カゲツネは久々に"焦り"という感情を知覚していた。その原因は彼の"善意と好意"であり、具体的には"依頼主を見失ってしまった"という現状。
彼は巨体を揺るがし、全速力でラグオルの森を駆けた。その聴音センサーが、かすかに響く悲鳴を捉える。カゲツネは加速し、声のする方向へと最短距離を真っ直ぐに目指した。
「私としたことが初歩的な失敗を……レディに最低限の護身術があればよいのですが」
密やかに行われている、ハンターズによるラグオル調査。ひっそりと総督府に咲く秘められた花は、謎という名の甘い蜜に濡れていた。となれば、虫が匂いを嗅ぎ付けるは必定。今日のカゲツネの依頼主、ノル=リネイルもまた、真実の甘味を求める可憐な蝶だった。
――そう比喩して結び、カゲツネは我ながら詩人だと自画自賛。
同時にゲートのスイッチをハンドガンで打ち抜きつつ、惨劇の現場へと躍り出た。
「いやあああ! こんな……これがラグオル、私達の楽園……」
ノル=リネイルはジャーナリスト。Pioneer Standard Optical Network――いわゆるプソネット上にニュースサイトを運営している。職人気質で、古き良き新聞の高潔さを信奉し、日々公共の目となり耳となるべく奮戦していた。
そんな彼女にカゲツネは、秘密のラグオル降下に際してかなりの自由を許した。それはひとえに、ノルの人となりを気遣い、同時に信用したから。自分の仕事にプライドを持つ女性の扱い方を、彼は熟知しているのだ。多くの失敗を体験し、その経験に基く多くの知識を得ていたから。
しかし、その判断は今日は裏目に出た。
「目ぇつぶって伏せてな! ファッキンブーマが……!」
カゲツネの依頼主は、原生動物達に囲まれ銃を構えていた。素人であることを全身で体現するノルは今、震える銃口を身の危険へと向けながら……決して銃爪を引こうとしない。
それもまたいいとカゲツネは、両手を胸の前で交差する。無骨な掌がクラインポケットをまさぐり、目的の銃把を探し当てて握った。同時に彼は無言の雄叫びを心に叫んで、群なす原生動物をノルに近い順にロックオン。
両の手にマシンガンが現出し、あたかも左右が別々の生き物のように次々と原生動物へと粒子の礫を浴びせた。カゲツネは黙々と、機械的にブーマを処理してゆく。それがゴブーマでもジゴブーマでも、彼の放つ銃弾に容赦はない。
ノルが屈んで頭を抱えて震えているうちに、周囲から彼女意外のイキモノは消え失せた。
「状況終了、と。ミズ・リネイル、お怪我は?」
粒圧が上がりきった両手のマシンガンを、まるで拳銃のようにクルクルと回して。概ね多くの恋人達に好評なポーズで、腰のホルスターへと収める……ような素振りで、クラインポケットへと放り込む。そうしてカゲツネは、今日のクエストの依頼人へと声をかけた。
ノルはまだ、拳銃を両手で構えて突き出したまま硬直していた。その華奢な肩が戦慄にわなないている。
無理もない事だと、カゲツネはゆっくり接近。ノルは極度の興奮状態ながら、最後の理性が彼女に矜持を守らせ、同時に生命を危機に曝していた。
刺激しないように、にこやかに微笑めたらどんなにいいだろう? しかしカゲツネは、人間であれば目のある部分に掘り込まれたスリットに光を走らせる他に、表情と呼べるものを作ることはできない。
「こっ、ここ、これは……これは何!? 何なの!?」
「ラグオルの原生動物です。原因は不明ですが、極度に凶暴化しており……おっと」
よほどの恐怖を味わったのだろう……ノルの大きな瞳は潤んで揺れ、一筋の光が零れ落ちる。
それでも彼女は、緊張に強張る両手にハンドガンを握り続けていた。近寄るカゲツネの一歩を聞いて、怯えた様子で銃口を向ける。自分が仕事を依頼した、このラグオルでは保護者でもあるハンターズのカゲツネへと。
カゲツネはそれでも、歩調を乱さずノルに歩み寄った。
「危機は去りました、銃を納めてください。レディに銃は似合いませんよ……人にもよりますが」
カゲツネの脳裏を、鉄火場に咲く花達が過ぎる。口ではそう言ってみるものの、彼は香水代わりに硝煙を身に纏い、花束よりも銃を片手にパーティの主役になる恋人を沢山知っていた。
無論、ノルとは人種の違う女性……生きる世界が違う。
「これは何かって聞いてるの! こんな……ラグオルがこんなだなんてっ!」
笑う膝に鞭打って、ノルが後ずさりながらも叫ぶ。その手の中で、量販品のハンドガンがカゲツネを睨んでいた。構わずカゲツネが歩み寄れば、震える指先が銃爪にかかる。
「ミズ・リネイル、どうか落ち着いてください。もう安心です。さあ、その手を放して」
カゲツネには確信があった……ノルは撃たないという確信が。
ゆっくりと寄り添い、細く白い腕に手を添えて。そっとカゲツネはノルから銃を取り上げた。そして安全装置をかけると、その小さな手へと再び銃身を握らせる。
「わ、私……えと、あの、その……」
「いいんですよ、ミズ・リネイル。今は恐ろしい場所ですから、このラグオルは」
ノルに知られてしまった。ラグオルの現実を。しかしそれは、彼女自身が望んだこと。ジャーナリストとして今、ノル=リネイルは真実の一端を握った。握ったが、その硬さ、冷たさ……何より痛さに苦悶している。カゲツネにはそれが、手に取るように感じられた。
「ラグオルには今、我々人類を拒む敵意が満ちています」
「そ、そうみたいね……それはでも、大いなる謎だわ。だってパイオニア1は――」
「あれを見たなら、もう知ってしまったのではありませんか?」
カゲツネは顎をしゃくって、ノルの背後に安置された気象観測用の端末を指す。
ノルはカゲツネの居ない間に、それを独自に調査したようだった。カゲツネはその存在を知っていたが、どうしても彼女自身に直に触れて、己の手で解析して、己の頭で理解して欲しかった。
それを彼女が望むから。それこそが彼女の、ノルのプライドを満たす唯一の方法だから。例え痛みを伴っても。
「どのログもある一瞬までは正常に記録されていたわ。でも」
「ある一瞬を境に、全ての記録が途絶えている……そうですね? ミズ・リネイル」
「その呼び方、やめて頂戴……好きじゃないの、あてつけみたいで」
「了解しました、リネイル女史。さて、どうしましょう? 調査を続けるなら案内しますが」
ミセスではなくミスなら好ましいと、凛々しい横顔を眺めてカゲツネは言葉を重ねる。
ノルが望めば、カゲツネは案内するつもりだった。ハンターズによる極秘のラグオル調査……その最前線へ。意図的に隠され、何者かによって破壊されたテレポーター。今は総督府のスタッフにより復旧作業の進んでいる、先日仲間のエステルが示した旅路の先へ。
しかしノルは静かに首を横に振った。
「ううん、もういい……もういいわ、カゲツネさん。お疲れ様、帰りましょう」
「貴女ならそう言うと思ってました。記事にしなくてもよろしいのですか?」
「そうね、大スクープなんだけど……私、別にアクセス数を稼ぎたい訳じゃないから」
「この現実は今、不安に怯えるパイオニア2市民にとって害でしかない……そうお考えでは?」
「ニュースサイト業界でトップに躍り出る、それも面白いけど……嫌よ、同胞を悪戯に泣かせるのは」
「実に貴女らしい。その決断が貴女の奉じるジャーナリズムに合致すると、私が保証しますよ」
カゲツネはそう言ってテレパイプを地面に投じる。小さなカプセルは大地に転がると、瞬時に弾けてパイオニア2への帰路を天へと屹立させた。光の柱はゆらりと揺れて、二人を仮初の故郷へ――同胞が身を寄せ合って暮らす、希望の方舟へと誘う。
「真実が公共の利益を損なうことは絶対にない――これが私のジャーナリズムよ。でも……」
「時として真実は残酷です。それを誰より実感する貴女だから。その優しさが、いい」
「優しさではなく、これは私の弱さよ……怖いの、真実を暴くことでパイオニア2は――」
「弱さを知って人は優しくなるのです。あ、これは私の恋人の言葉ですが」
その手に銃を握り締めて、ノルは俯き己の肩を抱く。
ノルは葛藤していた。彼女の中には二人のノル=リネイルが存在する。ジャーナリストとして公正で無慈悲に、一切の感情を排して真実を提示しようとするノルと。そんな彼女に反して、残酷すぎる真実を己の胸にだけ秘めようとする、一人の人間としてのノル。
後者であろうと決めたノルを、カゲツネはそっと抱きしめた。
「……こうして貴方は、沢山の恋人を得た訳ね。ま、悪くないけど」
「私は必要な時に必要なだけ、自分の求め欲する気持ちに正直になるだけですよ」
「私、ジャーナリスト失格ね」
「真のジャーナリストとは、情報の価値を精査できる人間ではないでしょうか? それに……」
ノルの頭をそっと撫で、ハンターズに扮して結わえられた髪をほどく。たおやかな金髪がラグオルの風に舞った。
「それに、貴女は最後まで撃たなかった。それは貴女が最後までジャーナリストだったから」
「ふふ、怖かっただけよ……すくんでたの。まあでも……」
「ペンは剣より強し。まあ、銃よりも強いでしょう。貴女のペンには、まだ仕事があります」
「そう言ってくれる人が、まさかハンターズにいるなんて……そうね、考えてみるつもり」
カゲツネの抱擁を拒む事無く、その硬い胸板に頬を寄せて。しばし身を預けていたノルは、やがて顔を上げてカゲツネから離れた。その瞳にもう涙はなく、決意の色が確かに灯る。
「この現状を秘匿している総督府を、先ずは少し突っ突いてみるつもりよ」
「しかし、下手に手を出せば結局は」
「そう、市民に不安が広がってしまう。事は慎重に運ばなければいけないわね」
「ええ、元凶を指差し煽るだけなら誰でもできます。貴女はでも、それ以上を目指さなければ」
「とりあえずそうね、総督府とその周囲の組織を洗う必要はありそうね」
「例えば……ラボとか? 危険は避けて欲しいですね。美人の不幸は身に堪えますから」
ノルは既に、ハンドガンをクラインポケットに葬っていた。
しゃんとした様子のノルは、カゲツネには初めて会ったギルドカウンターでの彼女を彷彿とさせる。本来の快活さが蘇ったノルは、ようやく自分自身を取り戻したようだった。
その姿を見て感じて確認して、カゲツネも一人の女性としてノルに接する事ができる。
彼にとって女性とは、好意を示して好意を求める対象に他ならない。その為の努力を重ねるのは、彼の大いなる喜びであった。良好な結果に結び付くとは限らずとも。
「私は自分のできる取材を、できる限りやってみる……進んでみる」
「貴女が真に望むなら、それが最善と言えるでしょう。私は貴女の最善を望みます」
「うん、じゃあ帰りましょう。あの船こそ……パイオニア2こそ、私の戦う場所だから」
「では最後まで私が御供を。無論、今後も私は貴女の側にいますよ。常に、ずっと」
それだけを覚えていて欲しいと、カゲツネはノルに微笑んでみる。無論、彼の頭部が表情を形作ることはないが。
しかしカゲツネは結局、その後も殺し文句を駆使して口説いてみたが。仕事と言う生甲斐が恋敵では、勝算は限り無くゼロに近く……ノルから感謝以外の気持ちを引き出すことができなかった。