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 鬱蒼と生い茂る原初の森は、薄暗く奥へと続いている。世界樹の迷宮第六層『昏き海淵の禍神』は、深く深くメビウス達冒険者を闇へといざなった。臆することなく進むも、今まで以上に複雑な迷宮は悪意と敵意に満ち満ちている。それはまるで、神の御座へと近付く人間を罰しているかのよう。
 だが、その暴虐不遜な神威に屈するメビウスではなかった。
「お待ちを、メビウス。……どうやら、また同じ場所に戻ってきたみたいですね」
 エルトリウスの声に足を止めるのは、これで何度目になるだろう? メビウスは額の汗を拭うと、再び地図を開いて確認する。かれこれもうニ、三時間は歩き続けている。しかし、行けども行けども景色は同じ波長を繰り返す。全く代わり映えしない周囲の木々は、互いに喰い合うように伸びて迷宮を織り成していた。
「よし、小休止しよう。グリペン、きみの相棒はどうだい? なにか感じていそうかな」
 地図上ではもう、メビウス達は次の階段に行き着いてもいい距離を歩いている。だが、現実には同じ場所をグルグルと行ったり来たり。エルトリウスはレンジャーあがりの男で、その距離感覚と方向への嗅覚は本物だ。彼が東西南北を間違えることはない。
 それはグリペンの剣虎も同じようで、しきりに地面に匂いを拾いながら鼻を鳴らしている。
「メビウス、一時撤退を進言する。私のセンサーが先程から異常値を示しているのだ」
 キュイン、と小さく関節を鳴かせて、テムジンが周囲を警戒しながら耳打ちする。既にここは敵地、そして彼女達アンドロにとっては百年間戦い続けたフカビトの神が眠る場所なのだ。だが、以前は刺々しかったテムジンに気負いは感じられない。彼女は弩を構えたまま、眼鏡のレンズ越しに深い闇を睨んでいた。
「うん、糸で一度戻るのも考えたんだけど。けど、まだ余力もあるし……あまり時間は無駄にできない。だろ?」
「肯定だ。だがメビウス、私達はよくてもこの子に強行軍は少し酷でもある」
 意外な一言にメビウスは面食らった。地面に伏せってあたりを調べていたエルトリウスも同様で、グリペンすら驚き剣虎を御する手を止めた。あのテムジンが、人の心配をしている。しかもその相手は――
「大丈夫です、テムジンさん。わたしは、平気。まだ進めるよ」
「……了解した。だが無理は禁物だ、ジェラヴリグ。あくまで術師としての戦力確保を私は言っている」
 かわいげがない余計な一言を呟くと、テムジンはそのまま先に立って前方を警戒し始めた。素直じゃない態度にやれやれと肩を竦めて、メビウスもジェラヴリグの顔を覗き込む。少し披露の色が滲んでいたが、気丈にも彼女は小さく首を振る。
「こんな所で立ち止まっていられない。進もう、メビウス」
「そうだね。でも約束だよ、ジェラ。無理はしないこと。焦っても上手くいかないしね」
「うん。わかってる、わかってるけど……じっとしていられないの」
 不安げに俯くジェラヴリグは、自分の手をぎゅむと握っている。その小さな拳の中に、爪が食い込んでゆく音すら聞こえるのではとメビウスが錯覚するくらいに。
 物音一つしない不気味な静寂の中で、その時不穏な気配が濁って淀んだ。
「メビウス、センサーに感あり! 敵が、来るっ!」
 不意に前方の空間が撓んで歪曲し、周囲の景色を捻じ曲げて集束する。その場所に突然現れた殺気に、メビウス達は迅速な対応で陣形を取る。ここにきてソラノカケラとトライマーチは、常に互いの人員による混合パーティを組むことにしていた。そして交替制で24時間を通して休みなく第六層を調査する……それがもっとも早く迅速に仲間を救う唯一の手段だった。
 緊張感に強張るメビウス達の前に、その悪意は再び現れた。
「足掻いているか、人間よ。無駄と知りながらも健気な……哀れみを贈ろう」
「好きでやってる冒険者家業さ。誰かさんのお陰で退けないしね」
 メビウスの返礼に鼻を鳴らして、宙に現れた禍神は長い足を組む。そうして見えない玉座に身を預けた格好で、不遜な笑みは形ばかりはリシュリーの面影を歪めながらメビウス達を見下してきた。
 今まさに、目の前に敵の首魁がいる……だが、攻撃をためらうのはメビウスだけではなかった。
「どうした? その身に秘めた憎しみを撃発させろ。我に愉悦と喜悦を捧げるのだ」
 妖艶な笑みを浮かべる禍神は、奥歯を噛むメビウスを視線で汚してゆく。その冷たい眼差しにさらされているだけで、誰もが言い知れぬ恐慌に竦んで震えた。恐るべき威圧感にしかし、どうにかメビウスの後から声があがる。
「リシュを、わたしの友達を返して。あなたが万能の神なら、無用な争いだって避けられる筈」
 震える声はジェラヴリグだった。彼女はその小さな身から振り絞るように、ゆっくりと言葉を禍神に向ける。
 だが、にべもない言葉が返ってきた。
「我に無礼な。だが、許そう。無知もまた愛でる価値がある。ククク、流石は我が花嫁となる娘」
「は、花嫁?」
「いかにも。混者の呪われた血肉こそ至高……その身を交えて新たな種を蒔くのだ。星海の彼方へと」
 うっそりと潤んだ目を細めて、禍神は醜悪な笑みを浮かべる。
「我は受肉を経て、忌子の花嫁と子をなす。ジェラヴリグとやら……我の子を産めい」
 その時、銃声が響いた。涙ぐむジェラヴリグの肩を抱き寄せながら、エルトリウスが煙をあげる銃口を向けていた。彼の放った弾丸はしかし、禍神から離れた場所に着弾していた。
「レディを口説く術を知らないようですね。無礼極まりない」
「ほう……人間風情がなかなかどうして、極上の憎悪を練り上げたものよなあ」
 普段同様に涼やかな微笑をたたえて、エルトリウスの表情は変わらないように見える。だが、メビウスはその仮面の下に燃え滾る冷たい炎を察する。さながら煉獄の如き憎しみを燃やして、エルトリウスは静かにもう一丁の銃をも向けた。
 発砲音と同時にやはり、禍神を僅かにそれた銃弾は天井に飲み込まれてゆく。
「クハハッ! どうした人間、この身体が傷付けられないか? であろうな……それが弱さよ」
 両手を広げて哄笑に身をのけぞらせ、ガクガクと震えながら禍神は声をあげる。人を嘲り笑うその声は耳障りで、とてもリシュリーと同じ声音とは思えない。メビウスは気付けば拳を固く握っている自分に気付いた。
 だが、メビウス達の怒りはさらなる暴挙によって高められる。
 禍神はその手に光る鋭い爪で、自らの胸元を切り裂いた。白い肌に真っ赤な血が吹き出し、ジェラヴリグの顔が青白くなってゆく。
「やっ、やめてっ! その身体を傷付けないで!」
「素晴らしい! いい声だ……もっと嘆き慄くがいい。その悲鳴は我を称える福音。さあ、泣け! 喚け!」
 禍神は自らの血に濡れた指を、そっと唇へと運ぶ。鮮血で化粧を施したその顔は、えも言われぬ美しさと同時に、嫌悪をもよおす邪悪な異貌だった。もはや優しく無邪気で明るかったリシュリーの面影はそこにはない。興奮に頬を上気させるその姿は、正しく邪神そのものだった。
「絶望を我が供物に捧げよ! その上で混者の花嫁よ……貴様を辱めて貶め、その身を呪わせてやろう」
「ジェラ、奴の言葉に耳を貸してはいけない! テムジン、エル、グリペンも! 退くよ、戻ろう」
「了解だ、メビウス。しんがりは任せてもらお――!?」
 不意に背後で絶叫が迸った。身の毛もよだつような咆哮と共に、巨大なモンスターが通路を塞いでいる。
 目の前に現れた禍神に気を取られるあまり、メビウスはその接近に気付けなかったのだ。エルトリウスやテムジン等、感覚の鋭敏な仲間の存在も真逆に作用した。つい頼ってしまったが、テムジンは先程からセンサーの不調を訴えていたし、エルトリウスは冷静ではなかった。


 現れたのは、獰猛な牙から唾液を滴らせる禍々しい竜……七つ首を蠢かせるその姿に思わず息を飲む。
「我よりの手向けだ。さあ、万難を退け我が前に来い……花嫁を贄として捧げに!」
 禍神の姿が消えると同時に、魔界の邪竜が突進してきた。その七つの首に光る七対の瞳が妖しく閃光を放つ。
「クッ! やるしかないのか……グリペン、頼むっ!」
 ドラミングの音に乗じて、雄々しく剣虎が光を引き裂く。真っ白になった視界の中、メビウスは必死で精神力を統一して術を練り上げる。今の光は恐らく、あらゆる災厄をもたらす呪いの輝き。己の身を襲った毒を治癒しながら、メビウスは仲間達のフォローに回る。
「ああ、オランピア様! 私は特務を遂行してみせます。特務を、特務を遂行……遂行遂行遂行」
「テムジンは混乱か! しっかりするんだ」
 即座に暴れるテムジンを羽交い絞めにしながら、その回路を走り回る邪なささやきから彼女を解き放ってやる。その間もグリペンは同胞たる剣虎に指示を飛ばしているが、その動きは鈍い。彼はどうやら麻痺で自由がきかないようだった。
「厄介な置き土産ですね。大丈夫ですか? お嬢さん」
「は、はい。あなたが守ってくれたから。でも、エルトリウスさん、あなたは」
「エルで結構です。私は迷宮に慣れてまして、これくらいは。さあ、片付けましょう」
 ようやく正気に戻ったテムジンを開放して、どうにか臨戦態勢を整えるメビウス。こんな時に熟練冒険者というのは力強くて、エルトリウスはどうにか自力で状況を打開したようだった。それに、ジェラヴリグを守ってくれたことがありがたい。
「一気に決めて先へと進むよっ! 今日こそこのループを突破する!」
 周囲のエーテルが圧縮される光にバチバチと高鳴る。その中を馳せるメビウスは、真っ直ぐ邪竜へと飛び込み跳躍した。同時に握った拳にありったけの氣を凝縮させる。たちまち淡い光が集って膨れ上がった。その眩しさに七つの首が同時に吠える。
 メビウスは一番近い首へと渾身の一撃を叩き込むと、そこを足場に次の首を狙う。だが、相手は七カ所から同時に反撃の牙を剥いてきた。
「メビウスッ! 測距データ確認、誤差修正……ブチ抜けっ!」
「援護しますよ、メビウス。……くっ、これはいけませんね」
 宙をバク転バク宙で舞い踊るメビウスに、背後からの援護射撃が届いた。邪竜の首から首へと紙一重のヒットアンドウェイを続けるメビウスは、意外な声を銃声に遮られ砲声に奪われた。だが、確かに弩から放たれた鋼鉄の砲弾が鱗を抉る。
「メビウス、最後はわたしが。負けない、絶対……待ってて、リシュッ!」
 圧縮されて輝くエーテルで、ふわりとジェラヴリグの髪が見えない風圧に舞い上がる。彼女はそのまま手をかざすと、遥か遠く天空に輝く星座の力を励起させた。豪雷が轟き、手負いの邪竜へと直撃する。
 急襲の脅威を退けたメビウス達は、その背後にようやく周囲の風景とは違う通路を確保するのだった。

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