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 その回廊は空気がしんと鳴るような、澄み切った静寂に満たされていた。
 世界樹の迷宮第四階層、深海に眠る海底神殿……『深洋祭祀殿』
「進路クリア、オーケーだメビウス」
「こっちも敵影ナシ、進みましょう隊長ぉ!」
 地図を手に僅かな明かりを拾うメビウスは、仲間達の声に歩を進める。はるか頭上の海面には魚影が幾重にも泳いで、遠く空高い太陽からの弱い光を揺らめかせていた。
 メビウスはただ地図だけを見て時々筆を走らせ、前も見ずに歩く。
「おっとストップ! ……こりゃまた、凄いのがうろついてるね」
 今日は果たして姉か兄か。双子の片割れの星詠みが歩を止めた。その声に一同、揃って壁に身をすり寄せる。魔物注意の印を地図に刻みながら、メビウスも仲間達に倣った。
 今、メビウスと共に冒険の最前線をゆくのはお馴染みの面々……勝手知ったる旧知の仲。ソラノカケラの第一パーティ、メビウスを筆頭にスカイアイ、タリズマン、グリフィス、そして――
「ありがと、ネモ……で、いいんだよね、今日は。兎に角、無用な戦闘は避けよう」
 中性的な顔立ちが頷くのを見やって、再びメビウスは地図に視線を落とす。
 コッペペの話では、深都を拠点にトライマーチは第四層の探索を八割方終えているらしい。競っている訳ではないが、自然とソラノカケラの士気はいやがおうにも盛り上がる。誰もが自分をとメビウスに同行を願ったが、彼女が選んだのは最古参のメンバーだった。
 勿論、留守を預かることになった者達にも、適材適所となるよう仕事を頼んではある。
「さながら解き放たれし凶獣といったところかな。……よし、通り過ぎた、今だね」
 スカイアイが見送る通路の彼方、闇の奥へと巨大な獣が身を引きずって消える。メビウスは堅実に進行方向の安全を確保しながら、ゆっくりと未知の迷宮内を進んだ。今日は戦闘が目的ではないし、冒険者として戦闘だけを目的にはしたくないとも思う。無論、倒すべき敵との戦いからは逃げはしないが。
「よし、これでほぼこのフロアは回ったね。あとは北の方か」
「メビウス、ぼく達にはまだ余力がある。戻る前にもう一回りしようか」
「俺もグリフィスの旦那に賛成です。多分、元老院も急いで欲しいと思ってますよ、隊長」
 今日、ソラノカケラは元老院からの正式なミッションを引き受けてこの場所に赴いていた。その目的はただ一つ。
「そうだね。アマラントスの花を探し出す……急いだほうがいいとぼくも思うさ」
 かつて海都の一部だったこの神殿、そのどこかにその花はひっそり咲いているという。それこそが先日、ゲートキーパーを前にクジュラが先走った原因でもあった。同時に元老院のフローディアの言葉を借りれば、
「白亜の姫君、グートルーネ様の命をつなぎとめる秘薬の元、かあ」
「どうした? ネモ、心当たりでも?」
「いや、スカイアイ。俺にはどうも、ピンと来ない。どうしてこんな深部に薬の原料が」
「そりゃ決まってるさ、なあメビウス」
 竹馬の友は話を振ってくるが、先ゆくメビウスにはその笑顔はひきつって見えた。
 ――そんなこと知るもんか。というのがスカイアイの本音だろう。近からずとも遠からずなようなので、溜息混じりにメビウスは応えてやった。その間も目線は己の描いた地図をなぞり続ける。
「ここが世界樹の迷宮だからだろう? 冒険者の基本さ、なにも不思議なことじゃない」
「ぼくもメビウスに同感だ」
 朴訥とした声で応じてくれるのはグリフィスだ。彼は短刀の柄に手を置きながら、周囲に気を配りつつ言葉を続ける。
「世界樹の迷宮の中では、不思議が不思議じゃなくなる……理はひっくり返り、真実は現実を裏切る」
 世界樹の迷宮と呼ばれる、巨大な神木が織り成す深いダンジョン。その中ではあらゆる事態が肯定され、あらゆる現象を受け止めなければいけない。全て、真実として。外の世界の現実を時には、忘れることすら必要なのだ。そう、世界樹の迷宮には不思議の三文字は必要なく、あらゆる神秘がまかり通る。
 例えば、滅びた旧世界の再生とか。
 例えば、人を超越した永遠の命とか。
 だから、不治の難病を患った姫君の為に一輪の花が咲いていても不思議はない。それを求めることも、その存在を知っていることも、海都百年の歴史の必然なのだ。
「グートルーネ様は今、王家の森なる場所で御療養中だってさ」
「薬の到着を待ちわびているだろうね。そして今、俺達だけが頼りと知れれば当然」
「うん。……まあ、ちょっと色々思うところはあるけど。先ずはそう、薬だね」
 思うところがあると口にしたメビウスに、仲間達は首を傾げてみせる。参謀役を自称するスカイアイですら、メビウスの意図を汲めずに目を瞬かせた。
 メビウスの胸中をよぎる一抹の懐疑……それはまだ、彼女自身の冒険者としての勘が働いているに過ぎない。だがそれは、たしかなしこりとして心の奥に存在しているのだ。
 それを今は胸に沈めて、メビウスは仲間達を伴い先へと進む。
「ま、今はできることから片付けよう。後でフローディア様にぼくから確かめるしね」
「確かめる? メビウス、何を?」
「色々と、さ。もっとも、応えてくれるのは……グートルーネ様本人かもしれないけど」
 薄明かりの中、北へと向かう回廊をメビウスは歩く。口々に疑問を浮かべながら、仲間達はその後をついてきた。
 やがて視界は開けて、目の前に奇妙な空間が現出する。長大なタペストリーが壁一面を覆う、東西に細長い巨大な大広間。その中央で、注ぐ陽光に露を濡らして光る花が咲いていた。
「メビウス、あそこに花が咲いてる。もしやあれが――」
「まって。誰かいる……もし! ぼく達は怪しい者では、敵ではありません。お姿を!」
 突出しようと声を弾ませるタリズマンを手で制して、メビウスは声を作って張り上げた。刻の沈滞する場を震わせ、空気がピンと張り詰める。
 そして、メビウス達の前にぼんやりと人影が浮かび上がった。
「おやおや、殺した気配を拾ったかい? 歳は取りたくないもんだねえ」
 その場に現れた老婆の姿に、メビウス自身も言葉を失った。
 杖を突いた老婆は魔女然としたあやかしにも見える。それも当然、そのしわを刻んだ肌は青白く、冷たい響きの声を発してくるから。そう、目の前にいるのは深都の深王が語る怨敵、フカビトだった。
 断罪の間で一度目にしているが、改めて間近に見てメビウスは驚いた。
「驚いて声も出ないかい? 坊や達……こいつが目当てで来たのだろう?」
 フカビトの老婆は細く節ばった腕を、ついと花咲く一角へと向ける。
 仲間達が武器に手を伸ばす中、メビウスは小さな深呼吸を一つ。緊張が握らせた拳を解くと、一人毅然と老婆に歩み寄った。
「失礼をお詫びします、お婆さん。仰る通りなんです……あの花がアマラントスなら」
「おやあ、失礼はこっちさね。改めてお嬢ちゃん、この花をどうしてだい?」
「海都に、この花を必要とする人が待っているから。その人に代わって、その人の命を望む者に代わってぼく達は来ました。別に他意はなく、戦う気持ちもありません」
 老婆はククッと乾いた笑みを浮かべて、しわだらけの顔をさらにしわくちゃにした。
「この花を、アマラントスを必要とする……おお、あの娘はまだ生きているんだねえ」
「グートルーネ様をご存知ですか?」
「知っているとも、昨日のことのように覚えているよ。真祖様がお命じになったこともねえ」


 真祖……フカビトの王子にして姫。断罪の間で灼熱の炎に封じられて尚、百年の時を生きてきたフカビトの長。その名が出てメビウスは思わず身構える。
 左右非対称の妖艶な笑みを浮かべる老婆に、幼さと老獪さの入り交じる真祖の姿が重なった。
「やはりぼくの予感は……お婆さん、もしやグートルーネ様は」
「そこから先は自分で調べるんだね。冒険者だろう? 己の目と耳とで、真実に触れておやり」
 不意に老婆の輪郭がぼやけて滲んだ。そう思った瞬間には、その姿は霞のようにおぼろげになり、次いでかき消えてしまった。
 まるで化かされたような感覚にわななくメビウスは、彼女を守るべく踏み出してきた仲間達に囲まれる。
「今日は楽しかったよ、お互い魔女同士苦労するねえ? リボンの魔女や」
 その言葉を最後に、老婆は完全に消失してしまった。そこに今まで立っていた人影はなく、その痕跡すら残されていない。ただ、メビウス達を待ち受けていたかのように、アマラントスの花びらが風もないのに揺れていた。

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