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 深都が世界樹と共に海中へ没し、フカビトと呼ばれる魔との戦を初めて百年。この百年で、トーネードが天極殿星御座へと招聘されたのは初めてだった。しかも、深王直々の命とあらば無視を決め込むわけにもいかない。この深都に住む機兵、アンドロの中でも彼は代々騎士階級の人間としてアップデートを重ねた家柄だったから。
「これはこれは、オランピア殿。ご機嫌麗しく……あいも変わらずお美しい」
 兜を脱いで小脇に抱えて、荘厳な建物の前に立つ少女へと優雅な挨拶を投げかけるトーネード。無骨なフルヘルムの下から現れたのは、鼻梁の整った端整で淡麗な美丈夫だ。その目元は涼しげで、歯が浮くようなセリフも呼吸をするかのように零れ出る。
「世辞はいい、トーネード。深王がお呼びだ、急げ」
 世辞ではなく本音だ。オランピアは美しい。この深都にはアンドロしか存在せず、その何割かは非常に美しいが……ここまで精緻に飾られた個体をトーネードは知らない。その名の真の意味も知るゆえ、寵愛を一心に受ける深王の友をトーネードは美しいと思う。
 だがそれと、好意に値するかどうかは別の話だ。
 先を急かされ、トーネードは僅かに肩をすくめて階段を登る。背の高い門をくぐり、めったに訪れることのないこの都の中枢、その最奥へと初めて歩を進めた。
 彼を待っていたのは、百年前といささかも変わらぬ、先代から脈々と受け継がれたデータ通りの深王。そして意外なことに、生身の人間が一人。それも、思わず唸り目を細めてしまう程に美しい女性だ。
「卿に紹介しよう。我が深都の騎士、トーネードだ。トーネード、よくぞ来てくれた」
「勿体無きお言葉。……はじめまして、ご紹介に預かりましたトーネードと申します」
 自分へと向き直る女は、年の頃は二十代を折り返した後半か。短く切りそろえた髪を僅かに揺らして、玲瓏な無表情に瞳を丸くしている。だが、無骨な鎧姿とは裏腹に、トーネードが挨拶にと手を取り唇を寄せれば、それを受ける所作などは堂に入ったものだった。
 これなるは海都の姫君か、はたまたいずこかのご令嬢か。さして興味もなく、突然の呼び出しに億劫だったトーネードは、初めて今日という日に好奇心が疼いた。ただただフカビトを相手に剣を振るうだけの日々に、停滞した百年に初めて潤いらしきものを見つけて目を輝かせる。
「トーネード、これなるはエミット。海都の冒険者だ。見知りおけ」
「御意。忘れろと言われましても忘れませぬぞ。……お美しい方」
 淡々と両者の紹介を深王が進める間も、エミットと呼ばれた人間の女性は僅かに目元を険しくした。表情に乏しい鉄面皮が、その白い肌が僅かに紅潮して上気する。その些細な変化もまた味わい深いと、内心トーネードは小さな笑みを浮かべた。
 退屈なフカビトとの戦いの日々に、別れを告げる時がきたのかもしれないとさえ思う。
「深王よ……話と言うのはこの男を、深都の騎士を私に引き合わせる為か?」
「それもあろう、が。エミット、卿は我が友ケトスを打ち倒した者。故に――」
「私の戦いに、私達の進んできた道に罪を問うと言うのか? 罰を下すか、王よ」
 凛とした張りのある、しかしどこか僅かの余裕もない切迫した声音だった。深王を前にしても堂々と、毅然とエミットは問い質す。海都の冒険者がやってきたという話は聞いていたが、どうにもトーネードには話が見えてこない。第一、あのケトスを打ち破ったのが、目の前の女性という事実が信じられなかった。
「罰を与えるのであれば、なにも卿だけを問い詰めはせぬ」
「私一人の勝利ではなく、望んだ戦いでもなかった。だが、咎があるというなら私だけを――」
「卿に罪なし、よって罰も同じく。……我は聞きたいのだ、卿の口から友の最期を」
 表情に乏しい深王が、僅かに悲しげな翳りを面に出した。
 その意外さに息を飲むエミットもまた、驚きも露な面持ちで唇を噛む。
 どうやら海王ケトスが倒れされたという話は本当らしい。そしてトーネードは知る。深王は、ただ二人の……一頭と一体しかいない友の片方を永遠に失ったのだと。世界樹の叡智に導かれた、偉大なる海の王……ケトスは死んだ。そして百年の禁は破られ、自分は初めて深王の御座に召されたのだ。
「あれは正しく、王たる者だった。深王との盟約に従い、勇敢に戦い……私が、命を奪った」
 俯くエミットの声は、低くくぐもり沈んでいった。その言葉を受け止める深王もまた、僅かながら沈痛な面持ちを垣間見せる。だがそれも一瞬のことで、
「あい解った。卿に感謝を……今は友の鎮魂を祈り、勝利の為に邁進するのみとしよう」
「! ……深王、この私を責めぬのか? その為に一人、この私を残したのでは」
「卿を責めたとて、我が友は戻らぬ。責めはせぬが、労おう……辛い思いをさせた」
「なっ……私は友の仇だ! この私が憎くはないのか、深王よ!」
 アンドロ達にも感情はある。必定、その長にして王たる深王にも、それがあっても不思議ではない。だが、この百年というもの、深王が情で動くことはなく、情を口にすることは一度もなかった。トーネードに蓄積された百年の歴史が物語っている……深王は、王としての機能を完璧に維持し、運営して、継続しているのだ。
「憎しみの連鎖は断たねばなるまい。友もまた、天にてそれを望んでおろう」
「貴公はこの都の王だ、望めば私の命など……それが王ではないのか!」
「先にも述べた通り、王とは器……そこに一片の私心もあってはならぬ。我は皆の器に過ぎぬ」
 そう断言できるだけの百年を、深王は戦い抜いてきた。未知なる星の海より飛来した、魔との永きに渡る戦を。終わりの見えぬ果てなき闘争を。
 深都の多数がその意を注ぎ、それを満たして十全の力を振るう真の王。トーネードは少なくとも、深王の指導者としての才は高く評価していた。だが、やはり好意に値するかどうかは別の話である。王とは一つの役割に過ぎず、この深都という機械仕掛けの中で、最も重大な歯車であるというだけのことだ。
 それに反して、初めて目にする人間の婦人は酷く興味を惹く……好意に値する。
「私心を持たぬというのか……しっ、信じられぬ。王が、その権威を振るわぬとでもいうのか」
「エミットよ、卿もまた我に注いで欲しいのだ。真なる平和の為、その力を」
「……友の仇と承知の上でか。この私の力が必要だと? 何故、どうしてだ……深王よ」
「友の仇……否、形見でもあろう。深都、そして海都の為、我に力を貸して欲しいのだ」
 深王は語る……百年の禁が破られた今、真に強き者を深都は求めていると。そしてどうやら、ソラノカケラとトライマーチの面々は、とりわけエミットは深王のお眼鏡にかかったらしい。確かにトーネードも武芸百般を納めた一流の騎士、一目でエミットの腕は見て取れる。その立ち姿は鍛え抜かれた冒険者そのものだ。加えて言えば、分厚い甲冑の奥に生身の女性特有の豊かな起伏が、その温もりと柔らかさが感じられる。
 二人の問答を眺めながら、思わずエミットを頭のてっぺんからつま先まで読み取っていたトーネードは、不意に深王の視線が自分に向くのを見て取った。改めて控え直して、エミットの隣に並ぶ。微かに甘やかな体臭が香って、どこか無機質な深都の貴婦人達を忘れさせる。
「オランピア、例の物をここに」
 唯一にして無二となってしまった友を深王は呼ぶ。離れて控えていたオランピアは、両手に何やら豪奢な布に輝きを捧げて静々と歩み出た。深王が手に取る、それは深海の宝石で飾られた勲章。トーネードも実際には初めて目にする、深都殊勲章だ。
「これを卿と、トーネードへ。我の気持ちだ……卿等二人を、深王代理騎士に任ずる」
 流石のトーネードも驚き、思わずそれが顔に出る。小脇に抱えた兜を取り落としそうになった。
 深王代理騎士……それは、この深都の全権を握る深王に等しい権限を与えられるということ。最高の騎士である証。過去百年の戦、深都の歴史において、僅か数人しか存在しなかった英雄だ。その、聞けばそうそうたる名にトーネードは突然並ばせられたのだ。隣で強張り震える麗人と共に。
「トーネード、卿に命ずる。ソラノカケラへと参陣し、我とリボンの魔女の絆を結べ」
 報告は逐一絶やさぬように、決して連中から目を離さぬようにとオランピアが付け加え、深王が大きく頷く。
 だが、深王の絶対の決定に異を唱える者が一人だけいた。
「私が、騎士? 深王代理騎士……そんな、馬鹿な。私は王になど仕えぬ! 私は、私はっ!」
「我に仕えずともよいのだ、エミットよ……かつて姫だった娘よ」
 思わずエミットが息を飲み、硬質化させた気配に殺気を泡立たせる。それに反応してか、オランピアが肘の刃を煌めかせた。だが、深王は泰然として揺るがない。


「深都の為……海都の為に。民の為の騎士となれ。卿の言葉は我の言葉、卿の敵は我の敵である」
「ば、馬鹿な。王とは、違う……違うっ! そんな、背負えるのか深王よ……あなたは、全てを」
「背負わねばならぬ。千年の平和の為、百年の戦に終止符を……我に力を、エミットよ」
 こうしてトーネードは、今は深都の宿屋、輝く恒星亭へと逗留する冒険者達一行に加わることとなった。同じく深都殊勲章を胸に飾る、唯一自分の素顔を知るエミットを伴って。

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