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 戦には独特の空気があり、戦場には独特の作法がある。東洋の母国で数多の合戦を生き抜いてきたシンデンには、骨の髄にまでそれが染み付いていた。だから好々爺のように子供達に笑顔を向けていても、この老将は百戦錬磨、常在戦場のいくさびとなのだ。
 そのシンデンが今、戦慄に震える己の身を律して正す。
「長生きすると面白きものが見れる世よなあ。子供達や、ワシの後ろを離れるでないぞ」
 背後に四つの小さな声を背負って、シンデンは太刀を鞘走らせる。
 研ぎ澄まされた刃の輝きは、その刀身に不気味な影を反射して映し出した。シンデン達が退路を絶たれて進むままに行き着いた、いうなれば玉座の中央。一際巨大な下肢を座した、女王蟻の貫禄が獲物を複眼に捉えていた。
「シンデン様、あれをやっつければいいのでは? わたくしも戦いますわっ」
「そだな、ラスタも手伝うゾ!」
 小さなビーストキングは既に、羽撃く毒蛾を呼び出し周囲に漂わせている。
 だが、シンデンは肩越しに一度だけ振り返って、逼迫に険しい表情を崩した。
「なあに、心配は無用じゃて。この爺めの背中で、少しの間お待ちあれ、じゃあ」
 安心させるように微笑めば、四対の瞳が不安気に見上げてくる。
 この子達だけでもという、決然とした意思がシンデンの中でより強くなった。十代も半ばかそこいらの、冒険者としてはまだまだこれから未来のある少女達だ。突発的なモンスターの大量発生に飲み込まれたとはいえ、その生命を救うためなら……シンデンにはいささかの迷いもない。
 生を受けてより、人生五十年をとうに過ぎて今。死ぬるは今ぞと剣気が揺らめく。
「南国の島国に下りて、その地下深く迷宮に死す。うむ、なかなかに面白い人生じゃったのう」
 そうは口にしても、シンデンに命を無駄に捨てる気はさらさらない。ただ、実の孫同然に可愛がっている少女達だけは、命に代えても救わねばという決意がある。そうでなくば、実の孫に合わせる顔がない。
 静かに青眼に構えて太刀を両手に握ると、自然とシンデンは深く息を吐いて脱力した。
 とたんに周囲の兵隊蟻達が、ざわざわと遠巻きに距離を縮める足を止めた。
「ほう、蟻風情とて侮れぬものよな。我が剣の間合いを見切るか」
 ぐるりと周囲を包囲した真っ赤な甲殻をねめつけ、そのままシンデンはまなこを巡らせ活路を探す。来た道は既に蟻達で埋め尽くされ、目の前には巨大な女王蟻……手詰まりにしかし、シンデンの血潮は熱く燃える。危機に際して心は躍る……魂がそよぐ。我ながら救えぬ戦馬鹿のいくさびとだと苦笑しつつも、その業に子供達を巻き込んではとも思う。
「シンデン、わたしも……わたし達も。みんなで戦った方が、きっと勝算も高いもの」
「そうですわ! シンデン様も以前仰りましたもの。今こそ連携練習の成果を見せますの」
 だが、背に庇う姿勢を崩さずカカカとシンデンは笑う。
 シンデンという漢にとって、背後の子供達こそが最も大事なのだ。その四人が誰一人欠けることなく、怪我一つなくアーモロードに帰りつけば、それで勝ちなのだ。
「気持ちだけ貰っておくかのう。――手出し無用、互いを守ってワシの背だけ見ておれい」
 その言葉に勿論、小さな抗議の声が二重三重にあがる。そういう気持ちが素直に、シンデンには嬉しい。もはやギルドという枠を超えて、子供達が健やかに元気に、そして逞しく勇ましく育っていることが微笑ましい。だが、その力を今は頼ってはならないと己を戒める。
 同時に、そんなシンデンの気持ちを察してくれる声があった。
「リシュ、シンデンの言う通り、守りを固めましょ」
「ジェラ! いけませんわ、シンデン様をお一人でだなんて」
「そうだゾ! 深都でもこれは水臭い言うマスゾ! 死なばモロトモ、一蓮タクショー!」
 ジェラヴリグが静かに首を横に振る、その気配がシンデンに伝わる。
「シンデンは死なない。強いもの。だから、わたし達は邪魔にならないように、ね」
「でもジェラ!」
「わたし達が安全なら、シンデンは全力を出せる。ね、リシュ……応援だけ、しよう?」
 少女達が己の身を守れることは、ここまでの道のりで証明済みだ。後は眼前の圧倒的な物量と、神々しいまでの存在感で圧してくる女王蟻に対処するだけ。
 血路を開けば少女達は走る、走って明日へと逃げおおせる。そのシンデンは確信する。
 しかしどうしてだろう? 同時に、彼女達は皆揃って、自分を置いて逃げようとはしない気がするのだ。それは望ましくない結末なのに、確かに鮮明なビジョンとなって思惟をよぎる。
「シンデン、あの女王蟻? に、勝てる? ううん、勝って……わたし、信じてるから」
「ジェラや、この爺が今まで、お前さんの期待にこたえんかったことがあったかいのう」
「ううん、一度も。だから、今度も。信じてる、から。後ろは任せて」
 その一言でシンデンは、必要最低限の余力を残して、持てる覇気の全てを前方へと投じる。眇める女王蟻は醜悪な声に顎を鳴らして、周囲の兵隊蟻を集め始めた。
「リシュ、号令を……わたし達の身はわたし達で守るの。シンデンの足を引っ張っちゃ、駄目」
「はいですわ! わたくしも解りましたの。シンデン様、ご武運を……わたくしも信じますわ」
 小さな応援の声を背に受け、シンデンは地を蹴った。群がる蟻を蹴散らし、子供達に向かう群れのみを切り裂いてゆく。己に向かってくるものはそのまま引きつけ、敵の大将首を……女王蟻を目指して馳せる。
 老獪で巧みな戦上手が、その手練手管が無機質な蟻達にも通じたようだ。
 蟻達はまるで火に吸い寄せられるように、剣を振るうシンデンへと殺到した。子供達への注意がそがれて好都合だったが、たちまちシンデンの周囲は鉄火場となる。捌ききれぬ牙が幾重にも擦過し、瞬く間に衣は擦り切れ血に濡れた。
「カカッ! なんのまだまだ、ワシの首は高いぞ? ほれほれ虫共、気合を入れんかい」
 まさしく先ほど子供達に説いた通り、踊り舞うようにシンデンは剣を振るった。その太刀筋は強力無双の剛の剣だが、同時に変幻自在の柔の剣でもある。二心合一表裏一体の剣が、時に濁流のごとく蟻達を断ち割り、時に清流のごとく光を走らせる。


 だが、獅子奮迅の活躍を見せるシンデンの前には、圧倒的な物量差がのしかかってきた。
「シンデン、こっちは大丈夫。いま占星術を……ラスタ、援護して」
「マカセロ! 蟻なら青色ビットでビビッといくゾ!」
「退路は確保しましたわ! ここから戻れますの……あとはシンデン様を!」
 四人は手薄になった包囲網の一部を食い破ったらしい。その声を背中で聞いた、それだけでシンデンには十分だったが。一人のショーグンとして長らく戦ってきた身としては、剣に死すは本懐なれども本望にあらず。命は賭してもいいが、捨てるべきではないと己を奮い立たせる。
「歳は取りたくないのお……息が続かん。退き時か? なんの、まだまだよ」
 ドン! と一際巨大な蟻を両断し、その巨躯が崩れ落ちる間に一足飛びに跳躍。シンデンは女王蟻の前に相克した。見上げる巨体は今、一匹の人間を前にカチカチと顎を鳴らしている。
 頭を叩けば陣容は崩れる……戦の合理だ。そしてそれは、群体の統率が完璧な蟻達にも言えるはずとシンデンは剣を振り上げる。軍略家として半世紀以上を戦ってきた経験が、前へと彼を押し出した。
 だが、無常にも鞭のように振るわれた触手に薙ぎ払われて、シンデンは部屋の隅へとすっ飛んだ。
「シンデン様! ジェラ、シンデン様が」
「落ち着いて、リシュ。……わたし達だけでは逃げられない。逃げる訳には、いかない」
 喉からせり上がる喀血の、錆びた鉄の味を舌に感じてシンデンは呻いた。
 老骨一人と少女達の未来、天秤にかけるまでもない。この隙に逃げおおせて貰えればしめたものなのだが。なぜか彼女等はそうしない気がして、複雑な胸中が左右非対称の笑みをシンデンに浮かばせた。
 尾の巨大な針を振り上げ、女王蟻が金切り声を叫んだ、まさにその時だった。
「ご無事ですか、シンデン殿っ! みなさんも! 今っ、お助け、しまぁぁぁぁぁっす!」
 剣を抜くや鞘を捨て、一人のプリンスがシンデンの視界に飛び込んできた。その矮躯は童顔に不釣合いな竜鱗の刃を振るうと、落ちてくる女王蟻の鋭針を弾く。
「わっぱ、ぬしは確か……そう、トライマーチの」
「シンデン殿、遅れてすみません。イーグル、シンデン殿を。ラプターは橋頭堡を確保、頼む!」
 血に濡れた言葉を零したその時にはもう、シンデンはクフィールに肩を貸されていた。
 あっという間にシンデンの回りから、危険と敵意が切り取られた。一糸乱れぬ連携技で、現れたウォリアーとファランクスが蟻達を一掃してしまったのだ。女王でさえ突然の闖入者に獰猛な声を張り上げる。
「リュクスさん、子供達はわたしが。さあみなさん、もう大丈夫です。助けにきました」
「つくねさん、頼みますっ! ……さあこいバケモノ、この僕が相手だっ!」
 ソラノカケラとトライマーチの混合パーティが、シンデンに代わって女王蟻に対峙した。その先頭で気勢を張り上げる少年は、武者震いに震えている。シンデンはしかし、それでいいと頷き傷ついた身を下がらせた。
 いつでも未来を切り開くのは、若者達の力に他ならない。老いた者は皆、その道を示すためにいるのだ。
「そう、偉そうにワシに説法しおったな、ガイゼンよ。……此度も命、拾ったわい」
 既に安堵の中、勝利をシンデンは確信していた。

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