元老院の最奥に位置する、高い天井の執務室。豪奢な机は数多の書類で飾られながら、うずたかく書物と巻物を積み上げている。メビウスは一目でこの部屋の主、フローディアの多忙を悟った。 「それで? 坊や達。やっぱりまた出会ったんだねえ……オランピアに」  応接用のソファで相対するフローディアは、突いた杖の上で手を組むと静かに一人頷いた。  その言葉には、メビウスやコッペペがこうしてこの場所に訪れることを知っていたかのよう。 「兎に角、詳細は今報告した通りです。……教えてください。彼女は、オランピアは――」 「殊勝な心がけだねぇ、坊や。でも遠慮は無用さね。普通に喋りなよ、何の気兼ねもいりゃしない」  フローディアはしわだらけの顔をくしゃくしゃにして、細い目をさらに細めた。  何やらまんじりともせず俯くコッペペの隣で、小僧の次は坊や呼ばわりにメビウスがはなじろぐ。しかしそれも数瞬のことで、彼女は目の前の老婦人が作る空気の流れに乗った。雰囲気は一変して、話が転がりだす。 「ぼく達は罠にはめられ、危うく殺されかけた。あのオランピアって娘に。……何故?」 「さてねぇ……ただ、これだけは言える。坊や、あんたの敵はあたしの敵ってことさね」  大きな指輪の並ぶ手を組み替え、キッパリとフローディアは言い放った。元老院を統べる長ながら、必要とあらば冒険者と同じ目線で物を語り、心までも並べてしまう。率直に言ってメビウスは、この手の人間が嫌いじゃない。心酔ではなく共感が自然と両者の間を満たした。 「オランピアについては、腕のいいギルドに調べさせようと思っていたのさ」 「なら、ぼく達が……ソラノカケラが」  ぐいと大きくメビウスが身を乗り出せば、出された茶を満たす白磁のティーカップが揺れた。 「オランピアはアガタに重傷を。そして多くの冒険者を。なんだろ、上手く言えないけど」 「優しいんだねえ、坊や。それに、甘い。……敵討ちなんて考えてるんじゃないだろうね」 「そういんじゃなくて、ただ、こう。ぼくは、真実が知りたい。先人達に報いる為にも」 「……まだ、まっすぐそんなことを言える冒険者がいたんだねえ。この海都にも」  半分呆れたような、しかしもう半分は嬉しそうにフローディアが嘆息する。彼女は黙って冷めかけた茶を一口すすると、突いた杖でコンコンと床を鳴らした。  メビウスは、次いでコッペペがドアの開く音に背後を振り返る。 「クジュラ、話しておやり。一つ、全賭けといこうじゃないか。勝負時だねえ」  現れたのは何度も顔を合わせた、元老院の若き将。それが今、何人かの仲間を連れ添い執務室に現れた。  メビウスはクジュラの背後に、以前一度だけ目礼を交わした老将を見る。その横には左右の腰に二刀を佩いた青年が黙って腕組み佇んでいた。寄り添うように端麗な無表情を凍らせているのはシノビだろうか? その女性はしかし、メビウスが気を張ってみても気配が全く読めない。まるで剣客の青年の影だ。 「無事あの海から帰ったか、ソラノカケラ。それに、トライマーチ」 「クジュラ……教えて欲しい、オランピアとは? それと……彼女が口にした、深都とは?」  ちらりと横目でメビウスは、フローディアの表情を盗み見る。  深都――この一言に老婆は、僅かに瞳を見開き興味を示した。 「深都とは、この世界樹の迷宮に潜む伝説。かつて栄華を極めたアーモロードの、その残滓」  クジュラは自分が連れる異国の手練達にも聞かせるように、ゆっくりと語りだした。  百年の昔、繁栄を極めたアーモロード。気高き王族の統治による平和はしかし、ある日突然奪われる。謎の天災と共に、アーモロードの中枢は世界樹と一緒に海の底へと消えたのだ。今、海都の中心にそびえるは、世界樹が残したいわば抜け殻……そして本当の世界樹が沈む場所こそ、失われた都――深都。  さして気に留めた様子も見せないコッペペとは正反対に、メビウスが質問を挟み込もうとしたが、 「そしてオランピア……この名が迷宮内を跳梁し始めたのは、災厄より僅か数年後」 「なっ――待てクジュラ。彼女はまだ少女だった。さっき、百年の昔って」 「そう、百年もの間アーモロードの冒険者達を脅かしてきたのだ。オランピアは」  恐ろしくさえざえと澄んだ瞳で、クジュラは淡々と語る。その驚愕の真実に、思わずメビウスは絶句した。同時に、嘗て北方の世界樹を登り詰めた末の、彼女を今も苛む悲劇が思い出される。  誰もがまるで、先の見えない闇の淵に呼ばれるように魅せられるのだ。  誰しも必ず、這い寄る甘い混沌にすがるように絡み取られるのだ。  それは――永遠の生命、不老不死。 「くっ……まさか。でも……」 「真偽の程は解らん。解っていることは一つ。この百年、オランピアを元老院は追っていた」  近年その任を拝命したクジュラは、事態を重く見て東方より同門の古き流派を頼ったという。  それが今、彼の背後に控える者達だ。 「時は来た。今こそオランピアを迷宮より引きずり出す……協力して貰えるな、両ギルドとも」  嫌とは言わせぬ態度を暗に秘めつつ、クジュラの目は静かに燃えていた。そこには確かに、メビウスと同じ想いが炎をくゆらせている。  彼もまた、多くの同胞を飲み込まれたのだと知れた。 「勿論ぼくに異存はないさ。ぼく等も、ソラノカケラも一口勝負に乗らせてもらう」  パシン、と軽くメビウスは拳で掌を叩く。  恐らくこの場に居れば、ギルドの誰もが同意しただろう。竹馬の友スカイアイは勿論、タリズマンにグリフィス、双子のネモとエイビス。新顔のグリペンだって嫌とは言わないはずだ。連れる獣達も同じだろう。そんな確信めいた気持ちが満ちて、自然とメビウスは熱くなる。  だが、そんな彼女の隣で、いやに冷め切った声がポツリと零れた。 「レディ……このアンチャン使って引きずり出して、そいでどうすんだよ」  コッペペだ。  今の今までメビウスの横で、ただぼんやりと座っていたコッペペがボリボリ頭をかいた。その声は鈍く煙っているのに、奇妙な強さがあってフローディアを刮目させる。 「さてね……泣いて詫びてもあたしゃ許さないよ。何故なら――」  オランピアの姦計に命を失った多くの冒険者達。その百年近い流血の歴史の片方で、冒険者達を送り出してきたのは……他ならぬフローディア本人。いわば元老院そのものが、数え切れぬ犠牲を承知で世界樹の迷宮を開いていたのだから。 「あたしゃ、オランピアは深都の差し金と睨んでるんだがね」  何故か深都は、その門を固く閉ざしたがっている。かつて一繋ぎだった海都との交わりを、断固として拒絶しているのだ。それが解せぬのか、珍しく冷静沈着で飄々としたフローディアの表情に感情が滲む。  メビウスは百年の月日に流れた血と汗と涙、そしてそれらが結晶化して堆積したフローディアの悲哀を読み取った。その奥に何か、もう一つ大きな想いが隠されているのさえ察する。 「オイラ達は無宿無頼の冒険者、命知らずの根無し草……誇れるは己の矜持だけだ」 「知ってるさね、坊や。そんな連中の夢と浪漫を、あたしゃ地獄に放り込んできた」 「レディはそうかもしれねぇ……だからよ、オイラぁ解る。レディ、あなたは正しい」  不意にコッペペの声音が丸みを帯びて、優しく温かくなった。そしてメビウスは、クジュラが「おい!」と咎めるのも聞かずに、彼がフローディアの手に手を重ねて微笑むのを見た。  それはあきらかに、好意を持って敬愛すべき女性へ、婦人へ対しての眼差しだった。 「レディ、オイラ達も協力するぜ。協力はするが、少しばかりオイラ気になってんだよ」 「ホッホッホ、このおいぼれを掴まえてなんて目をするんだい。坊や、いい男だねえ」  だが、と一言。その一言でフローディアは女の顔を仮面で覆った。そうしてクジュラに目線を移せば、 「オランピは俺が、俺達が斬る。世界樹の迷宮に散っていった多くの無念、必ず晴らす」  決然たるクジュラの断言に、やはり力なくコッペペは溜息をついた。 「あの娘は、オランピアはオイラを殺さなかった。できたのに、そうしなかったんだぜ……」  その一言にはピンとこないが、不思議と軋る平らな胸をメビウスは押さえつけた。  この日、二つのギルドが元老院との協調路線を取り、新たなミッションへと挑むこととなった。