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 海底の小道流るるは猜疑の奔流。
 潮流が渦巻く蒼淵の回廊は、いたるところで一方通行を形成していた。その流れに無理に逆らわず、逆に利用しながら進むソラノカケラのメンバー達。その先頭を歩くメビウスは、突然小さな叫びに呼び止められた。
 次いで間髪入れずに、冒険者としての直感が危機を察知する。
「……っと、これはまた凄いのがうろついてるなあ。助かったよ、カナエ」
 さっと身を翻すや、メビウスは仲間達と一塊になって壁に身を寄せた。その通路の行き着く先、曲がり角から姿を現したのは、巨大な古代魚。
 古海の放浪者は悠々と、連なり群れをなして縄張りを周回していた。
 その巨大な尾ビレが去るのを見届けてから、改めてメビウスは小さな警告者を振り返る。
「いや、ホントホント。どうしちゃったのカナエちゃん、さっきから冴えてるじゃないか」
「いたずらにモンスターと戦うだけが冒険者じゃないからね。避けれる戦いは避けたいし」
 少女を中心に仲間達も、しきりに感心した様子で賞賛を送る。
 確かに、この第二階層を共に歩む過程で、カナエは驚くべき利発さを発揮していた。既にここに至るまで何度も、パーティを危機から救い、トラブルから遠ざけている。
 そのカナエ自身の曖昧な笑みに、メビウスは不安を読み取った。
 そしてそれは、何もギルドマスターのメビウスだけではなかった。
「どうしたのかな? カナエ嬢。そんなに怯えた顔をしなくても、胸を張ればいい」
 その平らな胸を、と軽妙で軽薄な冗談を添えて、スカイアイがメビウスに目配せした。この気が利く右腕にして親友がいるから、メビウスは安心してその頭にゲンコツを振りかざすことができた。
「セクハラ、厳禁っ! っとに。でもカナエ、スカイアイの言う通りだよ?」
「は、はい。でも……アタシ、怖いんです」
 カナエはか細い声で再度、怖いと零して言葉を続けた。
「メビウスさんには前、お話しましたよね。アタシ、小さい頃の父の記憶がないって」
 それはこの場のメンバーの大半が聞いた話なので、あちこちで頷きが反射する。唯一事情を知らぬグリペンには、グリフィスが手短に語って聞かせた。勿論、無用な詮索は抜きにした、カナエ自身が前に語ったことをそのまま。
「アタシはこの世界樹の迷宮で、父と記憶の両方を失った。でも、ここに降りてきてから――」
「まさかカナエ、記憶が?」
 メビウスの問いにカナエは、ただ短く「はい」とだけ答え、遠い目で海流の象る迷宮の先を見据えた。その眼差しがどこか悲しみに濡れているような気がして、メビウスの胸の内は軋んだ。
 だが、現実としてカナエの助言はありがたかった……本人の意図するところとは裏腹に。
 カナエはまるで、この第二階層を知っているかのようにパーティをここまで導いたのだから。
「アタシ、知ってるんです。何故か、この海の底を」
「じゃあ、この先も?」
「解りません。でもさっきみたいに、突然思い出すんです。思い出すのに、何かが」
 頭痛がするのか、カナエはこめかみを指で押さえて苦悶の表情を作る。その額に滲んだ汗は、玉と光って形良い顎に雫を作った。様子のおかしいカナエを気遣い、グリペンの連れる剣虎が寄り添い短く鼻を鳴らした。
「本当は、本音を言えばアタシ……記憶のことはどうでもいいんです」
 大げさに気遣うタリズマンの手をやんわりと制して、気丈にカナエは面をあげた。
 その顔色は顔面蒼白で、見るからに弱々しく翳っている。
「ただ、少しでも父のことが解れば。何か遺品でも手に入ればいいな、って。それなのに」
 それなのに、彼女のささやかな冒険の目的を無邪気に阻んでいる者がいる。それが、
「アガタ君にはそれが伝わらない、って訳か。ふむ、まあ気持ちも解るんだけどなあ」
 スカイアイがうんうんと頷き、それに一同が同意する……メビウスを除く全員が。
「気持ちも、解る……ああそうか、カナエを危険にさらしたくないんだ、アガタは」
「正解だ、メビウス」
「大事な仲間だものね。でも、どうなんだろう。もっとカナエの腕も信用していいのに」
「……前言撤回。まあ、お前さんはその調子だから解らないだろうよ」
 スカイアイの苦笑に、これまた一同が笑いを輪唱させる。メビウスには何が何やら訳が解らなかったが、さっきまで眉間にしわを寄せていたカナエまで笑っているので、悪い気はしなかった。
「え、だってほら、仲間ならやっぱり二人一緒の方が……え? あれ? ぼく、間違ってる?」
「概ねビンゴ、アタリだがねメビウス。君ももう少し大人になれば解るさ」
「ちょ、ちょっとなんだい、スカイアイ。あっ、タリズマン! お前まで……グリフィスもか」
 勝手知ったる仲間達が何故か、生暖かい視線をニヤニヤとメビウスに投じてくる。無表情で無言のグリペンさえ、その色鮮やかな仮面を笑わせているように感じた。
「さて、先を進もう。メビウス、次はぼくが先頭に立つ。タリズマン、隣を預けるよ」
「りょーかいっ。ま、隊長ももう少し大人になれば解――いてっ、叩くことないでしょ」
「はは、正に大人げないな。我が友ながら相変わらずというか、なんというか」
 何か釈然としないメビウスを置いて、一同は再び迷宮探索を開始した。
 先程古代魚が消えた角の先へと、タリズマンを伴いグリフィスが歩く。その声がこちらへすぐに振り向いた。次いでタリズマンの、半ば呆れたような声音が連なる。
「メビウスにもあの旦那の、半分も……いや、四分の一でも理解があればね」
「そりゃ無理ってもんだ、グリフィスさん。あの旦那の四分の一は、普通の五、六倍だって」
 何やらフォローの言葉を紡ぐカナエを引きつれ、メビウスは大股に歩いて二人に追いついた。そして、小さな開けた部屋に出る。そこで見慣れた顔が振り返った。
「よお、メビウス。……っちゃー、カナエちゃん連れて来ちゃったのか。イケズだな、相変わらず」
 コッペペだ。
 彼は今、青いマントに全身を覆った少女を前に、上機嫌で口説き文句を並べている。その陳列が再開させられんとしたところで、メビウスは再び巡り合った謎の少女を睨んだ。
 別に敵意あってのことではない。だが、勘が働き目元を険しくさせた。
 相手があの、オランピアだったから。


「あっ、皆さんも冒険ですか? ちょっと待ってくださいね、今テントをお渡ししますから」
「さっすがオランピアちゃん、気が利くねえ。どう? そのテントでオイラと一晩」
「ふふ、コッペペさんって面白い方。あたしはでも、冒険者の皆さんを助けるお仕事があるので」
 満面の笑みを咲かせるオランピアを前に、デレデレとコッペペはだらしがない。
 だが、メビウスは見逃さなかった。恐らくは仲間達も。オランピアの笑みはどこか、張り付いたように空虚で寒々しい。
「コッペペ、エミットさん達は?」
「あ? ああ、アガタ君と一緒にほれ、奥に行ったぜ? オランピアちゃんが教えてくれたんだ」
 そう言ってコッペペは「ねー」と目尻を下げてオランピアににやけている。長らくコッペペを見てきたメビウスには、こういう態度のコッペペは振られるパターンだと思ったが……オランピアはやけに愛想がいい。
 それともう一つ。
 意中の人物を前にコッペペがだらしないのは、彼が放つ無意識のサインだ。
 メビウスの知る狭い世界で一番の女ったらしは、本気となればキメる男だった。それが媚びているということは、何か他に目的があるのか……あるいは、
「ふう、腑抜けた、かな? まあいい、先へ進もう。……こっちの道でいいんだね?」
 メビウスはわざと、コッペペを無視してオランピアに直接聞いた。同時にコッペペのウィンクを拾って、ある種の確信が胸中に満ちるのを感じる。
 メビウスの魔女を囀るガルーダと共に謳った男は、やはり見えない刃を秘めていた。
「はいっ、その先に失われた海都の一部……深都に続く階段があるんです」
 いやに明瞭で快活な答を放つオランピア。その声を受け止め、メビウスは見定めた。初めて聞く名を隠して閉ざす、深海の迷宮の行き着く先を。
「深都、か……どうしてその名を? ぼくは初めて聞くけど」
「あたしは冒険者のしもべですから。……そう、深都。それが、冒険者の目指す楽園」
 一瞬だけオランピアの言葉が冷たく尖った。最後には聞き取れぬ声で、アタシ達のと付け加えられた。その声を、声音を忘れず心に留めて、メビウスは仲間達と奥へ踏み出した。

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