重苦しい空気が沈殿し、ギルドカウンター前の人混みを包む空気は澱んでいた。誰もがもしやと希望を持ちつつ……帰ってきたヨラシムの面持ちに、全てを悟ってしまったから。
ただ一人、毅然とハンターズの中心に立つアリシア=バズが、弱々しい笑みでヨラシムを出迎えた。
「お久しぶりです、ヨラシムさん。義父は――」
ヨラシムはただ、沈黙で答えるしかできなかった。
それだけで全てが、周囲に静かに浸透してゆく。誰もが求める結果は遠く、真実は公平で残酷で……ただ、その者がこの場にいない。
英雄、還らず……また一人の漢が、ラグオルの遺跡に消えていった。
「……一万匹斬り、ありゃあ見事だったぜ。俺が確かに見届けた」
それはヨラシムの本音であり、今口にできる唯一の言葉だった。
たとえ本人以外が誰も望んでなくとも、英雄ドノフ=バズの名は、その偉業と共に記憶される。前人未到、脅威の一万匹斬り。この記録を破る者は、これから先も現れることはないだろう。
深い溜息で言葉を区切り俯くヨラシムへと、アリシアは進み出て手を取った。
「義父は、満足だったんでしょうか?」
「さあ、な……だがよ、オヤジさんは笑って逝きやがった」
「遺体は――」
「あの遺跡で死ねば、誰も彼もが一緒さ。……吸い込まれちまった」
「そうですか」
「形見の一つもと思ったが……悪ぃな」
周囲を嘆きの輪唱が包み、それは徐々に嗚咽と憤りへ連鎖してゆく。
宿願の達成と共に旅立った、一人の漢……ドノフ=バズ。その圧倒的なカリスマは、ハンターズの中でも絶対だった。かつては軍に所属し、あのヒースクリフ=フロウウェンと並び称された剣豪。一人のハンターズとして、一人の剣士として……何より、一人の漢として。彼は今、真に永遠なる存在へと昇華してしまった。
一人見送り見届けたヨラシムは、僅かに震えるアリシアの手を握り返す。
「どうして男の人って、いつもこうなんでしょう」
無理に微笑み、細められた瞳が潤んで、長い睫毛が湿り気を帯びる。そのまま零れる涙を拭うと、アリシアはヨラシムの手を放した。見守る周囲もかける言葉を選べず、ただ互いに顔を見合わせては首を振る。
「ずっと前しか見えてない……待ってる人間の気も知らず」
アリシアの言葉に、ハンターズの何人かが恐縮する気配を見せた。
構わず呟きは零れる。
「女はいつも、後で心配しながら待つしかできない」
「……追いかけてくる奴もいるけど、まぁ大半はそうだ、な」
女だてらに、男勝りな人間はハンターズに多い。自身もそんな人間を身近に知ってはいたが、それが全体から見ればマイノリティであることもヨラシムは承知していた。
いつの世も男は命知らずの冒険家で、それを待つ女の心痛に疎い。
「それでも、義父が満足なら……今はもう、そう思うしか」
「満足に決まってらぁ。そいつは俺が保障するぜ。何の慰めにもならんけど、よ」
アリシアを見下ろすヨラシムには、他に言葉が見つからなかった。
自分がもし、同じ立場なら……ドノフと同じ立場だったなら。無論、ヨラシムは数や記録にこだわる性質ではなかったが、彼なりの矜持は確かにある。それを守り貫く為ならば、やはり命も厭わぬだろうか? その答はまだ、己の中に見出せない。しかし、その辿り着く先は今、眼前で泣いている。
ありえないと思いつつも、アリシアの姿が嘗ての恋人に重なり、ヨラシムの胸は疼痛に軋んだ。
「ちょ、おいっ! 待てって! 奴だってな――」
「いいから止めろ、ったく若ぇのは」
「放して下さいっ! こんなのっ、納得できませんっ!」
不意に周囲が慌しくなり、人混みをかきわけ一人のヒューマーが躍り出た。彼はヨラシムとアリシアの間に割って入ると、怒りに燃える瞳で憎悪の対象を睨みつけた。その震える姿を、ぼんやりと見詰めるヨラシム。
「アンタなら止めることだって出来た筈だ! むざむざこんな……どうしてっ!」
まだ若い、少年ヒューマーだった。年の頃は丁度、ザナードと同じ位か……まだ新しいスーツに身を包み、見開いた瞳に憤りの炎を燻らしている。彼は止める周囲やアリシアにも構わず、噛み付くような勢いでヨラシムに迫った。
「……そうさ、な。止めることもできたかも、な」
「だったら、どうして! アンタ程の人が……アンタ、ベテランなんだろ? 強いんだろ?」
言われて初めて、ヨラシムの双肩にズシリと何かが圧し掛かった。その重圧が積み重なった年月だと気付いて、小さな溜息が鼻から零れる。
しかし構わず、止める周囲を引き剥がすように少年は糾弾の手を緩めない。
「ドノフ様を止めて、連れ帰ることだって……守ることだってできた筈だ!」
「……そうだな。できねぇと言えば嘘になるな」
ドノフ=バズは病魔に冒されていた。全盛期を過ぎて尚盛んな、その闘争心にいささかも陰りはなかったが……肉体は無情にも、剣士として力を失っていた。それでも最期の最期に、遺跡最奥にて偉業を達成させたのは、決して老いぬ魂の力に他ならない。
それが解るヨラシムには、あるいはドノフを止めることができたかもしれない。否、腕力に物を言わせれば、無理にでも病院に連れ帰ることができただろう。
だが、それをしなかったばかりか、ヨラシムは積極的にドノフ最期の戦いを助けた。未だ地図の揃わぬ遺跡の深遠を切り開き、むらがるダークエネミーの群を誘導して、ドノフと共に剣を振るった。
「じゃあボウズ、お前さんならどうする?」
「決まってます! 連れ戻しますよ……だって、待ってる人がいるんですよ!?」
「そうだ、な。ボウズ、お前さんはいい奴だな」
「なっ……バカにしてるんですか!? 僕は真面目な話をしてるんですっ!」
少年はヨラシムの襟首に掴みかかってきた。その手が締め付けてくる圧迫感に、黙ってヨラシムは耐える。振り払う代わりにただ、真っ直ぐ見下ろし見詰める。
「俺ぁハンターズである前に剣士だ……少なくとも、オヤジさんはそうだった」
「そうである前に、人間であるべきですっ! 人として、人の命が――」
「剣に生き、剣に死ぬ……剣士ってのは、それを選ぶ人間なんだよ」
「そんな……僕には解りません! 解れませんよ、そんなことっ!」
ずるずるとヨラシムに縋るように、少年が崩れ落ちた。慌てて駆け寄るアリシアに気遣われて、彼はしきりに床へ拳を叩き付ける。
若い青さを背に、ヨラシムはカウンターで報酬を受け取ると……パイオニア2の夕闇へと踏み出した。
紫色に染まる硝子の空を、今は見上げる気にならないヨラシムだった。