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 羽ばたく蝶亭には普段の喧騒と活気が戻っていた。酒場を賑わす誰もが、その実迫る決戦を知らされずにいる。最近の話題はもっぱら、突如として消えた深王と白亜の姫君で持ち切りだった。
 そんな酒場の奥深く、日も差さぬ暗がりの一角に空気は澱んでいる。
 重く沈滞した雰囲気の中、ブレイズは溜息混じりに向かい合う白い手を止めた。
「エミットさん、それくらいにしなよ。飲み過ぎは身体に毒だぜ?」
 ブレイズと宅を囲むのは、かつて深王代理騎士だったエミットだ。だが今は、その威風堂々とした姿が見る影もない。白い顔には覇気がなく、暗く濁った瞳はただ杯の中の酒を見つめている。
 彼女はブレイズが止めるのも聞かず、今日何度目かの酒をあおった。
「ま、気持ちもわからないでもないけどな。でも、自棄酒にはまだはええよ」
「……ブレイズ、貴公は」
「付き合いはするけどな、なにごとも程々が一番だ」
 エミットの手から、そっと酒瓶を取り上げるブレイズ。
 酔った素振りも見せずに、エミットはその手から強引に酒瓶を奪い返した。そうしてまた、空になった杯へとなみなみと酒を注ぐ。
「早くなど……むしろ遅いくらいだ。もう終わってしまった」
「だからそう自棄になるなって。な? リシュリーちゃん達の元に戻ろうぜ?」
「今更どの面をさげて……己が不覚、笑えんぞ。あのような男を王などと私は」
「その話はまあ、酔ってない時にしようぜ。とにかく今は――」
 瞬間、ブレイズの世話焼きな気質を鋭い殺気が擦過した。露に濡れる刃に背筋が凍る、そんな錯覚にブレイズは目の前の細面を見やる。
 エミットは普段の怜悧な美貌を陰らせ、じとりとブレイズを睨んできた。
「私は……酔ってなどいない。酔えぬのだ、この程度の酒では」
「エミットさん、あんたぁ……」
 思わずブレイズが言葉に詰まる、それくらい迫力のある声が静かに低く響いた。朝からずっと酒を煽っているのに、目の前のエミットが時折見せる表情には鬼気迫るものがある。それもその筈、この深王代理騎士だった重装歩兵からは、今も常在戦場の気迫がひしひしと感じられた。
 だがその力は今、心をへし折られてしまった。
 心なき力の脆さと無意味さは、ブレイズは先日メビウスから学んだことだ。
「ははっ、しけた面で飲んでるな。エミット殿、こいつはわたしのおごりだ!」
 不意に二人の間に割って入る声があった。長身を折りたたむように椅子に座っていたブレイズが顔をあげれば、そこにはソラノカケラのラプターが立っていた。手にしたワインの巨大なボトルを、ドン! とテーブルの中央に置く。エミットも瞳だけをジロリと向けて、その颯爽と明るい表情を眩しげに見詰める。
「……なんだ、貴公。私を嗤いにきたのか?」
「それであんたの気が済むならいいけどね」
「フン、嫌な娘だ。その真っ直ぐな瞳に映る王が、虚影であるとも知らずに」
 吐き捨てるような一言と共に、エミットは杯を乾かし口元を袖で拭う。
 悪態をつかれてもラプターは涼し気な表情で、黙ってエミットに酒を注いだ。
 それをすかさずエミットが飲み干すので、いよいよラプターが持ってきた酒のコルクが抜き放たれる。悪酔いを誘発しそうな安酒の匂いに変わって、芳醇な実りの香りが漂い出した。上物のワインらしく、僅かにエミットも眉を動かし飲む手を止める。
 ラプターは黙って新しいグラスを用意し、人数分の酒を注ぎ出した。
「我が君は王の器かどうか、それはわたしにはわからない。そんなことは、どうでもいい」
「……貴公」
「わたしは王の騎士じゃない、我が君クフィール殿下の騎士。あの方は人の器としては十全だ」
 ――人で十分だ。
 そう言いラプターはワインを口へ運ぶ。呆れたように、どこか化かされたように惚けるエミットの前で、彼女は一気にワインを飲み干しグラスを置く。
 ブレイズは直感した。この娘は、強い。腕っ節がではない……なんと清冽な気概を持っているのかと驚いてしまう。迷いはないが、なにかを信奉して盲信する危うさも感じられない。ただ、強力な信頼関係を得た人間特有の気持ちの強さがうかがい知れた。
「王様ってのがどんなで、どうあるべきか。エミットさん、あんたはもう知ってるはずだ」
「……リシュリーのことか。あの娘は」
「毎日キリキリ働いて頑張ってる。まだ小さいのに、高貴な義務を果たすとか……ま、いいさ」
 エミットへワインのグラスを勧めて、ラプターは立ち上がり行ってしまった。
 彼女はごったがえす酒場の人混みに消える直前、肩越しに一度だけ振り返る。
「わたしは我が君の盾になる。我が君が子供達を守るなら……それはわたしの守る者達だ」
 ブレイズはその時、僅かに狼狽するエミットに表情の変化を読み取った。まるで泣きじゃくる幼子が母親を見つけたかのような、そんな酷く頼りない素顔がそこにはあった。
 だが彼女は鼻を鳴らして自嘲気味に笑うと、今度はワインを飲み出した。
 それでいいさと言わんばかりに、ラプターは行ってしまった。
「……エミットさんよ、オレも行くぜ。悪ぃが最後までつきあってはいられねえ」
 ブレイズは気付けば立ち上がっていた。
「真の王などいない? ああ、そうかもな……なら、あんたがそれになればいい!」
 意外そうに見詰めるエミットへと、気付けばブレイズは熱を込めて言葉を選んでいた。生来腕一本で生きてきたブレイズは、相応にして不器用で喋るのは苦手だ。だが今、ラプターが残していった決意の言葉が彼女を駆り立てる。
「真の王、か……そんなものは幻想だ。所詮は私の理想に過ぎなかったのだ」
「理想を持って何が悪い! な、理想を探して、なければ作って……あんたが皆の理想になれよ」
「……笑わせる。この私がか? 器ではないな。私は道化だよ、ていのいいお笑い種だ」
「それがどうした! 笑いたい奴には笑わせとけよ。オレぁでも、笑うもんかよ」
 冷たい笑みを零して、エミットがワインのボトルに手を伸ばす。それを咎めもせずに、ブレイズははっきりと告げた。
「オレは難しい話はわからねえ。オレはただ力でしかないからな。だがな、エミットさんよ」
 あの女が、メビウスがオレの力に意味をくれる。今はそう信じられるし、この力がアーモロードの未来をこじ開けると信じている。ならば今、リボンの魔女が示す決戦へと馳せ参じる時だ。
「では征け、ブレイズ……私は、駄目だな」
「エミットさん! あんたの力が必要なんだよ、オレ等には。なによりリシュリーちゃんが」
「私にはその資格など。買いかぶるのはやめてもらおう。私は、己の理想一つ信じきれぬ女だ」
「……わーった、オレは征く。征ってフカビトの神を気取る真祖とやらを、打ち砕く」
 ブレイズは悲しかった。元より頭を使うのは苦手だったが、自分よりも力強き者へは敬意を払うのがブレイズの流儀だ。メビウスは少ない時間で最大限の力を示してくれたし、その力の意味を諭してくれた。そしてそれは共に並んで戦ったエミットも同じ……真に力強き者。ブレイズは今まで騎士を気取る者達を幾度となく打ち倒してきたが、本物の騎士と言えるのは一人だけ。否、先程の邂逅で二人に増えた。先ほどのラプターのように、普段のエミットは気高く強い騎士だった。それなのに。
 ブレイズの決意を聞いて尚、エミットは立ち上がろうとすらしないのだ。
「ブレイズ殿、合流されるのでしたらお急ぎを……今宵は満月、地下の神殿へも月明かり差す夜」
 気付けばブレイズの隣に、ヘルムを小脇に抱えたアンドロの紳士が立っていた。その声にはどこかで聞き覚えがあるような気がする。なにより、胸に輝く深都殊勲章が身分を如実に語っていた。
「エミット殿、今夜はワタシがお相手しましょう。さ、飲み明かしましょうぞ」
「トーネード……深都はどうか。私は、深都代理騎士の責務すら放り出してしまった」
「いえいえ、オランピア殿を再起動したので思いの外トントン拍子でして。なに、心配無用」
 軽妙な口調でニコリと微笑むと、トーネードは立ち上がるブレイズと入れ替わりに椅子に座った。そのまま酒を自前のグラスに注いで、エミットへもかざしてみせる。その柔和な親しみのこもる表情に、エミットもまた酒を飲み干しグラスを差し出した。
「我ら深都の騎士に、リボンの魔女に並び立つ資格はありますまい。さ、ブレイズ殿。お急ぎを」


「……征くがいい、ブレイズ。お前が力に意味を見出したなら、その力を振るう理由もまた明白だ」
 この者達は――初めて今、ブレイズの胸を締め付けるような気持ちが込み上げる。もはやエミットにはもう、己を燃やす生き方が途絶えてしまったのだ。そしてトーネードはそれを責めるでもなく受け止め、慰めようというのだ。ならば今、ブレイズが取る道は一つ。
「解った。解ったよ。……ちょっとアーモロードを救ってくる!」
 ブレイズは弾かれたように駆け出した。筋骨隆々たる背中は、王無き騎士達の乾杯の音を小さく聞く。それも酒場の賑わいに消えてゆき……ソラノカケラとトライマーチの、一番長い夜が帳を迎えはじめていた。

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