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 眩い光が静かに収束したあと、ジェラヴリグはゆっくりと瞳を開いた。白んだ視界の中に景色が映り込むより早く、鼻孔をくすぐる緑の匂い。それは濃厚な空気の中に甘く萌えた香りを織り交ぜ、仲間達を包んで滞留していた。
 ようやく鮮明になるあたりの風景は、見渡す限りの緑が複雑な迷宮を織り成している。
「ここは……迷宮? まだ下層があるなんて」
 驚きに言葉を失う仲間達を背に、一歩ジェラヴリグは踏み出す。足元の感触も植物そのもので、柔らかな弾力は僅かに沈んだ足をそのまま押し返してくる。一見して緑豊かな樹海そのものだが、なにかおぞましさを感じてジェラヴリグは足を引っ込めた。この場所はそう、まるで人の開発を知らぬ原初の森のよう。まだ火を知らぬ人間にとって未知の脅威だった、暗く深い森を思わせる。虫の囁きも鳥の囀りもない、ただただ奥へと続く自然の迷宮。
「ジェラ、迷宮ですわ……凄い、凄いですの! わたくし達、まだ一緒に冒険できますわっ」
 感嘆の声をあげるリシュリーは、なにかから追われるようにはしゃいでいた。普段の無邪気で無垢な笑顔だったが、親しい付き合いのジェラヴリグには無理をしてるようにも見える。
 それでもリシュリーは、すぐ近くに設置されている地軸を指さしながら駆けてゆく。
「マテマテ、リシュ! 時に落ち着けだゾ! あーもぉ……ホロホロ、あとを追うっきゃないナ!」
 ラスタチュカは慌てて、足取りも軽いリシュリーを追う。寡黙なビーストキングの少女は、ジェラヴリグの顔を心配そうに覗きこんでから、そのあとに続いた。仲間達に促される形で、ジェラヴリグも警戒心を最大限に発揮しながら歩く。
「新しい地図が必要ですわね。それにしても凄い、世界樹の迷宮はどこまで続いてるんでしょう」
 リシュリーは新しい羊皮紙を取り出すや、その紙面にペンを走らせる。
 未知の秘境とはいえ、地軸は確保できた。恐らく、今まで同様に海都へと地軸はジェラヴリグ達をいざなうだろう。橋頭堡が確保できたからか、リシュリーは続けてその奥へと進み始めた。
「待ってリシュ、駄目……この先はまだ、駄目。ね、一回戻ろう? みんなも」
 仲間達をぐるりと見渡し、ジェラヴリグは自制を促す。
 初めての階層では慎重に慎重を重ねる。これは冒険者の鉄則だ。
「そうですわね。焦る必要はありませんの。だってみんなと、ジェラと明日からもずっと冒険ですもの」
「リシュ……」
「ね、わたくし達は一緒にいられますわ。この迷宮が続く限り、冒険が続く限り」
 果たしてそうだろうか……それを自分も望んではいるが、同時にかなわぬ願いであることもジェラヴリグは知っていた。いつかはアーモロードの世界樹の迷宮は踏破され、冒険者達は自ずと新たな冒険の舞台を求めて旅立つ日が来る。ジェラヴリグはアーモロードに生まれ育った、アーモロードの人間……これからもこの土地で暮らし、生きて、この場所に骨を埋める。だが、リシュリーは生まれた国があり、戻るべき場所を持つ身分だ。
 どれだけリシュリーが拒んでも、別れの時はくる。それを大事な思い出に昇華させる自信がしかし、まだジェラヴリグには持てない。
 複雑な胸中をひとまず保留して、現実に対応しようとするジェラヴリグの耳朶を声が打った。
「ついにこの地へ来てしまったのですね。人間達よ、混者の少女よ。即刻この場を離れてください」
 落ち着いた静かで小さな、しかしよく通る声だった。
 振り向くジェラヴリグは、自分達が飛ばされてきた場所に小さな影を見る。それは華奢な矮躯でたたずむフカビトの少年だった。いやに白い肌に、人とは異なる容姿。まるで鮫を思わせる異貌は、酷く洗練されて美しいラインを流していた。
 恐らく人間であれば美少年であろうその姿に、ジェラヴリグは落ち着いて声を絞る。
「あなたは誰? この場所はいったい……世界樹の迷宮のようだけども」
 仲間達が僅かに警戒心をとがらせる中、ゆっくり穏やかにジェラヴリグは言葉を紡ぐ。
 返された言葉もまた、敵意を感じぬ平静なものだった。
「私はあなた達の名を問いません。だから名乗らぬ無礼をどうかお許し下さい」
 一度言葉を切って、フカビトの少年は歩んでくる。
「我が師、お婆様の命によりこの地へ調査に赴いております。ここは百年封印された禁忌の地」
「禁忌の、地? 封印された……」
「そう、遥か太古の昔に世界樹と共に星の海より飛来した我らが神の地。……『昏き海淵の禍神』」
 昏き海淵の禍神……それがこの緑に覆われた迷宮の名。
 ごくりと隣でリシュリーが喉を鳴らす音をジェラヴリグは聞いた。
「でっ、では、ここにいるのですか? フカビトさんの神様は」
「ええ。この階層の奥深くへと封印されています。ですが、その力は願いを求めて漏れ出ているのです」
 リシュリーのおっかなびっくりな言葉にも、丁寧に返事をしてくれるフカビトの少年。
 ジェラヴリグはポーチの中のアリアドネの糸を確認すると、再度問いを投げかけた。
「あなたの言う師とは、以前にも会った魔女のお婆さんですか?」
「師はあなた達の話を私にしてくれました。混者の子達に会ったと」
「あなた達の神が望む願いって? この先には何が……」
「あなたが私達の血を半分継ぐモノですね? ……早く、疾く疾く急いて、この場を去りなさい」
 質問に質問を返して自分の中に納得を得たのか、フカビトの少年は静かに退去を要求してくる。その抑揚に欠く声には、確かに逼迫した懇願の念が滲んでいた。ジェラヴリグとしても、新たな迷宮の発見をまずはギルドに報告したい。先走って無理な探索を行うのは、これを愚と戒めるのが冒険者だから。白亜ノ森の探索でわずかだが消耗していたし、未知数の危険が潜むであろう新迷宮にはメビウス達が挑むほうが安全だとも思えたから。
 だが、そんなジェラヴリグの冷静な心境とは別の声があがる。
「わたくし達は冒険者ですわ! フカビトさん、どうか先に進ませてくださいな」
 リシュリーだ。彼女はどうやら、もっと先へと進みたいらしい。
 だが、フカビトの少年は首を横に振って同じ言葉を繰り返す。
「あなたこそ危険なのです、混者の姫君よ。どうか我が神が気付く前に、元いた世界へお戻りなさい」
「で、でもっ! 冒険の舞台があるのです。この先に進めば、みんな一緒にいられるのです――」
 リシュリーのどこか逼迫した声が、不意に曇って掻き消えた。
 同時にジェラヴリグは、名状しがたい不吉な予感に背筋を凍らせる。ホロホロもラスタチュカもそれを感じたのか、武器を構えて互いの背をカバーし始める。何かが近付いている……それも、邪悪で醜悪な敵意と害意の固まりが。
 それが伝わったのか、フカビトの少年は不意に虚空を見上げた。
「いけない……さあ、早く! この場を一刻も早く立ち去るのです!」
「お待ちになって、ええと……フカビトさん。わたくし達は、わたくしは――」
 その時、初めてこの静謐を湛えた迷宮に音が響いが。耳に痛い静寂を引き裂くのは、空間が歪んで避ける猥雑な音。それを引き連れ、ジェラヴリグ達の目の前で空気が渦を巻いて集束し始める。その中央に巨大な眼が見開いた。
「オオ、オオ……百年、待ッタ……呪ワレシ混者ノ血、過チノ結実。我、再臨ノ時」
 それはしゃがれて冷たい声だった。目の前に浮き出た大きな瞳が喋った。直接脳に響く言葉だった。
「いけない、お逃げなさい!」
「今コソ受肉ノ時……我ノ復活ヲ讃エヨ、忌ムベキ世界樹ヲ今度コソ……!」
 ジェラヴリグへと突如、禍々しい光が瞳から注いだ。肌を貫き心身を犯すような穢れた視線が、自身に流れる二種類の血を泡立てる。指一本動かせぬまま、声にならない悲鳴をあげてジェラヴリグは痙攣に震えた。仲間達の声が遠くに聞こえて、徐々に視界が狭まる。
「今コソ受肉ノ時……復活ノ時、来タレリ!」
「あっ、あ、ああっ!」
 フカビトの少年が手を伸べたのが、辛うじて認識できた。仲間達の自分を案じてくれる悲鳴が聞こえた気もする。
 だが、なによりはっきりと感じたのは、親友の抜刀の声だった。
「ジェラになにをするのですっ! 仲間への狼藉はわたくしが許しませんわ!」
 剣を抜き放ち、妖しく揺らめく瞳とジェラヴリグの間にリシュリーが割って入る。視線を遮り剣を振りかぶる姫君は、大上段に構えて跳躍した。同時にジェラヴリグを襲う異変が途切れて、彼女は地へと膝を突く。
 リシュリーは果敢にも切りかかったが、虚しくその切っ先は空を切るばかりだった。
「モウ一ツノ混者……穢レシ背徳ノ血脈ヲ我ニ。受肉ヲ、現世ヘノ受肉ヲ!」
 続けて斬りかかるリシュリーを異変が襲った。
 友の危機に誰もが声を失い、ジェラヴリグもまた目を見張った。リシュリーは見えない雷撃に討たれたかのように宙で固まり吸い上げられ、その豪奢な衣服が切り裂かれてゆく。巨大な異形の瞳は、震えて中空に縛り上げられた裸体に重なるや光を発した。
 思わず目をかばったジェラヴリグは、信じられない声を聞く。
 確かにリシュリーの声、しかし……淫靡で卑猥な悪意が入り混じる声音が静かに響き渡った。
「おお、これが受肉の悦楽。我は再びこの世界に顕現する。混者の穢れた血肉を通じて」


 全裸に剥かれたリシュリーの肉体が、ゆっくりと降りてきた。その顔には普段の純真な笑顔はない。唇は愉悦に釣り上がり、目元は怪しげな光をたたえている。なにより、歳相応以下だった肉体は急激に大人びて成長を遂げ、男女入り交じるその身体が曲線を描いて膨らんでいった。雄々しく股間を屹立させながら、突如急成長を遂げたリシュリーの中でなにかが語り出す。
「ようやく手に入れた肉体……これが存在の恐悦! 素晴らしい」
 それはリシュリーの姿を歪めて現れた、フカビト達の神。己の身を、豊満に膨らみ要所が引き絞られた肉体美を撫で回しながら、邪悪な神は恍惚に言葉を続ける。ジェラヴリグは絶句に思わず立ち上がるのも忘れた。
「混者の血こそ我が供物。ククク、この肉体を得て今こそ世界樹を根絶やす時。久遠の時を生きた戦いに終止符を」
 リシュリーの姿を乗っ取り、その肉体を掌握した神がうっとりと零して消えた。
 新たな迷宮の地に、仲間を奪われたままジェラヴリグ達は取り残されたのだ。
「二種の血を交えた身は、神の受肉の糧となる。ゆえに師は私を遣わしたのですが……」
 フカビトの少年の声も今は、ジェラヴリグの耳には入って来なかった。
 世界樹の迷宮第六階層『昏き海淵の禍神』の奥へと、ジェラヴリグの親友は奪われ消えていった。

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