手に取り、一口茶をすすっては作業を続ける。  思わずハルの口から、率直な言葉が零れてしまった。 「あっ、兄上はでは、あの異人と……アズラエルと一緒になるのか?」 「ぶっ! けほけほ、お前、あのなあ」 「私にはわかる、あの異人は兄上を好いている。……私と同じだ」 「……ハル」  思わず茶を吹き出したキヨノブだが、重い沈黙に押し黙る。  かつてこの国の姫君ハルは、まだお姫様だったころに恋をした。その相手がたまたま、父の側室の息子だった……つまりは、異母兄妹だったのだ。そのことに気付いた時にはもう、引き返せないところまできていた。ハルの想いも、この国の未来も。  結果、キヨノブは国を捨て、ハルは女を捨てた。 「生活費など気にせずともよいのだ。職も用意するし……なあ、兄上」 「アズは優しい奴なんだよ。自分を忘れちまうくらいにな」 「そ、そうか……気が利く奴だが、だが兄上。なにかこう、アズラエルは」 「わかってるよ、ハル。あいつはまだ俺も知らない虚を抱えてる。それもどでかい奴をな」  装飾品を付け終えたキヨノブは、武具玉で多少は強化されてるであろうユクモ一式の道着を広げてみる。そして丁寧にたたむと、今度は篭手へも装飾品を当て始めた。  ハルは甲斐甲斐しい兄の姿を前に、強烈な嫉妬を感じる自分を辛うじて諌める。 「なんだハル、心配してんのか?」 「ちっ、ちち、違う! あ、兄上になにかあると城の者がうるさいからな! かっ、勘違いは」 「はは、そりゃすまねえな。ま、もうすぐその心配も無用になるさ」 「は? というと……兄上、まさか」  キヨノブはまたちまちまと細かい作業に没頭しながら視線を落とす。  ハルの眼差しを避けた瞳はしかし、決然とした意思が燃えていた。 「ハル、お前は間違っちゃいねえ。誰かがやらなきゃなんえぇんだ……馬鹿兄貴の尻拭いをな」 「……なんじゃ、兄上。知っておったのか」 「コウジンサイなら引き受けるさ、逃げやしねぇ。あいつは昔からそうだった」  お互いにとって師、かつての城代家老はそういう漢だ。だからこそハルは国のために死ねと言ったし、それを不服とも思わず黙って老人は頷いた。既に国の重鎮たる地位からは退いており、望めば断ることもできただろうに……コウジンサイは一切合切全てを引き受けた。だが、 「ま、それにしたってよ。一人じゃ寂しいだろ?」  キヨノブがちらりと視線を走らせる、その先へ首を巡らせハルは息を飲んだ。  ハンターの狩猟用の巨大なボウガンが、砲身を折りたたまれて土間の隅に置いてあった。 「アズには悪いけどよ、勝手に素材使わせて貰った……俺だって銃爪引くぐらいできらあ」 「あっ、兄上っ!」 「なんだハル、よせよなもう……そういう顔をするな、男の決意が鈍るぜ」  努めて平静を装うキヨノブの前で、ハルは身を乗り出して取り乱していた。その顔には今、情けない表情が浮かんでいるのだと思う。だが、それでもハルはキヨノブを止めなければと思った。  この男は、コウジンサイに付き合うつもりだ。 「古龍ってな、いうなれば生きる災害、災厄そのものだ。俺ぁ、怖いね。恐ろしい」 「でっ、では馬鹿な真似はやめて――」 「だがよ。この国のために恩師が死んでくれるってんだ。いいさ、付き合う」  それは涼やかで凛とした漢の笑顔だった。このシキ国に古来より生きるもののふ、さむらいの顔だった。  気付けばハルは囲炉裏を飛び越え、キヨノブの胸に飛び込んでいた。 「いっ、嫌だ! 兄上、よすのじゃ……私はコウジンサイばかりか、兄上まで失うのか?」 「ハル……」 「私はこの国の王だ、その重責から逃げはせぬ。逃げはせぬが……では、どうすればよいのじゃ」 「なに、俺だって死ぬ気はねえぜ? 一人より二人の方が成功率は高くなる。俺なんかでもな」  ハルを抱きとめながらも、ニコリとキヨノブは笑った。 「糞兄貴共が蒔いた種だ、俺がきっちりケジメつけてやる。だからよ、ハル……泣くなって」  気付けばハルの頬を涙が濡らしていた。気付いてまぶたを擦るも、とめどなく溢れる涙が止まらない。 「あっ、兄上は馬鹿じゃ。うつけじゃ、愚か者じゃ」 「はは。かわいい妹が踏ん張ってんだ、俺だってこれぐらいできらぁ」 「……あの者は、アズラエルは助けてはくれぬのか? 他のハンター達は」  しばし考える素振りを見せたが、キヨノブは即座に首を横に振った。恐らく何度も考えて自問自答したであろう、その結末だけをさらりと言ってのける。 「頼めばアズはやってくれるだろうさ。半端者の俺よか、あいつは余程役に立つ」 「じゃ、じゃあ」 「でも駄目だ。俺はよ、あちこち旅して思ったんだ。……あいつの居場所を見つなきゃ、ってな」  見上げるハルの頭を優しく撫でて、言い聞かせるようにキヨノブは言葉を続ける。 「心配すんな、俺はあいつやお前のとこに帰ってくる。コウジンサイと一緒にな」 「なっ、なら私も! 兵を動かそう、今すぐ城に戻って――」 「それができないから、コウジンサイを頼ったんだろ? 大丈夫さ、大丈夫だ」  くりかえし言い聞かせるように、キヨノブはハルの髪を撫でる。  静かに夜の帳が訪れて、その静寂にすすり泣くハルの声だけが焚き火の燃える音に入り混じった。