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 戦騒轟く世界樹の深淵で、人間達の抵抗は苛烈を極めていた。
 この一戦を逃せば、大事な者は二度と帰ってこない。のみならず、二つの都が望むただ一つの未来すら甘受できないのだ。それは、世界樹の迷宮で生きる証を立ててきた冒険者達にとっては、己の身を切られるよりも辛い。
 アーモロードの明日を賭けた戦いは続く。
「シンデン殿! 触手が奥に逃げますっ!」
 叫ぶ少年の声を聞いて、シンデンは目の前の巨獣へと白刃を突き立てる。そのまま根本まで刺し込んで息の根を止め、蹴たぐると同時に引きぬいて振り返った。そこには、迷宮の奥深くへと逃げてゆく触手の姿が僅かに見える。そして、行く手を遮るモンスターの軍勢が二重三重と折り重なっていた。
 既に消耗は激しく、シンデンはいつにも増して老いを感じる。戦に息が切れるなど、若い頃に武勇の猛将としてならした己には考えられないことだった。だが今、疲労に悲鳴を上げる肉体に汗が冷たい。そしてそれは恐らく、仲間達も同じ。
「これ、わっぱ! 単騎で突出するでない。ガイゼン、後ろはどうかの」
「あのグリペンとかいう魔獣使い、かなりの腕じゃわい。剣虎もよう働いておる、が……」
 応える友の声も、同時に我が身を包む癒しの術も心なしか弱々しい。百戦錬磨の古強者とはいえど、老骨にこの戦いは長引き過ぎた。しかしまだ、全ての触手を排除してはいない。
 この世界樹の底に巣食う禍神を討つため、玄室の扉をこじ開けるべく周囲にめぐらされた触手を切り倒す。最精鋭をより抜いて四方に散った冒険者達はしかし、各所で思わぬ苦戦を強いられていた。
「シンデン殿、僕が道をこじ開けます! この剣があれば……つくねさんっ、フォローをお願いします!」
「はいっ! ……お供します、どこまでも。リュクスさんを死なせはしません。絶対に!」
 リュクスは血に濡れた剣を一振りして、刀身の輝きを取り戻すや叫んだ。同時にその横にいたシノビが、二人、四人と増えてゆく。血気に逸る若さがシンデンには、純粋に羨ましくもあった。だが、ここであたら若人の命を散らすは年長者の愚と己を戒める。
 無数のつくねを引き連れ、リュクスが剣を立てて決闘の儀礼に構えた、その首根っこにシンデンは手を伸ばした。
「わっぱ、焦るでない。これより先は死地、お主にはまだ早いわい」
「しっ、しかしシンデン殿! あの触手を排さねば、メビウス殿が突入できません」
 じたばたと暴れる華奢な矮躯を、シンデンはしかし軽々と後ろへ放り投げた。ポイと捨てられたリュクスは、大勢のつくねに受け止められる。それでもと食い下がるリュクスを、ガイゼンがにこやかな笑顔で制止した。
「お主の剣筋は、多くの人間を背負う者独特の技ぞ。ここで死なすは、実に惜しい」
「ガイゼン殿も! 僕は死ぬ気はありません、ですが今ここで命を燃やさなければ――」
「やれやれ、流石にデフィール殿の一人息子だけあって頑固だわい。どれ」
 トン、とガイゼンがリュクスの額に指を立てる。それだけで暴れ喚いていた少年はくたりと力なく少女の胸の中に落ちていった。
「ガイゼン殿、なにを……」
「なに、お主の体内の氣を乱したのよ。動けまい? まあ、お主の力ではまだ動けぬじゃろうて」
 リュクスの手から、三竜の鱗を束ねて紡いだ真竜の剣が落ちた。その冴え冴えと煌めく刃を拾って、ガイゼンは目を細める。それはこの世の物とは思えぬ美しさで、ともすれば魅入られ発狂しそうなほどに妖しい光を放っている。この世のあらゆる物を断ち切る魔剣を、ガイゼンはリュクスの腰元より抜いた鞘へと収めた。
「この剣はワシ等の血と汗を記憶し、その想いを吸い込んだ」
「ガ、ガイゼン殿。シンデン殿も」
 シンデンもゆっくりと頷くと、ガイゼンと共に笑みを交わす。それはこの鉄火場で絶体絶命の危機に陥っているのに、とても穏やかで澄んだ微笑みだった。シンデンはガイゼンから真竜の剣を受け取ると、それをリュクスへと差し出す。
「左様、エトリアの聖騎士伝説と共に生まれたこの剣、これからもさらなる伝説を刻もうぞ」
 ガイゼンも腕組み頷いて言葉を続ける。
「さればわっぱ、お主がその先へとこの剣を継ぐのじゃ。ワシ等の想いも共に、の」
 リュクスは既に言葉を発することすらできなかったが、懸命に震える腕を伸べて剣を受け取る。彼はしっかりと鞘を握ると、その剣を抱き締めうつむいた。悔しさに唇を噛む、その気持ちはわからなくもない。だが、ここで命を賭けるは年寄りの努めだ。
 リュクスを背負いなおして一礼すると、つくねは分身を一つにまとめて本体に収束させ、影となって立ち去った。
「ふむ、見おったか友よ。常人ならば指一本動かせなんだがなあ」
「うむ、あれは気骨のある領主になろう」
「ではやはり、ここで尽きる命ではないのう」
「左様……しからば参ろうぞ。地獄へ向かってまっしぐら、黄泉路を今……駆け抜ける時ッ!」
 もろ肌脱いだシンデンの肉体から、鬼気迫る闘気が溢れ出た。その漲る余波が空気を震わせる。
 周囲の魔物達は、野生の本能で察した……目の前に今、人を超えた鬼がいると。


「征くか」
「おう。征こうぞ」
 瞬間、二人が疾風となる。一拍の間を置いて豪風に巻き込まれたモンスターは、さらに数瞬の後に細切れになって果てた。
 恐るべき手練の、守りを捨てた決死の特攻に魔物達は半狂乱となって襲い来る。
「カカカッ! 昔を思い出すのう、血が滾るわい! 覚えておるかシンデン」
「おうよ、呆けて惚けようとも忘れはせぬ。七○七高地! 宮家動乱! 厄海の海戦に終ノ浦、天城ヶ原!」
「ようもまあ、我ら二人共生き延びたものよな! 北方蛮族鎮定! 百竜紛争! 獅子戦争と薔薇戦争!」
「皆、さくりさくりと死んで逝きおったわ……じゃが、ワシ等はまだ死ねぬよなあ」
 シンデンは愛刀を振るう。その切れ味は血糊をまとって尚、振るい手の力量で恐るべき威力に荒れ狂った。触れた魔物を両断し、その余波を浴びた全てを切り裂いてゆく。その背を守るガイゼンもまた、棍を巧みに操りながら絶え間なく癒しの術を紡いでいた。
 否、既に癒せる程に二人の肉体に余力はない。
 限界を超えた力を無理矢理に術で引き出し、残る寿命を削って闘っているのだ。もはや痛みを感じることすらできぬままに、シンデンとガイゼンは無数の魔物を蹴散らしてゆく。その圧倒的な力に、魔物達の恐慌はいよいよ頂点に達した。
「見よシンデン、触手が逃げるわい」
「なんのまだまだよ……!?」
 その時、突出してきた南瓜の化物がシンデンの側面を襲った。切り返しに剣を留めて陳ねれば、その負荷に全身の筋肉が悲鳴をあげる。くまなく肉体を巡る血管という血管が破裂して、鮮血を吹き出しながらシンデンは剣を翻した。
 だが、間に合わない……すぐ側まで、奇声を叫ぶ魔物がケタケタと近づいている。
 咄嗟に棍を捨てたガイゼンが飛び出した。その身が膨れ上がって眠っていた筋肉を呼び覚ますと、内側から法衣が破れて風に舞う。そのままガイゼンは握った拳で南瓜頭を木っ端微塵に砕いた。同時に骨が砕けて腱の裂ける鈍い音が響く。
「友よ、ここは引き受けた。これより先、何人たりとも一歩も通さんわい」
「ガイゼン!」
「征けい、征ってあやつを切り倒せ。なに、明日の遊郭巡りはお主持ちじゃあ。ほれ、はよう」
「……応、応ッ!」
 惜別の瞬間だと悟った。互いの目を見ればすぐにわかった。共に女を侍らせ三味線を鳴らし、酒を飲んでは歌を読む明日……そんな夜などもうこないと。だが、シンデンはそれ以上なにも言わなかったし、ガイゼンはそれ以上なにも問わなかった。
 ただ瞳と瞳で頷きあった、その瞬間にはシンデンは再び走り出していた。
 背中で爆ぜて滅する魔物達の阿鼻叫喚を聞きながら。
「これより我は修羅に入るっ! ……ただ切り裂き、断ち貫くのみっ」
 加速するシンデンから溢れ出る血が、真っ赤な霧となって周囲を覆う。
 無数にむらがり殺到する魔物達は、その身体を切り刻まれたことにすら気付かず生きながら死んでいった。縮地の極みで点から点へと、シンデンの身体は赤い残像と死体の山を残して駆け抜ける。奥へ奥へ、その奥へ……既に流れる血で真っ赤な視界の中に、逃げる触手の姿が迫ってきた。
 これが最後と、吸い込んだ息を肺腑に留めてシンデンは地を蹴った。
「この距離……取った!」
 伸ばした手が触手の幹を鷲掴みにする。自らが絞り出した力で、爪が剥げて血を血で洗った。それでも構わず、必殺の距離でシンデンは剣を振り上げる。手の中に哀れな触手は怯え竦みながらも、最後の抵抗を示してきた。
 一撃必殺の剣を振り下ろそうとした直後、衝撃にシンデンは喀血する。
「ぬう、宿木か。邪魔をっ、するで、ないわあ!」
 シンデンの四肢を、地より生えた宿木が貫いていた。触手はその眷属たる邪な宿木を招いて、その鋭い枝葉でシンデンを絡め取りにかかる。腹の底まで侵食してくる宿木の芽に、激痛と共に再度血を吐くシンデン。
 だが、その時……漢の目に最後の光がゆらりと灯った。
「娘っ子一人救えずなにが鬼か。笑わせるで、ないわっ!」
 ブチブチと宿木を、自らの肉ごと引き剥がしてシンデンが身を引き絞る。
 一閃、光の筋が走って絶叫が迸った。触手は真っ二つに割れ、その瞬間に虚空へと霧散してゆく。まさしく達人の境地に達した剣は、シンデンの神業についていけず刀身が砕け散った。その剣の柄を握る力すら、もうシンデンには残されていない。
 その場に突っ伏したシンデンは、周囲に満ちる敵意と殺意を敏感に感じていた。
「ワシ等の勝ちぞ、バケモノ共。あとはメビウスが――」
「シンデン殿っ! 犬死無用っ、今お助けいたす!」
 不意に声がして、取り巻くモンスター達が強力な突進に宙へ舞った。予想外の助けに、シンデンは今しがた脳裏に浮かべた娘の姿を見出していた。それは自分の孫娘ほどの歳の、化粧っけもなく色気づいた素振りもみせない、だが凛として涼やかな強い眼差しで明日を見据えた、それは――
「リボンの、魔女……あとは上手くやれい。お主が、ワシ等の、最後の、希望じゃあ」
「気を確かに、シンデン殿っ! ガイゼン殿も無事ゆえ……くっ、血が止まらぬ! この宿木、まだ生きて」
 駆けつけたエミットが周囲を瞬く間に殲滅し、大の字で転がっていたシンデンを担ぎ上げる。その鋼鉄の鎧越しにも、シンデンは温もりを感じていた。それでエミットだと気付いたが、不思議とその面影にシンデンは自分のギルドマスターを見出していた。

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