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 廊下で擦れ違う宿泊客の視線…それは半分冷やかす様でもあり、また羨む様でもあり。下卑た口笛と囃し立てる声も、悪意は無いのだろうと思いながらも。エディンは今はもう、頭の中がイッパイイッパイで。程良く回った酒も手伝い、なかなか思うように思考が定まらない。それでも結論を先延ばしにしながら、サクヤを支える彼はどんどん近付いている。山猫亭でも一番高価なスィートルームに。

「サクヤさん、大丈夫ですか?これ、鍵ですから」

 ついに部屋の前まで来てしまった。一際豪奢な部屋のドアは前時代的な造りで。今時、カードによる磁気認証や光認証では無く、鍵を挿し込み回すタイプだった。それ自体が高価な調度品である、エディンにとっての試練の門。
 鍵を受け取るサクヤに、既に力は無く。それでも鍵を握らせ、その手を己の手で包んで。今更ながら小さく綺麗なその白い手に、エディンの胸は高鳴った。否、今に始まった事ではない。二人で身を寄せ階段を登り、部屋へと歩く間ずっと。彼の心臓は早鐘の様に脈打ち、今にも口から飛び出そうにさえ感じる。

「んー、鍵…鍵ね」
「サクヤさん、逆です逆」

 サクヤはおぼつかない手付きで、受け取った鍵を鍵穴へと差し込もうとする。だが彼女が握るのは鍵本体では無く、それに付いているキーホルダーで。それを懸命に捩じ込もうとする彼女は、傍らのエディンが逆だと言うので、キーホルダーを引っくり返した。一向に埒が明かないので結局、エディンは彼女から鍵を受け取りドアを開ける。

「じゃ、じゃあ僕は帰りますから。大丈夫ですよね、サクヤさ…サクヤさん!?」

 彼女は何故か靴を脱いで部屋に入るなり、そのまま絨毯に倒れ込む。慌てて彼女の靴を持ってエディンが助け起こせば、背後でドアが音を立てて閉った。密室。密室である。二人きり。二人きりである。薄暗い室内で今、サクヤはエディンの腕の中で瞼を擦っていた。ぼんやりと灯る小さな明かりは、広々とした部屋の奥に天蓋付きのベットを浮かび上がらせる。
 既にもう、サクヤは自力での歩行は不可能で。しかしエディンには、彼女をベットまで運ぶ自信が無い。何も体力的な話をしているのではない…ただベットまで運ぶだけで済ませる自信が無いのだ。耳に痛い程の静寂。流石はスィートルーム、階下の喧騒も今は完全に別世界。

「と、ととっ、兎に角っ!このままではマズい!」

 意を決してエディンは、サクヤを抱きかかえて立ち上がる。その足元は酒にふらついたが、そこはそれ。以前よりも何倍も逞しくなっている筈の彼は、最後の力を振り絞ってベットへと歩いた。自分の胸に頬を寄せる、起きているとも寝ているとも解らぬサクヤを覗き込みながら。
 その一歩を踏み締める度に心が揺らぐ。それでもエディンはよろけながら、何とかベットに辿り着くと。そっとサクヤのしなやかな身を横たえた。それから…それから。紳士ならそのまま、そっと部屋を後にするのだろう。しかし男ならこのまま、欲望に身を任せるのかもしれない。ではエディンは?彼は…

「ええと、その、じゃ、じゃあ…うーん、よしっ!」

 意を決してエディンは踵を返した。そのまま彼は、逃げるように部屋を後にする…筈だった。正当な手段を用いなければ、正当な結果は得られない。そう思う彼にとってこの状況は、正当ならざる過程を経た状況だから。だが、勇気有る決断を自分でも誉める彼は、たった一言で立ち止まってしまう。

「待って…」
「は、はいぃ!どうかしましたかサクヤさん、どこか苦しいですか吐きそうですか」
「…待って、下さい、お願い…です」
「…ふぅ、寝言か」

 すぐさま枕元へ取って返すエディン。自分でも情けない位に、彼はサクヤの言葉に弱い。それが寝言と解っても、もう一歩も動けなかった。エディンが見守るサクヤは完全に寝入った様子で、安らかな寝息を立てているが。時々苦悶の表情を浮かべて寝言を呟く。それはどこか艶かしく色っぽい。
 苦しげに呻いて、自分で胸元を緩めながら。サクヤが身悶え寝返りを一つ。それは健康的な二十歳の男子を刺激するには、充分過ぎる仕草で。ゴクリと生唾を飲み込むエディンがベットに膝を立てると、僅かにギシリと軋む音。しかし切れかける理性を何度も、エディンは理屈で繋ぎ止めた。再びベットから離れると、彼は壁に張り付く。

「なっ、何をやっているんだ僕は…駄目だっ!エディン=ハライソ、耐えろっ!耐えてくれ」
「お願いします…時間を」

 妙な汗が滲んで、それを袖で拭いながら。エディンはしかし、眠りながら切々と懇願するサクヤの声を聞く。誰に何を…祈りにも似たその声は、縋るように途切れ途切れに静かな部屋を満たした。

「私に…時間を、下さ…」

 僅かに灯る小さな明かりが、サクヤの頬に光を輝かせた。彼女が始めてみせる涙に、エディンの心はズキリと痛む。どんな夢を見ているのだろうか?悪夢に魘されているのだろうか?それを確かめる術は無いが、ただ黙って静かにもう一度だけ。もう一度だけサクヤの枕元に歩み寄ると、身を屈めて。エディンはそっと、一筋の涙を拭い去る。

「お願い…私を、許し、て…」

 凍えるように身を縮めて、サクヤは許しを請う。そんな彼女を上手く転がし、何とか苦労して布団の中へと潜り込ませると。その横に自分の居場所は、まだ無い様な気がして。これからはしかし、どうかは解らないと自分へ言い聞かせるエディン。据え膳食わぬは男の恥と言うなら、恥を恥とも思わず甘んじよう。膳に飾られ据え置かれずとも、サクヤはいつでも側に居るから。憧れの理想像では無く、生身の一人の人間として。仲間として。

「僕が許しますよ、サクヤさん。だからもう、泣かないで下さい」
「ごめんな、さい…こんな、わがまま」

 僅かに表情が和らいだだろうか?しかしやはり、泣きながらサクヤは昏々と眠る。自分にも睡魔が襲い来るのを感じながら、立ち上がるエディン。出来ればこうして、朝まで見守っていたかったが。今しがた固めた決意が、不動不偏の物であるという自信も無く。今度こそ彼はこの場を去るべく、愛しい人へと背を向けた。見送る言葉はしかし、残酷に丸い刃でエディンの心を刻む。

「ごめんな、さい…イマチさん」

 突如、知らぬ名がエディンの耳朶を打つ。直感的にそれが男の名だと解った時にはもう、彼は転がるように部屋を飛び出していた。既に全身に回った酒が、思考能力を奪い激情を駆り立てる。彼は廊下の壁に頭を打ち付けると…今しがた出て来た半開きのドアへと、ゆらりと力無く振り返った。暗い情念が一瞬だけ、エディンの体を支配する。

「…クソッ!駄目だ…そんな自分を正当化出来てしまうっ!」

 再びドアノブに掛けた手は震えていた。しかし結局エディンはそのまま、オートロックを設定して…静かにゆっくりとドアを閉じる。理性が勝った事が何故か哀しく惨めで。それでよしとする理由を、上手く回らぬ頭が並べ始めた。
 急激な疲労感に襲われ、いよいよ身体は言う事を聞かなくなる。それでも壁にもたれて身を擦りながら、エディンは必死で家路を急いだ。一刻も早くこの場所から去りたい…溶けて消えたい。そう思う彼はしかし、人生初めての酒に倒れ込む。

「最悪の誕生日だ」

 誰を責める事も出来ず、エディンは一人廊下に崩れ落ちた。次第に遠退く意識は、どこかでドアの開く音を聞いて。どんどん狭くなる視界の隅に、よく見慣れた人物が姿を現す。眠そうに目を擦る小柄で華奢なその影が、確かに何かを囁くのを聞いたが。返事をする前にもう、エディンは暗い闇の底へと沈んでいった。

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