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 世界樹の根が張る地の底、第六の迷宮の最下層。今や人類と魔物の最前線と化したこの場所で、ただ静寂をたたえて静まり返った部屋が一つだけあった。その中心でメビウスは、静かに黙って刻を待つ。
「シンデン殿、触手を撃破。エミットの救助も間に合ったようだ。これで残すは、あと二つ」
 抑揚に欠く声が低く響く。頭部を複雑なアンテナの集合体に変形させたテムジンが、先程から迷宮内の音を拾ってつぶさに状況を伝えてきていた。だからメビウスは何度も、今にも飛び出したい気持ちを抑えこんで殺すことになった。ラプターが石化した時も、老人達が決死の覚悟で挑んだ時も、そして今も。こうしているこの瞬間も、各パーティを援護して遊撃すべくエミットはあちこちを駆け回っているし、クフィールもミラージュもラファールも皆、自分のパーティを率いて戦っていた。
 だが、彼等彼女等の犠牲にも等しい血と汗が流れる間、メビウスは選りすぐられた仲間と共にひたすら待つ。
 禍神の聖座がある玄室へ通じる扉は、今も硬く閉ざされていた。
「メビウス、大丈夫だよ。安心して、みんなきっとうまくやる。わたしにはわかる」
「ジェラ……ごめんよ、ぼくはそんなに深刻な顔をしてたかい?」
 気遣う少女が隣でそっと手を握ってくる。その小さな掌は震えていた。ジェラヴリグだって本当は怖いのだ。それでも、その恐怖を隠すことなく、それよりメビウスのことを心配してくれる。
 メビウスはかろうじて作った笑顔で、気丈にも微笑む自分に言い聞かせた。
 仲間のためにも今、想いを形にする時……いかな神とはいえ、暴虐を許す訳にはいかない。
「メビウス殿、少し休まれてはいかがですか? 幸いまだ魔物の気配は遠く、この部屋は安心でしょう」
 先程から拳銃に弾丸を込めていたエルトリウスが、普段と変わらぬ静かな声音で声をかけてきた。その目はもう、恐らく光を微かにしか感じていないだろう。だが、永らくレンジャーとして世界樹を巡ってきたこの男には、耳と肌とが鋭敏な感覚で信用がおける。それに、彼だって辛いのだ。こうしている今、仲間達の元に駆けつけたいのはメビウスだけではない。
 だが、だからこそ今は耐えて忍ぶべきだとメビウスは自分に言い聞かせる。
「残る触手は二つ、ミラージュ殿が苦戦中。デフィール殿のパーティへはエミットが向かっている」
「ありがとう、テムジン。きみも少し休んで」
「了解だ、メビウス。……お前が責任を感じる必要はない。ただ己の使命を果たし、責務を全うすればいい」
「そうすることでみんなにも報いたいけどね。ま、ベストを尽くすよ」
 メビウスとのやり取りを終えて、テムジンが周囲の情報収集を終えた、その時だった。
 不意に目の前の巨大な扉が撓んで歪み、その中心から人影が浮かび上がった。
「クククッ、足掻いているな人間」
 五人の前に突如、リシュリーの身体をまとった禍神が現れた。豊かな起伏を強調する装束に身を固めたその姿は、酷く扇情的で蠱惑的ですらある。だが、美しく無邪気なリシュリーをそのまま大人にしたような顔立ちは今、恍惚にも似た醜悪な笑みに歪んでいた。
 居並ぶ誰もが武器を取る中、隣のジェラヴリグを庇ってメビウスは相克する。
「ぼく等の到着が待ちきれなかったかい? なんならここで決着をつけてくれてもいいけど」
「そう急くな、リボンの魔女。焦る必要はない……余興は最後まで楽しむものだ」
 にべもない言葉に思わずギリリとメビウスは拳を握る。こうして仲間のため、アーモロードのために戦う冒険者達を神は余興と切って捨てたのだ。その傲慢で不遜な物言いはまさしく神のありようかもしれない。だとすれば今、メビウスには神を許しておく道理がない。
 今にも飛び掛からんとする自分を律して制しながら、なんとか呼吸を落ち着けメビウスは禍神を睨んだ。
「それはそうと……迎えに来たぞ、我が愛しの花嫁」
「ジェラはわたさない!」
「お前とは話していない。さあ、我が妻となる者よ。その入り交じる対なる血を我に捧げよ」
 無防備に歩んでくる禍神は、言葉を発するたびにリシュリーの面影を汚してゆく。あの娘はきっと、大人になっても無邪気に笑うだろうに……下卑た法悦の表情で迫る姿は、その一挙手一投足がメビウスを苛んだ。そしてそれに一番傷ついているのは、背中で震えているジェラヴリグなのだ。
「冒険者達よ、貴様等の必死の奮闘は余興に過ぎぬ。花嫁と契る今宵の、新たな創造を祝う座興ぞ」
「お前がなにを思うかはどうでもいい……大事なのは、ぼく達がどう思うか。ぼく達は自分を信じて戦う!」
「クククッ、相変わらず小気味よいことぞ。だがリボンの魔女よ、そろそろ花嫁と話させてくれないか」
 瞬間、禍神の眼光にメビウスは吹き飛ばされた。そのまま部屋の隅に叩きつけられて、あっという間に呼吸が奪われる。無様にもそのままずるずると崩れ落ちる彼女に、エルトリウスやテムジン、テルミナトルがかけつける。
 一人のなったジェラヴリグがまっさきにメビウスに振り向いたが、その背を禍神が抱き締めた。
「芳しい香りだ、我が花嫁。早く交わり一つになりたい……お前の中に我の全てを注ぎたい」
「離して……貴方はリシュじゃないし、リシュはそんなこと絶対に望まない!」
「我は神、この混者の肉体はかりそめの姿に過ぎぬ。だが、受肉を経て我はこの次元に君臨する」
「……言ってもわからないなら、教えてあげる。リシュがどうして欲しいかくらい、知ってるもの」
 ジェラヴリグの髪に顔を埋めて、禍髪はその身体を両腕で包んで指を走らせる。ビクリと身を震わせつつも、その拘束から逃れようともがきながらジェラヴリグは星術を励起させた。たちまち二人を稲光が包んで雷閃が迸る。
 だが、禍神は微塵も動じた様子を見せず、逆に愉快そうに甲高い笑い声を響かせた。
「いいぞ、そうだ! 我の花嫁たる資格をもっと見せろ! その汚れた血の力、もっと使うのだ!」
「わたしの血は汚れてなんかいない……父さんも母さんも、ただ愛し合っただけだもの」
「ほう? では目覚めさせてやろう。お前の血がどれほど忌まわしくおぞましいか……さあ、覚醒するがいい!」
 仲間の助けを借りて立ち上がったメビウスは見た。禍神は腕を振りほどいたジェラヴリグの額へ指を立てる。トン、と触れた瞬間、その場に己を抱いてジェラヴリグは崩れ落ちた。ガクガクと震えるその身が、衣服を破って急激に成長を始める。その姿に思わず、メビウスは気付けば叫んでいた。
「ジェラになにをした……なにをしたっ!」
「ハッ! あるべき花嫁の姿に飾ったまで。さあ見るがいい……美しくも醜悪なこの娘の本性を」
 ジェラヴリグの身体は急激に成長して大人になっていった。ちょうど、目の前で己の肉体を抱き締めうっそりと天を仰ぐリシュリーのように。リシュリーの肉体に宿る禍神のように。そして、ジェラヴリグの肉体を海の眷属たる鱗と甲殻が覆ってゆく。


 苦しげに呻くジェラヴリグは、半人半魔の姿を引きずり出された。
 その姿は人ならざる異形なのに、ぞっとするほどに美しい。
「素晴らしい。それでこそ我が血濡れの花嫁。さあ、共に次代を生み出し世界を刷新しようぞ」
「くっ、待て! ジェラは渡さない!」
 仲間達と共に駆け出すメビウスをしかし、制止するべく伸ばされた手。
 意外にもジェラヴリグ自身が、震える身を起こしながら仲間達を止めた。
「……わたしが、行けばいいんだよね。お願い、他の人には手を出さないで」
 ジェラヴリグはメビウスへと肩越しに振り返る。その顔立ちは成人女性のそれだったが、瞳にはまだ彼女が皆に誇れる芯の強さが見て取れる。彼女は敗れた衣服の奥から顕になった躰で立ち上がると、首から下る鎖を握りしめた。それは、エルダードラゴンがくれた神竜の逆鱗。海都でも深都でも加工不能だったため、彼女自身がお守りとして身に着けている品だ。
 それを握るジェラヴリグの瞳は澄んで透き通り、強い光をたたえていた。
「いいわ、わたしを連れてって。……こんな姿、みんなに見せられないもの」
「そうだ、お前は我と対なる混者。ではゆこう、新たなる創造の褥に!」
 ジェラヴリグを抱きしめると、禍神は再び扉の奥へと消え去る。慌てて走るメビウス達を置き去りに。
「ハハハ! 悲願は成就し、我は子をなす! 人間よ、足掻け! 嘆け! 末期の刻に絶望を歌うがいい!」
「くっ、待てっ! ジェラ、早まるな……ぼくは、ぼく達はっ」
 メビウスの目の前で扉が再び閉まり、同時に周囲から殺気が殺到する。振り向けばそこには、通路を埋め尽くす魔物の大群が迫っていた。即座にテルミナトルが無言で剣を抜き、エルトリウスも二丁の拳銃を身構えた。
 放ってはおけずメビウスも拳を握る、その時だった。
「メビウス! この場は私達に任せろ。……お前だけがあの娘を救える。行け、私の屍を乗り越えて」
「テムジン。しかし扉が……待て、なにをしているっ!」
 テムジンは弩を捨てると同時に右手を高々と上げる。彼女から発する熱量が急激に増幅されて、そのシルエットを象る外部装甲が弾け飛んだ。頭部、腕部、そして脚部……全てを捨てた彼女の胸には、煌々と光る小さな太陽があった。それがアンドロの動力源であることは明白で、テムジンはそのまま振り下ろした手で自分の胸をえぐった。
「リミッター解除、炉心を臨界まで持ってゆく! 離れてろ、メビウス。いいか、あの娘を救え……頼むぞ」
「テムジンッ、早まるな! そんな……きみはどうするつもりだっ!」
「動力炉を暴走させる。周囲の魔物も大半は巻き込めるだろう。合理的と判断する」
 ブチブチとつながるケーブルの類を引き千切りながら、眩い光をテムジンは己の胸からひきずり出した。それを握る彼女の表情は、不思議と穏やかな笑みで彩られている。その目はもう、覚悟を悟っていた。
「おいポンコツ。メビウスや仲間を連れて下がれ。触手の討伐はもう待てん、事態は一刻を争う」
「……」
「なにを言う、特務として与えられた私の命はこのためにあったのだ。残りの魔物を頼むぞ」
「…………」
「バカを言うな、メビウスのゆく道を私が、私こそが切り開くのだ。……ん、おかしいな。お前の言葉が――」
 その瞬間、手を伸べメビウスは絶叫していた。だが、テルミナトルが抱き上げ通路の奥へと飛び込む。続くエルトリウスと入れ違いに、大量の魔物が我先にとテムジンに群がった。テムジンは超新星にも似た輝きを右手に握ったまま、扉の前でモンスターの群れに飲み込まれて消えていった。
「テムジン!」
 メビウスの絶叫が光を呼んだ。
 アンドロに搭載されていた動力炉、それも特務仕様のハイチューンが全てを巻き込み縮退した。それは小規模な局地的爆発で、真っ白に世界を染めながら有象無象の区別なく閃光へ巻き込んでゆく。
 わずか数秒の爆発は轟音と熱風で迷宮内を揺るがし、玄室への扉へと小さな穴をこじ開けた。
 すぐに再生を始めたその穴へと、テルミナトルが抱えるメビウスを押し込み背で蓋をする。
「まて、テルミナトル! エルトリウスも!」
「行ってください、メビウス。彼女の命に報いるためにも。ご安心を、ここは死守します。……命に代えても」
 穿たれた穴は、それ自体が生命のように伸縮しながら徐々に再生して閉じようとしていた。そこにメビウスを進ませ、半数ほど残った魔物にエルトリウスとテルミナトルが武器を向ける。その背がメビウスの退路を断つと共に、後顧の憂いをも断ち切っていた。
 メビウスは今、自分にできるベストがわかってて尚心苦しく悲しみに手足が動かない。
 それでも、絶叫と咆哮に包まれる部屋へ背を向け、禍神の待つ最後の部屋へとメビウスは走り出した。

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