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 うみねこの鳴き声が近付く陸を伝えてくる。
 舳先の向こうに小さな島と、そこにそびえる世界樹がかすかに見える。
 青年は船上の甲板で海風に吹かれながら、椅子代わりの樽に腰掛け切れ長の目をさらに細めた。決意を込めた眼差しが射抜く先は、再起を志す街……海都アーモロード。
「殿下? そちらの番ですが」
「ああ、すまぬ。それと卿、その殿下というのはやめてもらえまいか?」
 苦笑を零しつつ、亡国の王子は視線をチェス盤に、それを挟んで向かい合う男に戻す。
 名はミラージュ。殿下と呼ばれなれてはいるものの、既にその資格を失った青年だ。砂漠に栄えたオアシスの都で、王族の次代を担ったのも今は昔……現在は東方に逃れて命を永らえ、客将として暮らした身。
 ミラージュは盤上のモノクロームを一瞥するや、即座にポーンを先へ進める。
「お気に障ったら失礼を。しかし殿下、長い船旅をご一緒してお話をお聞きすれば」
「昔の話さ。今はもう、違う。全て、失ってしまった……ん、長い船旅といえば」
 ミラージュの巧妙なる一手で、相手の男は長考に腕を組む。その端正で穏やかな細面を見やって、ミラージュは言葉を続けた。
「卿は自分の話はしてくれないのだな。私の話はあれこれ聞き出しておきながら」
「私ですか? 私は卿などと呼ばれるべくもない、山野に生きるただのレンジャーですよ」
 ミラージュも東の島国で暮らしながら、話に聞いたことがある。弓に秀で、野山で暮らす知恵に長けた者達をレンジャーという。これから赴く場所ではどうかは知らないが、世界各地の迷宮探索を行う冒険者では、最も重宝される職業の一つだ。
 だが、細い目で微笑を絶やさぬ眼前の男には、妙な気品が感じられる。
 それは生来、ミラージュが生まれ持ってきた高貴なそれと同質に思えた。
「では、卿呼ばわりをやめるぞ? エルトリウス殿。その代わり、殿下というのもやめてもらえるな?」
「そうですね、ミラージュ殿。ではそういたしましょう……生まれ育ちは、忘れるということで」
 軽やかな声音で、エルトリウスは駒を動かした。
 満足に感じる傍ら、逆襲の一手にミラージュは唸る。
 とどのつまり、ここで盤を挟む二人は、これからアーモロードの世界樹の迷宮に挑むただの冒険者に過ぎない。嘗ては王族であったミラージュも、生い立ち不明のエルトリウスも、ただの男だ。それが今、船旅の暇つぶしにチェスを嗜んでいる。ただ、それだけだ。
「そういえば卿は……いや、エルトリウス殿は。あれは、放っておいていいのか?」
 ミラージュがクィーンを動かす。
 応じるようにエルトリウスもまた、長い指でクィーンに触れた。
「ええ。彼女は昔からああなのです」
「ふむ。しかし解らぬものよな。猛獣を前に」
「可愛いものを前にすると、なずなさんはいつもあの有様です」
「猛獣を前に可愛いと……難儀な乙女だな」
「ふふ、お互い様ではありませんか? ミラージュ殿」
 ミラージュの視界の隅には、晴れ渡る空の下、甲板でくつろぐ乗船客達が映る。その中でも一際目を引くのは、巨大な剣虎を連れた遠方の民だ。民族色豊かな仮面を顔に被り、その下から輝く瞳で熱心に新聞を読んでいる。横たわる猛獣にまるで、友によりそうように身を預けて。
 他の客達はビーストキング――獣と心を通わす冒険者の職業の一つだ――をどこか、畏怖と畏敬の視線でなでながら距離を取っている。
 そんな中、一人の少女がにじり寄っていた。
 黒髪を揺らす無表情な少女が一人。手をわさわさと動かしながら、ビーストキングの男に……その背を預かる虎の巨躯に近付かんとしている。余りにも奇異な、その光景。
「なずな殿は豪胆な娘子と見える」
「いえいえ、ただの可愛い女の子ですよ、ミラージュ殿。さあ、ゲームを続けましょう」
「ただの、か……私とて東国で師を得て剣を修めた身。一目見れば解るのだがな」
 自分の白いクィーンを再度持ち上げ、ミラージュは思案に暮れつつ件の少女を……なずなの背を視線で撫でる。華奢で細く小さな矮躯だ。
 だが、そのたたずまいを見るだけでミラージュには解るのだ。
 何やら剣虎に興味津々の少女が、一流の剣士であるということが。
 ミラージュ自身もまた、そうであるように。
「エルトリウス殿、以前は確か……貴殿はなかなか自分のことは話してくださらないが」
「ええ、あちこち旅してまわりましたが。ハイ・ラガートの世界樹へ登ったこともありますね」
 エルトリウスの声色が僅かに澱んで滲んだ。
「ソラノカケラ、というギルドがあります……ミラージュ殿、ご存知でしょうか?」
「いや……」
「では、リボンの魔女の逸話は?」
「遠く耳には。それくらいならば私とて……それが」
「私達は冒険を共にしました。極寒の北方、ハイ・ラガートで」
「ほう。あのリボンの魔女と……では貴殿ももしや」
「リボンの魔女は、私達に代わってあの地で……全ての真実を背負ってくれたんですよ」
 細い目をさらに細めて、寂しげにエルトリウスが笑った。同時に、自分達は北国の世界樹でソラノカケラに先を越されたとも。
 ミラージュは一人、ソラノカケラという言葉を胸に残し、一人深く頷く。
 既に半ば興味の失せたチェスから目を放すと、改めてミラージュは少女の背中を見やった。
「なずなさん、剣虎は人を食べたりはしませんよ」
 不意に静かに、しかし染み渡るような可憐な声が響いた。
 そうしてなずなの背後に突如、よく見知った影が立つのをミラージュは見た。
「! ……ヨタカさん。で、では、触っても大丈夫なのだろうか? 私は、撫でてみたいのだ」
「ビーストキングに慣らされた剣虎は、従順で勇猛果敢、何より人に懐くといいますから」
 なずなに並んで立つ、同年代と思しき少女。それはミラージュと将来を約束した未来の伴侶、いいなづけのヨタカだった。そのすらりと見心地のいい痩身が優しい声を奏でる。
「ヨタカさんは物知りだな。では、私はこれを愛でるぞ……先程から気になって気になって」
「なずなさんも剣一筋に見えて、可愛いところがあるんですね。わたしも見習わなければ」
 ヨタカは凛々しい顔立ちを真面目に引き締め、くつろぐビーストキングへと声をかける。
 承諾が得られたのか、嬉々としてなずなは剣虎に抱きつき、その喉をゴロゴロ言わせた。
「おやおや、連れ同士も仲良くなったようですね。……ミラージュ殿?」
「ん? あ、ああ」
「ヨタカ殿はなずなさんと仲良くしてくれて、私も嬉しく思っているんですよ」
「……まあ、あれは……気が合うのかもしれぬ。その……類は友を呼ぶ、という」
 ミラージュの懸念はすぐに現実になった。
 ヨタカはミラージュにとって、信頼できる仲間であり、人生を共に歩む者として申し分ない。しかしながら……不満はないのだが、ほんの少しだけ不憫に思うことがあるのだ。
「なずなさん、剣虎は人を食べませんが……有事の際は、剣虎は食べることができます」


 キリリと表情を固くして、ヨタカは突然の一言を放った。
 空気が凍った。
 新聞をめくるビーストキングの男は、あまりの唐突さに紙面を取り落とした。ミラージュは一瞬エルトリウスと顔を見合わせ、互いに深い溜息を零す。件の剣虎ですら身を固くし、毛を逆立てた。
 なずなだけがフムフムと頷いて、戦慄に震える猛獣を優しく撫でている。
「やっぱりヨタカさんは物知りだな。……焼くのか? それとも」
「煮込みますね。アクを丁寧に取ってやれば、美味しく食べられますよ」
 これがなければ、とミラージュは苦笑を零す。そして、同じ表情を向かい側に見る。
 ミラージュもそうだが、エルトリウスも同じようで。二人とも、見守り大事にする女性が、少しばかり妙に殺伐としていた。黒い総髪をひるがえすヨタカなど、見目麗しい故に余計に珍妙に見えてしまう。
「……せめてもう少し、もう少しだけ乙女らしくあればと思うのだが」
「同感です、ミラージュ殿。まあ、あれでなずなさんは昔に比べれば、かなり良くなった方ですが」
「貴殿も苦労しているのだな」
「ミラージュ殿ほどではありますまい。さ、続きを」
「ん。時にエルトリウス殿。貴殿はアーモロードではどうするつもりか? もしよければ」
「私は昔の仲間を頼るつもりです。ミラージュ殿はやはり、ロード元老院に顔を出すつもりで?」
 エルトリウスの問いに頷き、大志を胸にミラージュは再びチェスで時間を潰しだした。
 アーモロードの玄関口、アンバーの港が近付く鐘の音が船上に響いた。

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