世界樹の迷宮はいつでも、踏み込む冒険者達に神秘を見せ付ける。  今、メビウスは仲間達と共に言葉を忘れ、新たな探索の場所に感嘆の溜息を零していた。歩む足が自然と止まり、誰もが天を仰ぐ。第二階層『海嶺ノ水林』……宙空に深海を懐く、海底にも似た珊瑚礁の回廊。 「……息、できるなあ」  圧倒的な光景に奪われた声を、最初に取り戻してメビウスは呟く。  海水は今、場所によっては渦巻き潮の流れとなりながら、複雑に入り組んだ迷宮を世界樹の底へと現出させていた。メビウスの一言に傍らのタリズマンが、慌てて大げさに驚いてみせる。 「おっ、言われてみれば! 隊長っ、俺等海の底で息してます!」 「うん、まあそうだね。やれやれ、世界樹ってやつはいつもこうだ」  世界樹の迷宮、それは謎と不思議が詰め込まれた宝箱。探究心あふるる冒険者達をいざない呼び込んで、時に還らぬ者としてしまう。それでも尚、足を踏み入れる者は後を絶たない。  改めてメビウスは第二階層の安全を確認し、ちょっと見慣れそうもない風景に踏み出した。  あたりをきょろきょろと物珍しく、しかし警戒色濃く仲間達も後に続く。 「とりあえずこの辺は安心そうだけど。みんな、あまり離れないで。この先、何があるか――」 「と、言ってるそばから約一名。メビウス、タリズマンがあそこの角を曲がって行ったよ」 「……見てたなら止めてくれたらよかったのに、スカイアイ」 「いやまあ、グリフィスがついてったから大丈夫だろうと思って。なあ、グリペン?」  寡黙なビーストキングは、最後列で首肯を返してくれた。その頷きに呼応するように、傍らに控えた剣虎が低く唸る。敵意に敏感な、よく訓練された獣が大人しい……周囲に危険がない何よりの証拠だ。  が、ここより先は未知の領域でもある。  メビウスとしては是非とも、石橋を叩いて渡る気持ちで挑みたかった。  それでも逸る気が胸の中で焦れて、好奇心がワクワクと止まらない。気持ちが急いて心が躍る。 「何だコリャ!? たっ、隊長ぉ! えーと、あれだ、うーん、兎に角! 何かありますっ!」  自制を言い聞かせてる側から、メビウスは無邪気なタリズマンの声に苦笑する。  丁度その方向へと足を向けていた一同は、油断なく構えるグリフィスが戻ってくるのを見る。  今日は星詠みの双子はそろってオヤスミ……海都での買出しや書類の整理等、雑務をやって貰っている。メビウスが初めて挑む階層へ選んだのは、お馴染みのタリズマン、スカイアイ、グリフィス。加えて新顔のグリペンが同行していた。 「メビウス、あっちに行ってみてくれないかい。ぼくも見たけど、懐かしいものがある」 「懐かしいもの? 危険は?」 「ない、と思う。今のところは。……個人的には興味があるのだけど」 「ふむ、どれどれ」  合流したグリフィスの言葉が、メビウスの中の少年を刺激する。  一同が角を折れて、立ち尽くすタリズマンの背中に追いついたその時。奇異な光景の中でことさら異彩を放つ、光の柱が視界に現れた。紫光がほのかに輝きながら、静かに宙へ舞い、海の上へと吸い込まれている。 「あ、隊長。これこれ、これです! ……なんなんでしょう。似たような奴なら昔」 「タリズマン、あまり一人で歩き回らないこと。危ないんだから。さて、これはもしや――」  細い顎に手を当て考え込みつつ、メビウスの興味は対象へと無限に吸い込まれる。  だから、彼女が気付かなくてもしかたがない。否、ソラノカケラの誰もが気付かなくてもしかたがなかった。その声が突然現れたのは、グリペンの連れる剣虎が一声鳴いた瞬間だった。 「その光の柱は『樹海磁軸』と言う……お前達冒険者の、この海底での道標だ」  不意の一言は酷く平坦で抑揚に欠き、鋭い冷たさが宿っていた。  慌てて一同が振り向けば、金髪の青年が気配も放たず背後に立っていた。 「クジュラ、さん? ああそうそう、これ。これも樹海磁軸かあ」  あまりに唐突だったので、メビウスは驚くのも忘れてしまった。  樹海磁軸の記憶を掘り起こしていたのもある。生粋の冒険者であるメビウスの悪い癖だ。物珍しさや刺激には目がなく、子供のように我を忘れてしまう時がある。だからだろうか、彼女は先例のタリズマンを強く責める気にもなれず、ただただ光の柱を懐かしんでいるところだった。 「この世界樹にもあるんだ、磁軸。ということは、ここから海都に戻れる訳だ」 「うむ、逆もまたしかり。詳しいな、ソラノカケラの。ただの冒険者ではないと見たが」  メビウスが追憶の糸を手繰り終えるまで、クジュラは探るような視線を投じてくる。  仰々しいのは好かないメビウスは、あえてその冷たい眼差しを流した。 「ま、昔も別の世界樹でちょっとね。さてじゃあ」 「第二階層探索の基点はここになるね、メビウス。地図に描いておいたほうがいい」  グリフィスの声にスカイアイが同意し、二人に挟まれたメビウスは地図を取り出す。  その間もクジュラは、興味深げに腕組み佇んでメビウスを見ていた。だが、彼は呼ばれる声を聞くなり僅かに首を巡らせた。背負った太刀の向こう側に、無骨な打ち刀を手に着流しの老人が現れる。 「クジュラ殿、元老院でフローディア様がお呼びじゃ。ワシ達にもミッションが貰えるとか」 「ふむ、それはわざわざ足労をかけたな、シンデン。すぐ戻ろう」 「ヨタカやミラージュは一足先に。ワシもクジュラ殿と共に参ろうぞ」  メビウスは一瞬、またも気配なく現れた男と目が合った。見事に口髭を蓄えた、穏やかな長髪の好々爺だ。どこか昔の、北方を冒険していた頃の昔を思い出す。東方より伝来した片刃の剣を使いこなす、ブシドーを極めた者達。その面影がクジュラにもそうだが、シンデンと呼ばれた男にもある。  メビウスの視線に気付いたのか、シンデンは目礼を返してくれた。  同時にきびすを返したクジュラは、せわしくツカツカと歩き出す。 「客将のお前達に手数をかけるな。だが頼らせて貰う。それと、ソラノカケラの。確か、メビウス」  一度だけ足を止めたクジュラは、肩越しに僅かに横顔を覗かせた。 「心して挑め。この第二階層、上層のように甘くはない。命惜しくば己を律することだ」 「うん。忠告に感謝を、クジュラ。そっちも忙しいようだけど、何かあったら是非うちのギルドへ」  さりげないメビウスの売り込みに、クジュラが唇を引きつらせた。どうやらメビウスの小気味よさに、不器用に笑ったらしい。そうして元老院の剣士はシンデンに連れられ、去っていった。 「あのアンチャン、相変わらずおっかねえなあ。気配殺して後に立つなっての」 「誰か、クジュラに気付いた者は? ……グリペンのネコちゃん以外で」  褒めるように毛並みを撫でるグリペンは勿論、タリズマンもスカイアイも気付かなかった。手練のグリフィスですら。底知れぬ元老院の剣士に、一同が戦慄を感じたその時。  不意に目の前の樹海磁軸が眩く輝きだした。  膨張する光が飽和に弾けて、一人の矮躯を現出させる。 「まったく、アガタったらまた! おいかけるアタシの身にもなって……あら? メビウスさん」  地表より迷宮に舞い降りたのは、見覚えのある少女。ムロツミなるギルドに所属する星詠み、カナエだった。彼女はプンスカと湯気をあげて怒りも露だったが、呆気に取られるメビウス達を見て表情を変える。  当然だが、メビウスは頼られる視線にはことさら弱い。 「あっ、あのっ! この間助けて貰ったばかりでなんなんですけど。で、できれば、その」 「いいよ、カナエ。難しいことは言いっこなし。また相棒が無茶を?」 「ありがとうございますっ! そうなんです、アガタったらまた一人で。いつもこう」  言われる前からメビウスは、快くカナエの助力を請う声に即答する。  必定、こんな彼女が先頭を率いていても、誰もが納得してついてくるのがソラノカケラだ。それを示すように、新参のグリペンが率先して剣虎を動かし、迷宮の先へと槍を向ける。 「どれ、それじゃまたヤンチャボウズを追いかけようか。みんな、いい? よね?」 「やれやれ、またメビウスのお人好しが出たよ。愚問だね、悪いわけがないさ」 「隊長、アガタ君一人に先を越されるってのも、面白い話じゃないですしね!」  自然と目配せでメビウスは、頼れるグリフィスにカナエを守るよう促す。阿吽の呼吸で熟練のシノビは、保護対象に悟られることなくベストな位置取りで歩を進めた。メビウスはそれを確認して、全員の先頭に立つ。 「さぁて、それじゃあ行ってみようか。鬼が出るか邪が出るか。藪を突いて蛇を出すか」 「隊長、それダジャレですか? 邪と蛇……ジャジャーンと」 「ばか」  こうしてソラノカケラの迷宮探索は新たなステージへと突入した。  深海の奥底にて、静寂の海淵はただただ静かに広がり冒険者を誘う。もっと奥へ、もっと奥へと。その声なき声に応えるように、足取りも確かにメビウス達は歩き出した。