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「ヘイ、エディィィン!そっち行ったぞ!手前ぇ、もし逃がしやがったら…」

 通信機からけたたましく響くフェイの声。その言葉に続く、とても口に出来ない下品なスラングに尻を叩かれながら。エディンは汗に塗れて、路地裏から飛び出した。すぐ眼前を横切った、小さな影を追って。
 今日のクエストは確かに、多額の報酬が魅力的だったが。仕事の内容までもが魅力的とは、とても言い難かった。少なくともエディンにはそうだったし、相変わらず口汚い言葉を叫んでる、フェイにとってもそうだろう。

「勘弁してくださいよフェイさん!そんな破廉恥な…よ、よーし、逃げるなよ」

 捕らえるべき標的を見定め、エディンは危なげな足取りで塀によじ登り。奇異の目を向ける通行人の視線に耐えつつ、足音を殺して近付く。
 彼等が苦心して追うのは、小さな一匹の黒猫。今日の依頼は、逃げ出したペットを連れ戻す事だった。

「いいぞ、そのまま…って、お、おっ?あー!」

 気持ち良さそうに顔を洗う、黒猫の背後に忍び寄ったつもりが。自分を捕縛せんとする人間に気付くや否や、素早く黒猫は身を翻す。
 慌てて手を伸べたエディンはバランスを崩し、そのまま地面に落下…大の字に倒れて、虚しく硝子の空を見上げるしか無かった。
 二番艦エウロパは今日も快晴、雲一つ無い蒼空の彼方に、光の速さで遠ざかる星々が瞬く。

「あの馬鹿、ヘマこきやがって!悪ぃラグナ、後ぁ頼むぜ。オレぁ駄目だ、思わず撃っちまいそ…」

 後半は聞かなかった事にして。呆然と大地に身を投げ出すエディン。
もっと危険度の高い、それこそフェイが目を輝かせるようなクエストならまだいい。こんな簡単な、ペットを連れ戻すだけの仕事も満足にこなせない自分…情けないやら笑えないやらで、起き上がる気力も湧かない。
 思えばそもそも、このパイオニア2船団にペットという概念がある事自体が、エディンにとっては疑問だった。故郷コーラルの環境を可能な限り再現した、完全な自給自足閉鎖社会であるパイオニア2船団。しかし、ここは無限に広がるコーラルの、疲弊しつつも豊かな大地では無い。

「金持ちの道楽に付き合ってこの様か…大体、あの猫は移民局の認可を受けてるんだろうか!?」

 ここは超長距離恒星間移民船団、パイオニア2…衣食住は愚か、水や空気も制限された仮初の地。
 誰もが全員とは言わないが、多くの移民が新天地ラグオルへの入植まで、辛抱を強いられながら暮らしている。余分な命を養う余裕など、この船団にはありはしないのだ。ペットを飼うとなれば、移民局の認可を受けた余程の大富豪位しか思い浮かばない。

「どうかしらね…少なくとも私が見た限り、依頼人は真っ当な人間に見えたけど?」

 その声の主は、人工太陽の光を遮りながらエディンを見下ろし覗き込んだ。
 彼女も黒猫を追って、随分と走り回ったのだろう…サクヤの額には玉の汗が光り、それは形良い鼻先から雫となって落ちる。その一滴が額に落ちて、エディンは思わずドキリとした。立ち上がるのも忘れて。

「お金持ちでもね、お金で代わりの買えない大事なモノってあるの」

 そう言ってサクヤは、手を差し出す。

「でも結局、お金で解決するんでしょ?僕等ハンターズを使って」
「お金を払うしか出来ない、それが辛い人だって居るわ…ほら、早く立って頂戴」

 エディンが恐る恐る手を取れば、サクヤは躊躇無く握り返してくる。そのまま引っ張り上げられれば、理屈を捏ねる前に立たざるを得ない。しかしそれでも、一度考え出すと理の頚城に囚われ続けるのが、エディンの悪い癖だった。

「依頼人は感じのいいお婆さんよ。ラムジーと…あ、猫の名前ね」

 ラムジーと二人きりで暮らしてるの。そう言うとサクヤは、腰に手を当てエディンを見上げた。年上の彼女はしかし、エディンより僅かに目線二つ分身長が低い。
 それでも常に、深海の如き蒼さを湛えた瞳に見詰められると、エディンは何時も反論できずオロオロするだけだった。

「つまり、その、か、家族?って事になるのかな…唯一の」
「本星の戦乱で本当の家族を失い、資産を全部処分して移民になったんですって」

 母なる星コーラル…その環境が再生不能な程に悪化するまで、人間達は互いに殺し合う事をやめなかった。
 新たな秩序を構築し、コーラル人類の再建を掲げる元老院も。古い体制にしがみ付き、刷新される世界に抗う十カ国同盟も。
 エディンにははっきりと、戦争が悪であるという認識がある。戦争を憎みもするし、それは信念と言ってもいい。彼自身、何度も戦争に巻き込まれた経験があるから…彼のみならず、コーラルの誰もが、互いに争う事に疲れていた。

「大事な大事な最後の家族…なら、助けてあげたくなるじゃない?」

 サクヤは何時も、報酬や条件以外を重視してクエストを引き受けてくる。無論、報酬や条件も考慮した上で。
 彼女が選んでくるクエストはいつも、エディンの淡い恋心を再確認させるのだ。自分が何故、こうも彼女に…サクヤ=サクラギに惹かれるのかを。

「と、言う訳で…納得してもらえた?かなっ?ん?」

 真剣な、しかし微笑を湛えたサクヤに見詰められて。思わず頬が火照るのを感じながら、エディンは何度も頷いた。

「そ、そそ、そっ、そりゃもう…うんうん、僕も実は最初からそうじゃないかと…」

 思えば、久々の二人きり…道行く人々などもう、エディンの目には入らない。
 よしよし、と微笑み頷くサクヤ。彼女を前に、エディンは場の雰囲気に酔って、クエストの事も忘れて。今こそ勇気を…と、己を叱咤する。不思議そうに見上げて首を傾げるサクヤへ、今こそ想いを…だが、その可能性は実現しない。

「嘘が下手だねベイビー!いいから喋る前に足を動かしな…クソッ、見失っちまった!」

 多額の報酬に目がくらんだフェイが、突然現れエディンの背中を押す。驚くサクヤを尻目に、再びエディンは入り組んだ路地裏へと、無理矢理押し出されて走らされた。
 頭では依頼人の為と自分に言い聞かせつつ、本音は胸に今日もそっと秘めて…逆方向へと走り出した、華奢な背中の為に今、全身全霊で駆ける事を誓うエディン。

「よーし、やってやるぞ…猫、猫、猫…猫の気持ちを考えるんだ!猫の…」
「メセタの山がオレを呼んでるぜっ!待ってろよ、可愛い可愛い子猫ちゃぁん!」

 二番艦エウロパの下町を疾走するハンターズ。
 その姿を小さな黒猫は、瓦屋根の上から見下ろしていた。背後に忍び寄るラグナに気付いたのは、そっと抱き上げられてから。
 慌てて細い腕をすり抜け、逃げようとするラムジー。だが、ラグナは無遠慮に首の後を摘み上げると…そのまま、やはりラムジーと同じように、猛烈な勢いで路地を駆け巡る、エディンとフェイをぼんやりと眺めていた。

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