その土地の名はアーモロード。海都とも呼ばれる潮騒の街だ。  アーモロードは百年前の大災厄により、過去の歴史を失った場所として知られる。他にも、かつて交易で栄えた港町ながらも、海図の全てを喪失してしまったとも。現在では滅びたとされる王家の末裔が、ロード元老院なる組織をもって治めている。  だが、それらの情報は全て、彼女の意中の外だ。 「あれがここの世界樹。……何だかあまりパッとしないな」  朱に濡れたような艶めく長髪を、彼女はリボンで三つ編みに結いながら船を降りる。受け取る手荷物は小さい。アーモロードを訪れる大半がそうであるように、無宿無頼の冒険者だった。その端正な顔つきは幼い少年のようでありながら、形ばかりは妙齢の女を縁取っている。  名は、メビウス。 「さて、とりあえずは冒険者ギルドかな? 連中が着くまで、体裁だけでも整えとかないとね」  メビウスはせわしい港の喧騒を背中に聞きながら、巨大な世界樹を見上げる。そうして一人、誰にとはなしに言葉を紡ぎながら巨木の根元を覆う街並みへ足を向けた。片手に小さな袋鞄を肩にかけ、もう片方の手で三つ編みをいらう。麻のシャツにくたびれたズボン。男とも女とも判別つかぬ姿で、厳つい水夫達と擦れ違う彼女は、人の往来の中に見知った顔を見かける。  それを見つけてしまったことを後悔するよりも早く、向こうもメビウスの存在に気がついた。 「おおっ! 何たる幸運、オイラのツキもまだまだ捨てたもんじゃないぜ!」  その声を裏切るように、メビウスは歩調を上げた。  追いかけてくる気配を置き去りにする。  無視していい、逃走の許される理由が脳裏に乱舞して、メビウスは新たな冒険の門出に奥歯を噛む。 「おーい、待てよ。お前さん、メビウスだろ。……ほら、オイラが歌にしたあの」  波が寄せて返す調べに、弦を爪弾く音が混じった。  振り返れば件の男は、リュートを抱えてその場に座り込むと歌い出していた。  何事かと誰もが足を止め、自然と男を人垣が囲む。メビウスは慌てて、その中へと踵を返す。  だが、遅かった。  第一声は高らかに、雲一つ無い青空へと吸い込まれていった。 「おおメビウス、リボンの魔女〜♪ お前だきゃオイラの手に余る、余る実りもないくせに〜♪」 「ばか、よせ! やめろって……その歌!」 「音に聞こえた北国の、勇名轟くリボンの魔女〜♪」 「だからよせって、コッペペ! ぼくがその歌、嫌ってるの知っててやってるだろ、このっ!」  街へと上がる大通りの坂、その中央に男は堂々とあぐらをかいていた。貧相な身なりで小汚く、無精髭がにやりと笑う。そんな風体とは不釣合いの見事なリュートが、ようやくメビウスの一言で歌うのをやめた。その持ち主と一緒に。  大勢の視線を一身に集めながら、メビウスは渋々男を立たせて目線を並べた。 「ヘヘッ、オイラの歌が嫌いな女なんているもんかね。よおメビウス、久しぶりだなあ」 「仰々しいのが好かないだけさ。昔は昔、これからはこれからってね。オーケー?」 「オーケーオーケー、とりあえずお前さんが御婦人かどうかが論点って訳だな」 「……どうしてそうなる。ったく。何年かぶりに嫌な奴に再会しちまったよ。折角の仕事始めに」 「そう言うなよ、リボンの魔女。オイラを嫌うなんざ、女やめますって言ってるようなもんだぜ?」  噛み合わぬ会話を楽しむように、コッペペと呼ばれた男はボサボサの金髪をかいた。  その邪気も悪意もない腑抜けた笑顔に、うんざりしつつも苦笑を零すメビウス。 「仕事始めってことはあれだろ? ……世界樹の迷宮。違うかい?」  コッペペの言葉に、メビウスは鼻を鳴らすと首肯を返した。  ――世界樹の迷宮。それが今、このアーモロードの主産業。世界で最も危険にして、最も魅力的な未知と神秘。数多の冒険者を吸い寄せ、この街に百年前の栄華を思い出させる迷宮だ。 「旅の噂に話を聞いてね」 「ほう! リボンの魔女殿はそれで、次はどんな冒険をお望みだい? どうか一つ、オイラの歌に――」 「悪いけど仲間なら他を当たってよ。ぼくもう、馴染みの連中に声かけてんだ」  そのうちこの街に来るだろうと、メビウスは今しがた自分を運んできた船を見る。  歌と楽器が静かになって、周囲の人間が散り始めるや、コッペペはその視界に入り込んで手を揉んだ。嫌に腰が低く、どこかへつらうような媚びた笑みが浮かぶ。 「まあそう言わずに。お互いアチコチ一緒に冒険した仲じゃねぇかよう。な? なっ!」 「きみ、仲間は? ってか、きみのギルドは?」 「いや、それがちょっと……今こう、先立つものが……ヘヘヘ」  コッペペは右手の人差し指と親指で円を作り、その向こう側からメビウスを覗き込んでくる。  メビウスはあまりに見慣れたその姿に呆れつつも、妙な懐かしさに頬を崩した。 「冒険者ギルドに行ったんだけどよぉ……その、登録に必要な手数料が払えなくてな」 「はぁ、名門ギルドも落ちたなあ。何? 幾ら足りないの?」 「こ、こんだけ……な? ちょっち借りるなら、どってことない額だろ?」  神妙な面持ちで真剣な表情を作ると、コッペペは右手に三本の指を立てた。 「三百エン?」 「おしい、三千エンだ。何せ無一文でよ! しかもこの国、詩人は受け付けてねぇときてる」  三千エン。この価値を安いと見るは古参のベテラン冒険者だが、メビウスは値段よりもその後の言葉に驚いた。  コッペペの職業は吟遊詩人、バードだ。  それがこの国では、働き口がないという。 「……まあ、随分遠くの南国まで来たからなあ」 「だろ? 見ろ、この常夏のアーモロードを。ここは今までの街とは違うぜ? で、だ……」 「断る」  再度、身を低くするコッペペの顔を押し返すメビウス。  仔細は言われるまでもなく知れたから、長々と説明を聞く気分にはなれないのだ。つまり、一攫千金を求めてアーモロードに来たものの、知己に手紙を出す資金すらなく食うにも困る有様で、さてどうしたものかと途方に暮れていたところ、思わぬ人物に再会したのが今のコッペペだ。  勿論、行き交う双方の評価と感情は、必ずもこの場合一致しない。 「大体さ、きみ。前から言おうと思ってたけど、ギルドマスターだろ? 仮にも、一応」 「あ、ああ、まあなあ。そーれがどういう訳か、一人だとなーんにもできないのよねえ」 「……駄目男。ああいやだ、ぼくにそれ以上近付くなよ。こら、離れろったら」 「なあメビウス。お前をギリギリ女と見込んで頼んでんだ。金、貸してくれ」 「いやだ。ビタ一文貸すもんか。そもそも、きみに貸して返って来たためしがあるかい?」 「そうつれないこと言うなよ。じゃ、あれだ。お前んとこで……ソラノカケラで雇ってくれ」 「お断りだ。……トライマーチはどうすんのさ。折角あれだけの名声を……人のこと言えないけど」  ソラノカケラ、トライマーチ……かつて世界のどこかで誰かが称えた。  栄えある勇者、世界樹の神秘を垣間見た者達だと。  勿論メビウスは、自分のギルドであるソラノカケラを、このアーモロードでも旗揚げするつもりだ。当然コッペペも気持ちは同じなのだろうが、眼前の体たらくには言葉を失う。  鼻から溜息を零して、メビウスはどうしたものかと三つ編みをいらう。  その髪をさらう潮風に乗って、明朗でハキハキとした声が耳に飛び込んできた。 「あの、もしや冒険者さまはお金でお困りですか?」  あどけない少女の声だった。  コッペペと一緒に振り返れば、街から一人の女の子が近付いてくる。その坂を下ってくる歩調は優雅で、年相応の姿を煌びやかに着衣が飾っていた。無言で身分を語る、装飾品に溢れたたたずまい。金髪碧眼の少女は、十代半ばよりも少し幼く見えた。だが、纏う雰囲気はどこか高貴な血筋を感じさせる。  その少女が再び、両者を交互に見てから嬉しそうに、 「あの、特におじさま。お金にお困りではないのでしょうか」  瞬く大きな双眸には、星海から零れ落ちたかのごとき星屑が散りばめられていた。  呆気に取られながらも、コッペペがコクンと頷く。無類の女好き、寧ろ女狂いとまで言うコッペペが毒気を抜かれている。メビウスはアーモロードに着いてそうそうの出来事に、僅かに心を躍らせた。 「お嬢さん、一人かな? 見たとこ冒険者じゃなさそうだけども」 「そうなのですか? わたくしはでも、その冒険者というのになりたいのです!」  少女はリシュリーと名乗った。遠く海の向こう、巨大な王国の王家を示す名と共に。  キラキラと瞳を輝かせるリシュリーに、気付けばメビウスは若かりし頃……まだ幼かったとさえ言える自分の昔を思い出し、その姿を重ねて目を細めていた。  冒険者を迎えるアーモロードの海の玄関口、インバーの港は今日も穏やかに凪いでいた。