アガタが独断先行した。それはメビウスにとって個人的に、悪い知らせだった。  さらに悪いことに、そのことを教えてくれたのはカナエの置き書きだった。 「隊長、こいつぁヤベェ! ヤバイにおいがプンプンします!」  今の世界樹の迷宮で、先駆け抜け駆けするとなれば目的は一つしかない。即ち、第一階層『垂水ノ樹海』の最深部に潜む、魔魚ナルメルの討伐。それはしかし、少年少女二人きりのギルドには荷がかちすぎた。勿論、メビウス達ソラノカケラにとってもどうかは、現時点では怪しい。  全速力で地下四階を駆けるメビウス達は、途中で何度も引き返す他のギルドと擦れ違う。 「かなりの激戦になってるみたいだ。重傷者も多い。これは……死人が出るな」  先頭を走るグリフィスの、いやに落ち着いて平静な声が物騒さを帯びる。また一人、手傷を負った冒険者を背後に見送りながら、メビウスは無言で仲間の観察眼を認めざるを得なかった。そして更に間が悪いことに、 「酷い有様だ……行く先々、血だらけじゃないか」 「ナルメルってのはまた、随分と強敵みたいだな」  メビウスの後を、タリズマンに続いて走るのは双子の星詠みだ。同時に喋られると、どちらが兄で妹かも、どちらが姉で弟かも区別がつかない。普段はどちらかがアーモロードに残り、帳簿の整理やアイテムのストック補充、その他もろもろの雑務を担当している。  その二人が同じ顔を並べているのには訳があった。  こんな時に限って、メビウスの竹馬の友スカイアイはロード元老院に出向いて不在なのだ。確か、今までの冒険で遭遇したモンスターや、収集できた素材の報告をするとか言ったきり。それっきり今朝から姿が見えないと思えば、この騒ぎである。 「メビウス、あの扉だ! ぼくが突出して先制する。この先は、用心に用心を重ねたほうがいい」  珍しく声を荒げた、その瞬間からグリフィスの言葉が鋭利な光を懐く。そのまま彼は一人抜きん出ると、今しがた流血の一団が転がり出てきた扉の奥へと消えた。頭巾の裾が疾風に翻る。 「クソッ、周りの雑魚が鬱陶しくて近付けねぇ!」 「その周りも、だ。ありゃ、雑魚ってレベルの魔物じゃない」 「最前衛の連中、何てギルドだったか? あの防衛線は決壊する……連中、飛び出してくるぞ!」  アリアドネの糸を握る手も弱々しく、怪我人達は口々に血を吐くように呟く。  募る焦燥感が爆発して、メビウスは仲間達と共に惨劇の場へと転がり込んだ。 「――っ! 何だ、ここは……これは、この惨状は……っ!」  立ち込める血臭に、思わずメビウスの表情が険しくなる。  先ず目に飛び込んできたのは、大きな広間一面に広がる巨大な沼地。来る途中にも点在していたぬかるみが、ここではフロア全てを覆っている。その深さはようとして知れず、うかつに動くわけにもいかない。  まさしく泥沼の戦場には、出口を求めて逃げ惑う同業者達と、その姿をあざ笑うかのように襲い来るモンスター。鋭い棘を持つ奇怪な甲殻生物が、足元の不自由も感じさせずに跳梁跋扈していた。 「隊長ぉ、危ねぇ!」 「油断禁物。メビウス、呆けている場合じゃないよ」  咄嗟に背後から飛び出たタリズマンが、抜刀と同時に繰り出された一撃をいなした。それは呆然と忘我に立ち尽したメビウスを襲い、阻まれ、僅かに後ずさる。その間隙を縫って、先行していたグリフィスが必殺の刃でするりと斬り伏せた。 「グリフィス、アガタとカナエを探して! 他はぼくと皆の援護だ。一人でも多く逃がす!」  巨大な昆虫生物が骸と散るのを見て、我に返ったメビウスが冷静さを取り戻す。彼女が発する声よりも先に、グリフィスはしかし顎を軽くしゃくると先を示した。  誰もが必死に逃げてくる、その人垣の向こう側にしんがりの一団が奮戦していた。  その最中にメビウスは、アガタとカナエの姿を、何より見知った顔馴染みを見つける。 「おいオッサン! オイラを降ろせ! オイラも戦う、戦って……この先に進むんだ!」 「アガタ、駄目だったら。無茶はしないで、お願い――」 「いよう、ソラノカケラの! おでましだな、一緒にヤるかい?」  アガタは無事だった。カナエもだ。その両者を小脇に抱えて、あっちにこっちに逃げ惑っているのは、誰であろうコッペペ……またもコッペペだった。  魔物の巣窟で唯一善戦していたのは、トライマーチの面々だ。 「あら、メビウス様! ごきげんよう。おばねーさま、メビウス様達が来てくださいましたわ」 「相変わらず呑気なお姫様だなあ。大変そうじゃない? 手伝うっ!」  笑顔を咲かせてメビウス達を迎えたのは、一人普段と変わらぬリシュリーだった。彼女は剣を手に、ペケポンと手近な魔物を叩きながら、彼女なりに懸命に戦っているらしい。そんなお姫様が守る背中は、一人で広がる汚泥へと仁王立ちで槍を構える。  そこが冒険者達の最後尾で、決戦の最前線。迷わずメビウスは全速力で躍り出る。阿吽の呼吸を拾ってパーティの仲間達も臨戦態勢だ。頼もしさに背を押されて、メビウスは呼吸を肺腑に留めて地を踏みしめる。挨拶代わりのヒール、癒しの術に甲冑の麗人は肩越しに振り向いた。 「貴公は……すまぬ、恩にきる。――そこの、下がれ! 退路はこっちだ、走れ!」 「どういたしまして。脇を抑えてここを確保する。誰も死なせはしないっ」  盾と鎧の重装甲に身を包んだエミットの、その横に陣取りメビウスも拳を握る。  だが、決意を叫んだそばから、二人が誘導する一団が空間から切り取られた。  巨大な何かが瞬時に水面より躍り出て、エミットの奮戦を、メビウスの願いを飲み込む。僅か一瞬で、沼地を逃げ惑っていた眼前の冒険者達が消えた。魔魚ナルメルの巨躯が、大きな影を落として再び消える。 「チィ! 持っていかれたかっ! ……これ以上は、やらせはしない」 「同感っ! ぼく等でここを食い止める。グリフィス、タリズマン! ネモもエイビスも!」  メビウスの声に返事は返ってこなかった。  ちらりと垣間見た背後もまた、魔物の群と大混戦。とりあえず仲間達が無事なこと、アガタとカナエはコッペペが保護してること。それと、トライマーチのモンクの少女が、戦闘不能でファーマーの少年に担がれているのだけが見えた。  一瞬、全滅という言葉が脳裏を過ぎる。  その不吉な結末を払拭する声は、まだメビウスの隣で戦っていた。 「気をつけろ、揺れるぞ。私達は最初のこれで、まなびを……ヒーラーをやられた」 「なるほど。石橋を叩いて渡るトライマーチでも、まさか戦闘不能者がでるとはね」 「……そういうギルドなのか? あの男が? にわかには信じ難いな」 「ああ、そっか。今は前からのメンバーって、コッペペだけか。それじゃ、話は別だ、ねっ!」  トライマーチは昔から、質実剛健、地道で堅実な冒険をよしとする。それは全て、いいかげんで自堕落、ぐうたらなギルドマスターを支えてきた者達の手練だった。今は、それがないらしい。  強力な地震がメビウス達を襲い、メビウスはエミットに、エミットはメビウスに背を預けて踏ん張りながら、泡立つ水面に目を凝らした。ナルメルは今、にらぐ足元を通過し、二人の死角を狙って浮上せんとしていた。  が、熟練冒険者の直感が敏感に敵意を察知する。 「! ――そこだっ!」  鎧の重さを微塵も感じさせず、身を捩るやエミットが軽々と槍を投擲した。  それはメビウスが、同じポイントへと飛翔したのと同時。  ズン、と槍が水面下で何かに突き立ち、数瞬の間を置いてメビウスの飛び蹴りが直撃した。メビウスは正確に、エミットの放った槍を蹴りで押し込み、泥に隠れるナルメルを射抜く。  絶叫と共に巨大な魔魚はメビウスを乗せたまま、宙を高々と舞った。 「メビウス様っ! ガツンと一発、トドメをお見舞いですわっ!」 「打ち抜けっ、奴よりも速くっ!」  高い天井のソラをメビウスが、ナルメルの巨体が滞空。リシュリーの号令も、エミットの激励も耳から遠ざかる。メビウスは今、中空の見えない大地を踏みしめながら、気迫の拳を振りかぶった。それは長い髭をなびかせるナルメルが、再び自身の領域へ……重力の底へと逃げ込まんとするのと同時だった。  刹那の空中戦を制したのは、リボンの魔女。 「せーのっ、でえい!」  小さな小さな鉄拳が、大きな大きな魔魚の眉間を貫く。――撃墜!  両手を広げたエミットの胸に飛び落ちたメビウスは、断末魔を叫ぶナルメルが沈むのを見た。  巨大な魔魚が落下し、第一階層最後の大広間に泥の雨が降り注いだ。メビウスはエミットに抱きとめられながら、その灰色の雨の向こうに新たな扉を見出し、その先に新たな階層への階段を感じていた。