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「母上っ! 母上、母上、母上ぇーっ!」
 アーマンの宿屋に満ちる安穏とした空気を、逼迫した少年の声が切り裂く。
 間髪入れず視界に転げてくる小さなプリンスを認めて、クフィールは相手とのやり取りを一度止めた。その相手、エトリアの聖騎士ことデフィールが息子へと振り返ったから。
 一時とは言えギルドを預かる者として、クフィールは今トライマーチの代表と打ち合わせの真っ最中だったのだが。
「母上っ、大変ですっ! 先ほど酒場で皆が噂しておりました。あっ、蟻ですっ!」
 少年の名はリュクス。エトリアの聖騎士の息子にして、オンディーヌ伯を継ぐもの。それが今、あどけなさの残る顔に汗を浮かべて、豪奢な戦衣を気崩しながら狼狽えている。ひときわ目を引く絢爛たる腰の長剣も、鞘の中でカタカタと不安げな音を立てていた。
 クフィールは五つほど年の小さなこの辺境貴族の息子へと、そっとさりげなく場所を譲る。
 だが、リュクスはクフィールの配慮にも気付けぬほどに慌てていた。
「危険ですっ! リシュリーちゃんやジェラヴリグちゃん達が……シンデン殿が御一緒とは言え」
「お待ちなさい、リュクス! ……その慌てぶりは何かしら?」
 要領を得ない息子に対して、デフィールの一喝は厳しく鋭かった。
 思わずクフィールの背後に控えていたラプターなど、その声に身を正してしまったくらいだ。隣のイーグルが目を細めて口笛を吹く。
「リュクス、いつも言っているでしょう? 大事であればあるほど、落ち着きなさいな」
「は、はい、それは……しかし母上っ! 大事も大事、一大事なのです!」
「だからこそ落ち着きなさい。そのざまはなんです? 貴方はもうオンディーヌ伯リュクスなのよ」


 クフィールは厳格な母親の前で小さな身を、さらに小さく俯くリュクスを見詰めた。
 自分が失ったものを、この少年は全て持っている。地位や権力、それに剣の道……クフィールに残されたものといえば、兄と僅かな臣下、そして一族を安らぎに導くという義務。使命とも言える至上命題だ。
 咳払いを一つ零すと、デフィールはようやく落ち着いた息子の肩に手を置いた。
「さあ、もう気持ちの整理はよくて? よければお話なさいな」
「はい。第三層の西側に新たな道が見つかったらしく、そこが」
 蟻だとリュクスは第一報を叫んでいた。蟻のモンスターは第三層でもよく見かけるが、その数が尋常ではないという。そしてその奥には冒険者達の話では、女王蟻がいるらしい。
 冒険者ギルドではもう、酒場の方に討伐のクエストが発布されていた。
「話は解りました、リュクス」
「ではっ、僕は至急出発します! いかにシンデン殿が百戦錬磨の名将とて――」
「お待ちなさい。私は今、息子ではなく、オンディーヌ伯リュクスと話しています」
「そ、それは……」
「危険は解りました。でもリュクス、貴方は責任ある立場だということを思い出しなさい」
 腕組み滔々とデフィールは語る。故郷に帰れば国に領地があり、領民が待っている。リュクスは若くしてもう、そういう立場がある。片田舎の辺境貴族とは言え、確かに彼を頼りに暮らし、帰りを待ちわびている人達がいるのだ。
 デフィールの言葉は重く、その重大なる現実に場は静まり返った。
「そ、それでも……僕は行きます! 母上よりこの剣を譲り受けた身、どうして今退けましょう!」
「よく考えてのことかしら? リュクス、貴方の決断は貴方だけのものではないのよ?」
「仲間を救えぬものに、民や国は守れません!」
 それだけ言い残すや、リュクスはばたばたと食堂を出ていった。
 見送るクフィールはその時、デフィールの目が僅かにまなじりを下げて緩んだ気がした。
「デフィール殿、さしでがましいようですが……厳し過ぎはしませぬか?」
 おずおずと、しかし放おってはおけぬと声をあげたのはラプターだ。彼女は先日のゲートキーパー戦での傷をまだ引きずっていたが、出来る範囲でよくクフィールを補佐してくれている。それは傍らで頷くイーグルも同じだった。
 まだ十代の少年に課す責任としては、領地まるごとというのは重い。加えて、母親が世界樹の英雄、あのエトリアの聖騎士だという名声もある。クフィールは言葉こそ発さなかったが、ラプターに想いは同じだった。
「いいのよ。あの子が本当にオンディーヌ伯リュクスとして独り立ちする為に」
「と、申しますと」
「この海都での冒険で、あの子は学ぶ筈よ。背負うものの為に、自ら決断することを」
 その身に不相応な無双の剣を受け継ぎ、名声と地位とを引き継いだリュクス。彼が自ら下した決断を正しいと思えるまで……正しい決断をこそ進んで選べるまで。ただ今は、同じ冒険者の一人として、突き放して鍛えるしかないとデフィールは言う。
「しかしデフィール殿! あの子はまだ」
「ラプター、よそう。人には人の思うところがある。それより今は、最善を尽くすことさ」
 本当にラプターという人間は、困ってる人間を見過ごせないものだとクフィールは苦笑を零した。そうして「しかし我が君」と食い下がる彼女をなだめ、同時に改めてデフィールに向かい合う。
 クフィールにも若かりし頃、同じことを言われた記憶があった。今はもう、思い出の中にしかない、一国の王子だった頃の自分がリュクスに重なる。自然と既に剣も握れぬ腕の古傷が痛んだ。
「デフィール殿、仰りようはよく解ります。……亡き父も生きておられれば、きっと同じことを」
「本当なら私が飛んでいきたい気分なのよね。ま、年長者があまりでしゃばるものではないわ」
「では、ここは若者に任せていただけるということで。……いかがでしょう」
 冒険者達のギルドが海都側と深都側に別れていがみ合う今も、ソラノカケラはトライマーチとの協調体制を維持していた。海都に残留したトライマーチのバックアップパーティは、不必要なテンションを作ることなく、ソラノカケラと仕事をこなしている。その姿は一部では、深都側に利する者達の規範という風潮すらあった。
 そしてメビウスが床に臥せっている今、ソラノカケラを預っているのはクフィールだ。
「軽挙妄動はこれを戒めるとして。しかしデフィール殿、御子息一人で片付く話でもありませんが」
「そ、そうね。そうなのよね……まあ、つくねちゃんがついてるから大丈夫とは思うけど」
 不意に怜悧な聖騎士の表情を崩して、デフィールが母親の顔になって眉根を寄せる。
「それにしても、蟻ね……同じ種なら厄介よ。早めに駆除しなきゃ迷宮が食い荒らされる」
「経験がおありで? エトリアか、ハイラガートで」
「両方よ、最悪なことにね。二度あることは三度あるって訳」
 僅かにトライマーチの海都残留組が慌ただしくなる。
 だが、こんな時こそとクフィールは焦れる自分を抑えて思案を巡らせた。メビウスに代わってギルドを預かる者として今、何がベストか……何をなすべきか。メビウスなら、どう動くだろうか。
 それが口から出ていたらしく、あれこれと脳裏に思い描いていたクフィールは、不意にデフィールに意外な一言を浴びせられた。
「あら、そんなの決まってるじゃない。リボンの魔女、あのメビウスよ?」
「と、申しますと……あ、ああ、確かに。そうでしたね、自分もそんな気がします」
 ふとクフィールは気付いたので、それを察したデフィールがニコリと微笑んだ。
「あの娘ならもう、こんなこと言い合ってる間に飛び出してるわよ。リュクスより早くね」
「ええ、あの人はそういう人です。では、そのようにしてみましょうか……ラプター、イーグルも」
 クフィールは自ら台帳を閉じてテーブルに置くと、迷宮へ出かける準備に取り掛かる。
 こんな時頼れる兄は船で外用に出ているし、他のメンバーも療養中だったりクエストに出かけている。本来ならば臣下の二人にもまだ、傷を癒す時間が必要だったが、
「お命じ下さい、我が君よ。この程度の傷、怪我のうちにもはいりませぬ」
「姉貴はまあ、昔から頑丈だからよ。ま、デフィールさん、坊ちゃんのことは任せなって」
 デフィールはクフィールを、次いでラプターとイーグルを一瞥して、身を改めると頭を垂れた。
「お願いするわ。……三人とも、気をつけて。こっちは大所帯だから、動くにはまだ」
「解ってますよ、こういう時は時間が勝負です。今ならまだ、リュクス君に追いつける」
 クフィールは包帯を解き投げ捨て武器を取る、二人の臣下を連れて外套を翻した。
 日は頂点を上り詰めて、ゆっくりと長い午後の昼下がりが訪れようとしていた。

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