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 海都に帰還したメビウスを待っていたのは、英雄の凱旋を称える民の歌と踊り。賞賛を謳う詩人の詩篇に、酒場のママの笑顔ととびっきりの美酒。そして生まれ変わるアーモロードの夜明け。
 それ以前に、寝る間もないほどの激務だった。
 リボンの魔女、海都と深都を救い橋渡しをする……この快挙がメビウスを多忙にした。あちこちのパーティに招かれたし、民政アーモロード共和国建国のあらゆる式典に呼ばれた。スピーチの原稿はスカイアイ達が突貫作業で毎日執筆しても、あっという間にネタが尽きるくらいだった。今日も慣れぬドレスの仮縫いにテンテコマイだし、それはトライマーチでも同じようだった。
 だから、親しい仲間がひっそり去ろうとしてても、その直前まで気付けずにいたのだ。
「よく教えてくれた、ヨタカ! ……ぼくにも責任の一端はあるしね」
「メビウス様の責ではありません。それにわたし、気持ちが少しわかるんです」
「エルは、エルトリウスには知らせた?」
「ええ、いの一番に。ただ『そうですか』とだけ……ミラージュ様もそれ以上はとおっしゃいますし」
 普段から身につける機会も趣味もない豪奢なドレスは、酷く走るのに難儀する。それでもメビウスはヨタカとならんでアーマンの宿へ走った。裾をつまんでも引きずるので、途中からはもう諦めた。このきらびやかなドレスを着て、明日も忙しくロビー活動というわけだ。
 そんな中、誰にもなにも告げずになずなが姿を消したらしい。
「なずなさんは剣に生きるブシドー、それが剣を取れぬ身になれば辛いのはわかります。でも」
「なにも言わずになんて水くさい。……もっとぼくを責めてくれればいいんだ、楽になる」
 なずなの切り落とされた右腕は、結局くっつかなかったのだ。それは激しい戦闘の中で最善を尽くしたとはいえ、メビウスには心残りだ。そしてブシドーとは、冒険者とは隻腕でも生きていけるほど甘い生き方ではない。
 それでも感謝こそすれメビウスを責めようともしない、そんななずなが少し切ない。
「誰かっ、今日なずなを見なかったかい?」
 アーマンの宿屋に転がり込むや、その食堂で忙しいギルドの面々に声をかける。トライマーチの連中はあらかた当たったし、他に心当たりがあるとすれば海都だが。だが、珍しいメビウスのドレス姿に仰天した仲間達は、次には首を横に振ってくる。
「なにかあったんですかい、隊長ぉ。あ、これ今夜のスピーチの原稿でっす」
「なずなさんはそういえば、最近は元気がなかったみたいだね」
「そりゃそうさ、片腕落とされてニコニコしてられる娘っ子がいるもんか」
 誰もが口々にそう言って、それでも書類やなんやの作業の手を止め集まってくれる。その面々を見渡しメビウスは一息つくと、額の汗を拭った。
「突然いなくなったって……デフィールやコッペペにも、エルにさえ何も言わずに」
 立ち尽くすメビウスが握る拳の中で、自分を責めるように爪が食い込んでゆく。
 二つの都と二つの民、まとめて救った英雄がその実、仲間一人救えないではあまりにも情けない。それに、どちらかと言えばメビウスは前者の栄誉よりも後者の絆をこそ大事にしたいとも思う。それはいつでも自分を支えてくれる、冒険者の最大にして最強の強みでもあるからだ。
「そうか、それで」
 その時メビウスは意外な声を聞いた。
 初めて聞く声はのんびりと新聞を畳みながら立ち上がる。
「グリペン、きみ喋って……え、あ、いや、それより。心当たりがあるのかい?」
「あの娘は毎日、うちの子を撫でていた。今朝もきたよ」
 うちの子というのは、グリペンの背後でのっそりと立ち上がった巨大な剣虎だ。主人にして友へと身をすり寄せる獣は、大人しくゴロゴロと喉を鳴らしている。その姿を見て、メビウスの隣で「あ」とヨタカが小さな声をあげた。
「なずなさん、あの子を随分かわいがってましたから」
 そう言うとヨタカは、そっと剣虎へ近付き頭を撫でる。親しい者の匂いを感じたのか、もとより人懐っこい剣虎はすぐ気持ちよさそうに目を細めた。だが、ヨタカがその耳になにやら囁くと、全身の毛を逆立てて走り出す。アクがどうとか煮込みがどうとか聞こえたような気がしたが、この際メビウスは聞かなかったことにした。
 剣虎はその巨体が嘘のように身軽に食堂を出ていった。
「あの子、なずなさんの匂いがわかるって言ってます。メビウス様」
「うん、ごめんよグリペン。ちょっとあの子を貸してくれないかな」
 通りへと躍り出た剣虎を追うメビウスはしかし、自分に続かぬヨタカへ振り向いた。
「……わたし、もう一度エルトリウス様に会ってきます」
「ヨタカ」
「誰よりお辛いのはメビウス様と、あのお二人。なのに、こんなのって……」
 ヨタカは自らの肘を抱いて俯き黙ってしまった。
 ソラノカケラの誰もが同じ気持ちで、その伝搬してゆく重い空気に言葉を失う。
「メビウス、こんな話がある」
 珍しく多弁なグリペンが、静かに言葉を選んでは語りかけてくる。初めて聞くのにその声は酷く落ち着いていて、公用語が慣れないのか発音は嫌に正確過ぎる。だが、この獣使いの仲間が必要だと信じて発した声にメビウスは耳を傾けた。
「獣達は自らの狩人としての力を失った時……どうすると思う?」
「人も同じだって言いたいんだね、グリペン」
 大きく頷き、グリペンは言葉を続ける。
「そっといなくなるんだ。何も言わずに、何も告げずに。ただ消えるようにいなくなる」
「じゃあなずなも」
「今朝、あの娘は随分長いこと剣虎を撫でていた。一人と一匹は無言だったけど、なにか通じてたよ」
 それだけ言うともう、仮面の奥の唇が言葉を象ることはなかった。
 だが、それだけで十分だとメビウスは再び走り出す。明日の一張羅が大変なことになっていたが、構わない。ドレスを引きずりながらメビウスは食堂を駆け出て、慌てて半歩戻ると首を出す。
「ありがとう、グリペン。みんなも。ヨタカ、エルの方をよろしくね」
「承知しました、メビウス様」
 思えばエルトリウスという男も不思議なもので、どこか得体も底も知れぬ雰囲気がある。だが、ハイ・ラガートの頃からずっとなずなは彼に懐いていた。不器用で人との関わりを苦手とする狂戦士を、いつもあの男は優しく見守っていたのだ。
 誰より辛いあの二人……街中を歓声と口笛を浴びながら走るメビウスは、脳裏にヨタカの言葉を思い出す。
「世界樹の迷宮? 地軸のある方だ……まさか、なずなっ」
 剣虎は時々立ち止まっては、メビウスを急かすように再び走り出す。その背を追って迷宮から地軸を使ったメビウスが飛んだ先で、不意に視界が開けた。
 忘れもしない、この場所を。初めて深都の全景をこの目に納めた深海の丘を。
 メビウスは遠くに深都の灯りを眺める小高い丘で、剣虎が一人の華奢な影に追いつきじゃれつくのを見た。
「お前は。駄目だぞ、ご主人様の側を離れては。……ふふ、私が言えた義理ではない話だな」
「なずなっ!」
 メビウスの声になずなは振り返った。簡素な着流しは腰に大小を帯びておらず、空っぽの右袖が揺れている。
「メビウス」
「なずな、どうして出てゆく? きみはあいつの、エルの隣にいればいいじゃないか」
「……そういう訳にはいかない。私とて武家の出――」
「そんなの関係ないだろ? せっかく一段落したのに、悲しいじゃないか」
 駆け寄るメビウスに目を丸くしながらも、なずなは珍しく微笑んだ。静かで柔らかな笑みを湛えたまま、彼女は広がる大洋の天を仰ぐ。
「……雪が、降ってきたな」
「え? なずな……」
 視線を追ってメビウスも海の底を見上げる。
 深海を抱く深都の空に今、静かに雪が降っていた。確かトーネードの話では、これは深海に済む微生物の光だという。だが、深々と降り積もる深都の雪は、積もることなく淡い光で二人と一匹を包んでいた。
「ハイ・ラガートを思い出す。あの地も寒かった。メビウス、覚えているか?」
「忘れはしないさ」
「お前と初めて会ったあの日も、雪が降っていた」
 左手で剣虎を撫でて、なずなは雪空を見上げている。
 その横に並んでメビウスも静かになずなに目線を重ねた。
「私の腕のこと、悔いて自分を責めるな。メビウス、お前は悪くない。むしろ、嬉しかった」
「なずな……でもっ、きみの生きる道をぼくは繋げられなかった。リボンの魔女が聞いて呆れる」
「そんなことはない。私の道は剣の道……閉ざされようともこじ開ける。友のため、仲間のため」
 そして、あの人のために。それだけ言って、ニコリとなずなは笑った。


「メビウスのリボンは表裏を循環する無限の象徴。そうだな、メビウス」
「あ、ああ、うん」
「人の縁もまた、そうであると私は信じたい。その全てを紡いで束ねるのはメビウス、お前なんだ」
「なずな」
 なずなの手荷物は僅かにズタ袋が一つだけだ。それを肩にかけなおして、そっとなずなは歩き出す。右袖をゆらゆら揺らしながら、なずなの背中がメビウスから遠ざかってゆく。
「再会を約束するぞ、戦友。お前達の危機に私は必ず馳せ参じよう」
「……わかった。エルになにか伝言は?」
「いい。黙って送り出してくれる優しさで十分だ」
 静かに雪が降る中、メビウスは友の背を見送った。交わした約束をこの胸に刻んで。
 深都は機兵の街、その技術がもしや役に立つのではと申し出てくれたのはトーネードだと後にわかった。メビウスは遠くない未来、またすぐハイ・ラガートの戦友に会える気がした。だから今だけ、ほんの少しだけ……稀代の女剣士に別れを告げて、メビウスはアーモロードの英雄としての毎日を自分に課して忙しさに飛び込んだ。

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