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 海都に戻ってから、メビウスは多忙を極めた。
 忙しさに自分を放り投げて、悔しさと切なさと、そういう気持ちをどこかで認める自分の心を忙殺した。今も彼女はソラノカケラのギルドマスターとして、寝食を惜しんで仕事に精を出している。
「っと、デフィール。きみも買い付けに? トライマーチもやることは一緒って訳だ」
 ネイピア商会に顔を出したメビウスは、深刻そうな顔の店主と馴染みの冒険者仲間とを見やる。カウンターに近付く彼女を、周囲の客達は注視する素振りもみせない。海都は表面上は平和、水面下で起きている激変に気付きもしない。それは深都もそうで、それが現実になるまえに一切合切を決着させる……そういう決然たる意思がメビウスの心に燃えていた。
「あらメビウス、忙しそうね。ちゃんと寝てる? 酷い顔してるわよ」
「あいにくとぼくは、こんな時にベッドで寝れるほど太い根性してなくてね」
 気安い挨拶の言葉だが、それが行き交う空気が少しだけメビウスには優しい。
 今、メビウスもそうだがソラノカケラのメンバーは必死に働いていた。きたるべき決戦に備えて。そしてそれは負けを許されぬ、約束された勝利しか望まれぬ戦い。その目に見えぬプレッシャーは今も、メビウスを心身ともに苛んでいる。
 だが、抗う気概を持てても逃げる術をしらないのがリボンの魔女だった。
 そしてそれはエトリアの聖騎士もそうだと知れれば、心なしか頼もしい。
「それよりデフィール、無事に釈放されたんだね。フローディア様はわかってるみたいだ」
「ええ、そのことで他のギルドは不思議に思ってるみたい。少しの間、混乱は続くかもね」
 デフィールの言う通り、海都はわずかに戸惑いの波紋を民草に広げていた。深都も同様に。
 海都に古くから血脈を紡ぐ白亜の姫君が、急病で静養に身を隠された……そう報じられてからもう、三日経つ。あの聖なる森での騒動からもう、それだけの時間が流れていた。それは同時に、深都の深王が行方不明となってから三日が過ぎたというのと同義だった。
 それでも二つの都は、表向きは平静さを保っている。
「なんじゃ、騎士殿もぬしも同じ顔をしよる。……さてはまた、無理な注文かや?」
 ネイピア商会の女主人は、メビウスの顔を見るなり眉をひそめた。だが、困り顔の奥には儲け話を嗅ぎつけているのか、目元にはにんまりとした笑みが浮かんでいる。
 だからメビウスはデフィールに並んで真っ直ぐ主人を見詰めて、キッパリと注文を言い渡す。
「アムリタとかを買いたいんだ。それも、ありったけ。あるだけ買い占めさせてもらう」
 自分でも口にして酷く無理な注文だと思ったが、メビウスは意外な表情を受け取る。
 ネイピア商会の女主人は、ほれみたことかという顔でデフィールと苦笑を零しあった。
「同じことを言いよるのう。さてさて、困ったもんじゃ」
「ま、考えることは同じって訳よ、メビウス。次の戦いが最後になるわ……恐らくね」
 デフィールが肩をすくめるので、メビウスは拍子抜けして言葉を待つ。
「エトリアの聖騎士様、って拝み倒されたわ。……何年ぶりかしらね」
「それはフローディア様に? 無事に釈放された上でそんな――」
「元老院は今、藁にもすがる思いよ? こんなものを私に持たせるくらいですもの」
 デフィールが小脇に抱えたラージシールドを見せてくれる。合金製の巨大な盾は、宝石とプラチナで輝かんばかりに飾られ、中央にアーモロードの巨大な紋章が朱色で刻まれていた。アーモロードの盾はすなわち、元老院が認めたアーモロードの英雄。
 それを手にエトリアの聖騎士はしかし、鼻から溜息を零す。
「この一戦、負ければ海都……いいえ、深都も一緒。アーモロードは滅ぶわ」
「ああ、それはぼくもわかってる。だから、ベストを尽くさずにはいられないのさ」
 メビウスは正直に語ったし、デフィールはそれを真正面から受け止めた。ただただ不思議そうに両者を見やる女主人の前で、二つの都が直面する恐るべき現実が明かされる。名状しがたい冒涜的な存在による、アーモロードの存亡の危機。
 そう、フカビトの王として覚醒した真祖の、人類に対する種族としての挑戦。
 それは不可避の戦いであり、不退転の決意を持って挑むべき決戦だった。
「深都の行政は今、深王代理騎士のトーネードに一任してる。彼はよくやってくれてるよ」
「突然王を失って混乱してるでしょうね。ネイピア支店もてんやわんやですもの」
「なるほど、それでトライマーチが海都で物資の調達を。事情は同じって訳だ」
「コッペペが腑抜けになっちゃってますもの。でも、彼ならきっと私と同じ選択をする筈よ」
 デフィールは伝票の束を胸元に仕舞いこむと、去り際にメビウスの瞳を覗きこんだ。
「トライマーチはソラノカケラに全面的に協力するわ。フカビトとの一戦、私達も共に」
「……ぼくには、これが一番正しい手法だとは思えないんだけど。それでも、戦わなければいけない」
「人は常にベストを選べないわ。でも、モアベターを、ベターを、グッドを選ぶことはできてよ」
 その一言だけでも、メビウスは少し気が楽になって同胞を、同志とも言える冒険者仲間を見送る。エトリアの聖騎士は、仰々しい豪奢な盾を抱えて店を出ていった。
「そろそろ説明してもらおうかのう。勿論、口は固いつもりじゃが」
 先程から不思議そうに首をかしげていた主人が、ここぞとばかりにメビウスの耳を引っ張る。だから再度消耗品の買い付けを頼みながら、メビウスは周囲を見渡し声を絞った。
「ここだけの話……内々の話だよ」
「心得ておるぞよ? ソラノカケラは上得意、秘密は守るが商売の鉄則じゃ」
「……もう白亜の姫君も深王も、このアーモロードにはいない。二人にはもう、頼れない」
 主人の息を飲む気配が感じられて、それを敏感に拾った客の何人かが振り向く。だからメビウスはことさら声を小さく息をひそめて、額を寄せ合い囁いた。
「指導者と象徴を失って尚、二つの都はフカビトの真祖と戦わなければいけないんだ」
「なんと、それは面妖な」
「詳しくはまだ話せない。でも、この戦いに勝てば平和が……再び二つの都が一つになるんだ」
 メビウスは先日、失意の内に沈みながらも気丈なフローディアから未来を語られた。
 ――民政アーモロード共和国、建国。
 古くより王族の血をよりどころにしていた海都は今、百年前に別れたはらから、深都を迎えて一つになろうとしている。元老院は解体され、民主共和制の国が産声をあげようとしていた。勿論、理念や主義がまだ浸透してはいない……だから、最初は選ばれた有識者で構成される海都院と深都院、二つの議会による統治が始まる。それもいずれは選挙制度を導入し、アーモロードの民によるアーモロードという国が生まれるのだ。
 全ては、真実を伏したまま最終決戦に勝利すれば、の話だが。
 未来のアーモロードは今、メビウスの華奢な双肩に託された。
「……なんと、壮大な話よのう」
「ぼくたちに負けは許されない。この国の明日のために、どうしても勝利が欲しい」
 例え望まぬ戦いであったとしても、それが不可避であれば勝利を望む。そのために最善を尽くすし、後悔だけはしない覚悟だ。メビウスは今、そういう気持ちで一つになったソラノカケラを束ねる身だ。同じく一丸になったトライマーチの面々をも、戦いに駆り立てようとしている。
 メビウスの決意を瞳の色に見て取ったのか、主人は背後へ振り返り声を上げた。
「在庫をありったけ集めるのじゃ! 薬の類は一通り都合する、よいなリボンの魔女」
「感謝を。これで後顧の憂いなくぼく達は戦える。そうそう、代金だけど――」
 足りない分は後払いにすると言って、メビウスが懐から革袋を取り出した。エンでは追いつかない量の買い物はアムリタや薬品にとどまらず、最新鋭の武器防具や護符と、店そのものを買い切る勢いだ。だから宝石や金塊で用意したが、それを主人は受け取らない。


「よい。ツケにしておくのじゃ……全て片付いたら、その時に払ってもらおうかのう」
「それは困るよ。……生きて帰ってくる保証はどこにもないんだから」
「その保証ならほれ、これよこれ。どうじゃ? 死んでも戻る気になるじゃろう?」
 主人はメビウスの手を引っ込めさせて、手早くしたためた証書を突きつける。
 ギルドを運営して長いが、メビウスはこんな高額な買い物の手形は初めて見た。
「他の冒険者の手前、この値段は頷いてもらうぞよ? 必ず払いに戻ってくるのじゃ」
「……うん。じゃあ、言い値で買わせてもらう。代金も必ず。ぼくが約束する」
「国の未来、しばしその真実は胸にしまっておくかの。この秘密、決してもらすまい」
 ゼロがいくつも並んだ手形を受け取り、メビウスは踵を返した。
 再びこの場所に戻り、ケチで強欲だが人のよい女主人に代金を支払うために。その、明日への代価を自らの命で稼ぐために。決戦へ向けて高ぶる血潮を燃やしながら、メビウスはネイピア商会をあとにした。

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