《前へ 戻る TEXT表示 登場人物紹介へ 暫定用語集へ 次へ》

 気付けばメビウスは、見慣れた天井の染みを見つめていた。
 それで自分が、羽ばたく蝶亭の使い慣れた客室でベッドに寝ているのが理解できた。焦点さだまらぬ視界にぼんやりと、滲んで映る木目の天井。その黒い小さな染みとの間に、安堵の色を浮かべた顔が差し込まれる。
「隊長ぉ……目ぇ覚めたんですね。良かった、俺ぁもう、もう……」
「タリズ、マン?」
 笑顔を涙でくしゃくしゃにした仲間の名を、ポツリとメビウスは呟く。次第に世界が彩りを取り戻し、ピントの定まる瞳が覗き込むタリズマンを捉えた。そっと首を巡らせれば、グリフィスやネモ、エイビスといったお馴染みの面々が揃っていた。
「あれ……スカイアイ? スカイアイはどうし――痛っ!」
 上体を起こせばとたんに、全身を掻きむしるような激痛が苛んだ。
 メビウスは裸だったが、それを気にする必要もないほど包帯まみれだった。
「たた、隊長っ、無理しないでください!」
「大丈夫だメビウス、スカイアイも別室で治療を受けてるよ。他のみんなも無事さ」
 グリフィスの言葉に双子の星詠みが頷く。それでメビウスは一息つくと、再び身体をベッドへと沈めた。その際ちらりと見えたが、外はもう真っ暗で星が瞬いている。
 一体自分はどれくらいの時間、寝ていたのだろう? 素直にそのことを誰にとはなしに呟くと、
「三日よ、丸三日。その間リシュリーちゃんは深都にスッ飛んでいっちゃうわ、ジェラヴリグちゃんは珍しく子供みたいに慌てるわ……あら、そういえばあの子は本当に子供だったわね」
 僅かに憔悴の色を顔に滲ませ、エトリアの聖騎士が枕元へやってきた。
「あれ、デフィール? どうして……」
「怪我人が多かったものですから、メビウス様。治癒の術を使える方に手伝って戴きました」
 身を屈めてくるデフィールの背後には、まるで影のようにヨタカが連れ添っていた。彼女もまた手当の為に術を行使し過ぎたからだろうか? 珍しく流麗な顔が疲労困憊の表情を作っている。メビウスはぼんやりと、この二人がモンクのスキルを習得しているのを思い出した。
「しかしお目覚めになって良かったです。ギルドの方はご心配なく」
「あの王子様の兄弟が回してくれてるわ。だからそうね、メビウス。今は休むこと。よくて?」
 仲間達の頷きが連鎖してゆく。メビウスは言うことを聞かない身体が重いのを認識して、素直に言葉に甘えることにした。同時に礼を述べて、深く深く息を吐き出す。
 こうしている今も、総身が千切れるように痛む。だが、それは自分が生きているという実感でもあった。
「そうだ、みんな。トライマーチは……エミット達は?」
 メビウスの問いに誰もが、自然とデフィールに視線を集めてしまう。彼女はいつもの落ち着いた口調で、
「深都に帰ったわ。ちょっとその、面倒なことになってるのよね」
「面倒な、こと? それは……」
「ま、今はいいのよ。メビウス、今は何も考えず寝てなさいな」
「そんなことを言っても、いられ、な……ぼくは、ぼく達はだって」
 震える手を伸べれば、デフィールは優しく両手で包んでくれる。血の滲む白い包帯で包まれた拳は、握れば刺すような痛みを全身に駆け巡らせる。
「メビウス、貴女の拳は次の新月まで使い物にならないわよ? こんなに無茶して」
「はは……どっちも?」
「右も左も。特に利き手が、右が酷いわね。……あの娘、加減を知らないから」
「ブレイズは悪くないさ。ちょっと、タイミングが悪かった、だけ、だから」
 微笑むだけでも肌がひりつく。仲間達に語るヨタカの声を拾えば、メビウスはどうやら全治半月という重傷らしい。裂傷と打撲と火傷、それも重度のものを全身に。よくまあ生きていたものだとすら言える状況だったらしい。
 そういう我が身に鞭打って、あの場で立ち続けたのはしかしメビウスの意思。
 未練も後悔もない。傷と痛みもまた、冒険者が己だけに誇る勲章だから。
 メビウスが無事に覚醒したことで、まるで葬式会場だった部屋の空気がようやく弛緩した。今まで張り詰めていた緊張感が解けて、誰もがメビウスの無事を祝ってくれた。廊下から荒々しい声が響いてきたのは、そんな時だった。
「スカイアイ、手前ぇは死にてぇのか? おとなしく寝てなって!」
「そうじゃそうじゃ、折角のこのニムロッド様の治療が台無しになってしまうでのう」
 バン、と部屋の扉が開かれた。現れたのはスカイアイで、引き止めるラファールやニムロッドを振り切り歩み出てくる。彼もまた全身包帯まみれで右手を首から吊っており、左手には杖を突いていた。
「やあメビウス、悪い知らせと良い知らせがある。……どっちから聞きたい?」
 歩けば痛むのか、僅かに顔をしかめながらもスカイアイはベッドの端に腰掛けた。その声は気丈にも元気だが、それが空元気だとメビウスにはすぐに知れる。
 友が軽口を叩く時は、たいてい苦しい時と相場は決まっていた。
 次第に思考が鮮明になるのを待って、メビウスは周囲を一度見渡すとこう切り出す。
「悪い知らせから聞こうかな。見ての通り怪我人なんだ、お手柔らかに頼むよ」
「了解だ、メビウス。……冒険者ギルドが真っ二つに割れた。ついに表面化しちまった」
 スカイアイの話を端的に要約すればこうだ。
 以前から海都側につくか深都側につくかで、冒険者達は揺れに揺れていた。それでも当初は、どちらの肩を持つかというレベルの話だったのだ。だが、元老院急進派の過激な先走りとゲートキーパーの一件で状況は一変した。もはや海都と深都の溝は深く、そのどちらかについて冒険者達は人間同士でいがみ合い始めたのだ。
 海都側も深都側も態度を硬化させており、状況は一触即発だという。
「スカイアイの言う通りよ。お陰で私達は少し居心地が悪いって訳」
「デフィールさんとこは、トライマーチは深都側の急先鋒、旗頭だもんなあ」
 感心したような、少し同情したような口調でタリズマンがぽつりと零す。
「クジュラが引き鉄になったにせよ、原因はぼく達のゲートキーパー破壊……責任は重いね」
 メビウスは気付けば、力の篭らぬ手で拳を握っていた。じんわりと取り巻く包帯に血が滲むが、その痛みがまるで自責の念になったかのように彼女には感じられた。
「それで? 良い知らせも聞いておかないとね」
「第四階層への階段が見つかった。ミラージュ達が――っと、おいニムロッド? 下ろせ」
 不意に華奢な矮躯がスカイアイににじり寄り、まるで姫君のように抱きあげてしまう。彼女は「絶対安静じゃ、ムフフ」と邪笑を浮かべてスカイアイを運んでゆく。その背を、悲鳴にも似た声を見送りながら、代わりに応えてくれたのはラファールだった。
「今クフィールやミラージュ達が調べてる。寝てる場合じゃねぇぜ、メビウス?」
「第四階層……まだ下があるのか。それで? もう行ったんだろう? その先へ」
「ああ。おっそろしいとこだぜ? 何があったと思うよ」
 ラファールはその端正な顔を僅かに歪めて、いったん言葉を濁す。周囲の仲間達も皆、何かを思い出したのかゴクリと喉を鳴らした。百年間、鋼鉄の守護神が閉ざしてきたものとは?
 その答えをラファールは、自分にも言い聞かせるように呟いた。


「フカビトの巣さ……ばかでけぇ神殿、というよりは、フカビトの街」
「フカビトの、街」
「ああ、ついに地獄の蓋が開いちまったって訳さ」
「そうか……その、フカビトとは誰かコンタクトをとっ……っ、イテテテテ」
 思わず怪我も忘れて、気付けばメビウスは身体を起こしていた。すかさず左右からデフィールとヨタカが支えてくれる。
「ダメよメビウス。さ、おとなしく横になって」
「それとデフィール様、そろそろメビウス様の包帯を取り替えないといけませんね」
「っと、そうね。やっと起きたんだし。という訳で殿方は席を外してくださるかしら?」
 デフィールは不思議そうな顔で「俺もか」と自分を指差すラファールをも、しっしと手を振り部屋から追い出す。仲間達がそぞろに一言声をかけては出ていった。
「話が途中でしたが。デフィール様、よろしかったでしょうか?」
「メビウスも一応女の子だから。まあ、ヨタカちゃんには少し解らないかしらん?」
 小首を傾げるヨタカはしかし、丁寧にメビウスを取り巻く包帯をほどき始めた。その間もメビウスはデフィールから、第四階層の名前を聞いて一人唸った。
「第四階層……『深洋祭祀殿』。フカビト達の聖地、かあ」
 ついに顕になったフカビト達の地。彼の地を巡って人間達が二つに割れる、そんな現状に憂慮しながらも、今は傷だらけの身を休めるしかないメビウスだった。

《前へ 戻る TEXT表示 登場人物紹介へ 暫定用語集へ 次へ》