始めてみる、静けさの漂う正午前の山猫亭。その古く小さな宿屋兼酒場は今日も、以前にも増して厳しい食料統制が嘘の様に、酒と料理で満ちていたが。  客の姿が、一人しかいない。時間帯を考えれば一般客がいないのは、エディンにはすぐに理解できたが。同業者が――ハンターズが一人もいない山猫亭は一種異様な雰囲気。 「誰も彼もが皆、ラグオルへ……か」  女将と目があい、軽く会釈で挨拶を交わす。何を聞くでもなく、この店の主は今日も笑顔でエディンを迎えた。  待ち人はもう、すでに来ていた。  カウンターの右から三番目。そこは常に、ある仲間だけの特等席で。今はしかし、見慣れたセイバーを分解整備するサクヤ=オロチマルの姿がある。その疲労が滲む顔は、いつにも増して白い。  外装を外して、フォトンドライブを露出させる。そこから触媒となる石を取り出し、丹念に磨いてゆく……黙々と作業する彼女に、思わずエディンは声を掛けることが躊躇われる。だからずっと、少しやつれた横顔を、その白い手の指を眺めていた。 「久しぶりね。元気そうで良かったわ」  顔を上げずに、作業を続けながら。エディンに放られる声は、いつもの張りも艶もない。  エディンは黙ってサクヤの隣に座り、女将に飲み物を注文する。サクヤと同じ物を――この場にいない仲間の愛飲する、毒々しい蛍光色の炭酸飲料を。 「傷、痛む?」 「ええ、まだ少し」  会話が弾まない。互いに避けてる話題があるから。そのことで今日、この場に集ったにも関わらず。  沈黙に女将の溜息が混じる。フォトビジョンのニュースは相変わらず、沈黙を守る総督府への攻撃に彩られて。何一つ明るい話題のないチャンネルを一巡して、結局女将はスイッチを切った。  静寂――グラスの中で氷が溶け崩れる、その音がやけに響く。 「あの、サクヤさ――」 「エディン君、その――」  互いを呼ぶ声が重なり、気まずさに沈黙。手を止め顔を上げたサクヤが、エディンに向き直る。  海よりも深い蒼を湛えた、大きな瞳が潤んで見詰める。  普段の勝気で気丈な、凛とした普段のサクヤはどこにもなかった。今はもう、頼りなく儚げな姿が目の前に佇んでいる。それはどこか怯えているよう。  意を決してエディンは口を開いた。まずは人として、一人の人間として伝えたい気持ちがあるから。 「サクヤさん、ありがとうございました。おかげで僕、こうして生きてます」 「ううん、私だけの力じゃ無いわ……」 「確かにサクヤさんだけじゃなく、大勢の人に助けられました。でも――」  手元に目線を落として、セイバーを組み立ててゆくサクヤ。その横顔を見詰めて、エディンは言葉を続けた。 「でも、サクヤさんもその一人だから。だから僕、お礼が言いたいんです」  サクヤの手が一瞬止まった。しかし彼女は、自嘲気味に寂しく笑うと。そのままセイバーを完成させてしまった。  エディンには見慣れた、仲間の一人が今まで大事にしていた一振りが姿を現す。 「そう……ふふ、こんな私でも役に立ったのかな」 「サクヤさん……」 「私ね、思い知らされたの。いかに自分が無力か、って」  組みあがったセイバーをクルリと回して握ると。サクヤは面を上げた。 「八岐宗家の盟主として、この半月……私なりに努力はしてみたつもり。だけど……」 「一人で何でも背負うから。サクヤさん、もっと周りの人を信じて頼ってくださいよ」 「でも、私は――」 「私は、私が、私だから……きっと頑張りすぎですよ。それじゃ、支えるみんなも疲れちゃうから」 「支える、みんな」 「ええ、沢山の人がサクヤさんを支えてます。きっとあの人も……」  直接会ったことは、ない。立場上は自分の兄弟子にあたる、サクヤの人生の伴侶。エディンはその人物を師からは、なかなかの好漢だと聞かされていた。そのことは今も少しだけ、エディンの心をやすらかな物にしている。  このフォトン科学文明全盛の時代に、古い血を残すことに固執する一族が存在する……その血に異能の力を宿す故に。そのことをサクヤが受け入れれば、エディンも納得するしかない。するしかないと自分に言い聞かせつつも、まだ見ぬ相手の人となりを聞けば、後は決着をつけて幸せを願うだけ――  だが、一つだけ望むなら。サクヤにはいつもの、普通のサクヤで……エディンの良く知るサクヤでいて欲しかった。恐らくそれが、誰もが望む彼女の姿だと信じるから。 「あの人?」 「え、ああ、はい! ほら……何か、この間の戦いで助けてくれた、真っ白な――」  慌てて嘘を吐いた。自分でもまだ、こだわりがある――決着をつけるべき、最後のこだわりが。 「シオね……彼女、おかしいのよ。マグを返しにきて、その時言ったの」 「良かった、無事だったんですね」 「暫くは車椅子生活だけどね、彼女が言うの。何か、自分にできる事はないか、って」  おかしいでしょ、とサクヤは笑った。それは今日、初めて見せる彼女のささやかな笑顔で。エディンも自然と、頬を綻ばせる。 「おかしくはないですよ、サクヤさん。あの人がそう言うなら、どんどん手伝って貰うんです」 「そうね、お陰で随分と楽になったわ……いいのかな、でも」 「いいんですよ! 上に立つ人間って、何でも自分で抱えちゃ駄目です」 「そうらしいのよね……旦那様にも言われたわ。サクヤは頑張りすぎ屋のデシャバリさんだ、って」  そう言うサクヤは、店内の時計を気にして立ち上がると。エディンもつられて立ち上がる。  その瞬間は確実に近付いていた。 「僕もそう思います。でも、頑張る貴方だから支えたい……僕等はそう思うんです」 「会った事、まだ無いんだっけ? ふふ、不思議ね。同じようなことを言われたわ」 「同じ人に惚れた男の言うことですから」  真っ直ぐに見つめあう瞳と瞳。女将の遠ざかる足音を遠くに聞きながら、エディンは身の内に秘めた恋の化石を掘り当てて。琥珀のような思い出に閉じ込められた想いを解き放つ。 「僕は、エディン=ハライソはサクヤさん……あなたが好きでした」  返事は聞くまでもない……もう、意味がない。ただ、募る想いだけはずっと、確かに感じていた。それを伝えておかなければ、きっと後悔する。  ただ幸せを遠くで祈ることでさえ、その気持ちにケジメをつけておかなければ、上手くできないから。 「今も好きです。でも昔とは少し違うんです……だから、僕は征きます。ラグオルへ」  それは一人で背負いすぎる者に対して、多くの者に支えられて立つ者の。心からの――  人は人を想う。そのカタチは、両者の間で揺れ動き他者に翻弄され……消えることもあるだろう。だが、姿を変えて確かに存在し続けるなら、それを絆と人は言う。  絆のカタチは星の数。その輝きは星の煌き。 「……今日はね、エディン君に泣きつこうと思ってたの」 「ラグナさんのことですね。でも――あなたの涙を拭うのはもう、僕じゃない」 「うん、解ってる。ラグナからね、メールがきてたの……沢山。でも忙しくて、つい」 「僕もさっき聞きました。ちょっと携帯端末をなくしてて、返事できなくて」  ラグナ=アンセルムスの身に何が起こったか、それはエディンには解らない。解るのは、大事な仲間の身に何かが起こったという事。そしてサクヤは、エディンよりも少しだけ多くの情報を掴んでいた。  サクヤが少ない時間をやりくりして集めた真実の断片……それが今、涙の代わりに零れ落ちる。 「あの子と一緒だったハンターズに会ったわ。少し事情を聞かせて貰ったの」  サクヤの語る言葉は、ラグナのメールを裏付ける内容だった。  異変の後、人の姿が失せたラグオル。その地下に広がる洞窟の最奥で、ラグナ達は未知の脅威と遭遇した。人智を超えた、巨大なアルダービースト。  その時ラグナは、二人の仲間は――何よりも先ず、自分の仲間を守って逃がした。 「あの子、一人で囮になって。そして――この剣だけが帰ってきたわ」  後続のハンターズがたどり着いた時に見たのは……死闘を物語る半壊したボートと、そこに大量に残された変異生物の体液。そして、壊されたいくつかのコンテナと、その先へ――坑道へと続くテレポーター。  その前に、一振りの剣が落ちていた。今、サクヤが大事に握り、エディンへそっと渡す剣が。 「ラグナさんは僕等の流儀を守った。そして……まだ死んではいないですよ。絶対に」  僅かに疼く右手が、受け取れと語りかける。言われるまでもなくエディンは、その剣を手に取った。 「フェイさんが言ったんです。ラグナさんは死なないって……それをあなたに伝えたくて」 「ふふ、そう……不思議ね、でも。エディン君がフェイの手で、ラグナの剣を携えて」 「そして、サクヤさん。あなたの想いを乗せて、あの星に――ラグオルに降ります」 「エディン君……」  四人で一つだと右手が痛む。早く進めと左足も痛む。エディンは今、新たな冒険へと踏み出した。  みんなで、一つになって。 「じゃあ、サクヤさん……幸せになってください」 「――うん」 「あなたが子を産み育てて血を残す、その未来を僕が……僕等が一緒に切り取りますから」 「うん」 「じゃ、行ってきます」 「いってらっしゃい、エディン」  正午を告げる時計の音と共に、パイオニア2の一日は午後へと折り返す。その響きを背に、エディンは旅立った。数多の運命と苦難が待ち受ける、新たな冒険の舞台――ラグオルへ!  多くの者がそうであるように、勇気一つを胸に。無数の想いに支えられ、新たな仲間が待つ緑の大地へと。エディンの姿は、硝子の空が投じる日差しに、溶けて見えなくなった。