背後で扉の閉まる音と共に、退路が絶たれる。  耳でそれを見止めて、振り向かず真っ直ぐメビウスは視線を射る。高い天井の大広間、その中央にぽつねんとリシュリーの背中が小さい。その頭上に、恐るべき巨大な勇魚が宙をたゆたっていた。  メビウスの視界を、そのほぼ全てを占有するそれは大いなる威厳、圧倒的な存在感。 「無事か、リシュリー! エミット、リシュリーだ。あそこにいる!」  荘厳なる静謐な空気の中を、リシュリーめざして一団が走る。その先頭で小さな肩に手を伸べたメビウスは、首だけで振り返る少女の凍りついた表情を見た。一瞬で恐惶が全身に行き渡る。  だが、次の瞬間にはリシュリーは、いつもの笑顔を明るく咲かせた。 「あら、メビウスさま。おばねーさまも。みなさまも……まあまあ」 「リシュリー、無事だった、の……かい? ええと、あの……無事、なんだよね」  ほわほわと笑うリシュリーは普段通りだが、どこか様子がおかしい。それを察してか、メビウスの隣ではエミットが身構えていた。そしてお互いのギルドのツレ、二人のパイレーツも息を飲む。  リシュリーはニコニコしていたが、頭から白煙を昇らせ思考をオーバーヒートさせていた。 「このクジラさんが、わたくしを呼びましたの。そして難しいおはなしを……わたくしなんだか」 「……解った、解ったからリシュリー。もう何も考えないで。大丈夫だから」  リシュリーは王宮の狭い世界で花よ蝶よと育ったせいか、時々こういう姿を見せることがある。エミットからも内密にメビウスは聞いていたが、実際の生活でも何度か目にしたことがあった。すなわち、リシュリーは彼女の許容できる知性の器があふれると、頭がパンクしてしまうのだ。そしてその器は常人のそれより、繊細で精緻で無駄に華美、加えていうならつつましく……ようするに小さかった。  だが、思考停止に陥っただけのリシュリーに皆が安堵の溜息を零す。 「今、そこの王子にして姫なる娘にも語ったが。今一度謳おうや否や? 小さき者達よ」  不意に一同を、深く響く声が包んだ。  メビウスは思わず、自分達を睥睨して佇む中空の白鯨を見上げる。世界樹探索の傍ら、最近は元老院より与えられた船で小さな航海をすることも少なくなかったが……こんなにも立派な鯨を見るのはメビウスは初めてだ。そして、無数の貝殻を付着させて連れる白い巨躯は今、高い天井を泳いでいるのだ。 「ついに来てしまったか、小さき者達よ。改めて名乗ろうぞ……我が名はケトス、海王ケトス」  悠々と名乗る海の王を前に、メビウスはリシュリーをエミットに預けて対峙する。  自然と大いなる存在を目前にして、己の矮小さが恐怖となって身を駆け上ってくる。震えが止まらない。正しく大海原をその身で体現する王が、どこか優しげなまなこでメビウスを見下ろしていた。 「海王ケトス、ぼく達は世界樹の奥深く、この場所まで来た。ぼく達ひとりひとりの意思で」  上ずる声に平静を呼びかけながら、メビウスは噛み締めるように言葉を選ぶ。  その一字一句を余さず拾って、ケトスは立派な髭の並ぶ口を優雅に緩めてみせた。笑っている……自分達の決死行を、命がけの世界樹探索を。正に王が、側に置く道化を見るような眼にさえメビウスには感じられた。だが、そこには深い哀れみと慈しみの情念が入り混じる。 「小さき者よ、我は友のしもべを、オランピアを通じて百年の禁を守り続けた」 「多くの冒険者達を犠牲にしてね。王よ! ぼくは問う! 何をあなたは百年守っているのです!」  かろうじて吐き出したメビウスの、祈りと願いを束ねた精一杯の詰問。それを吸込み、ケトスは小さく頷いたように見えた。ふむ、としばし思考を飛ばした後に一言、 「友との、盟友との約束を守っておる。こうして今も。そしてこれからも」  それは穏やかな優しい、しかし厳として揺るがない声色だった。  友とは? 約束? 連鎖する疑問を口にするより早く、メビウス達の耳朶をケトスの声が打つ。 「我が友、深王との盟約だ……決してこの先、何人たりとも通すべからず。何人たりとも」  深王……以前、オランピアを追い詰めた時にもケトスはその名を出した。海底に座する幻の都、深都の王……それが深王だろうか。百年の神秘と謎をはらんだ、この世界樹の根ざすところ。  メビウスは一度深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。そうして心を落ち着かせると、幾分冷静さを取り戻した頭をフル回転させる。深王なる人物がいかなる存在か、それは解らない。しかし今、メビウスは元老院の名代にして冒険者の代表でもある。そこに世界樹の迷宮がある限り、彼女の知的探究心と義理人情は前へと自身を強く押し出す。 「多くの命がこの迷宮に散っていきました。王よ、深都は……深王とはそこまでの覚悟が?」 「愚問。問われるべくもなく、答えるべきではない。……小さき者は皆、言葉を聞いてくれぬ」  憂鬱そうに一瞬、ケトスの口調がかげった。 「我等は皆、穏やかなる世界樹の封印を願った。だが、人は未知の領域へと本能を駆り立てる」 「それは……否定はしません。でも、この奥へ願いを、希望を求める人がいるんです」  遥か頭上、満ちたる海のその上に。今も、この数瞬の刻も待ち望んでいる人がいる。メビウス達が暮らして生きる、海都アーモロードの元老院に。何よりメビウス自身が、この世界樹の迷宮に隠された真実を求めていた。  だから今、彼女は持ちうる全ての言葉を総動員して語りかける。  たとえ隣のエミットに身を寄せるリシュリーが、知恵熱から煙を巻きあげても。 「剣を、刃を交える前に……もっと言葉を、互いの意思を! 王よ、話し合う機会は――」 「否! 小さき者よ、言葉は無用、そして無力。我等が大義、黙って忘れて暮らすがよい」  にべもない言葉が返ってきた。それはメビウスをうちのめし、思わずくらりとよろける。  だが、そんな痩身を隣で支えて、一際声を冷たく尖らせる者がいた。 「言葉は無用……同感だ。見ろメビウス。あれが王だ……王を自称する連中のありさまだ」  エミットが普段の鉄面皮を、ことさらに強ばらせている。その口から紡がれる声は鋭く、研ぎ澄まされて海王へと突き刺さっていった。普段は見せぬ感情的なその態度に、何より怒気をはらんだ静かな叫びを前に、その腕に抱きつくリシュリーさえ僅かな怯えを見せる。 「エミット、さん? 隊長、なんか話が……エミットさんの様子が」 「エミット女史よお、まだメビウスの話は終わっちゃいねぇ。こいつ、性根は真っ直ぐなんだ」  二人のパイレーツが揃って声をあげるが、それを肩越しに振り返るエミットの視線は反論を黙らせてしまった。傍らにあって今、メビウスは感じる……それは凍てつき凍えた暗い眼だった。 「貴様等はいつもそうだ……王などと自らを飾り、そうして人を見下し、翻弄して、もてあそぶ」 「小さき者よ、否定はせぬ。だが、我等が大義……そう、正義とさえ言えような? それを――」 「黙れっ! もはや聞く耳持たぬっ! 王などと名乗る者は皆、この私が……斬り伏せる!」  エミットが総身を震わせ感情も露に叫び声をあげる。そうして槍の穂先を向けられると、ケトスの纏う空気もまた一変した。それは諦観を連れた敵意。両者に挟まれる形でしかし、メビウスは決断するしかない。苦々しい思いが胸中を満たすと同時に、状況において最善を模索する思考が閃きと走る。 「やるしかないのか……タリズマン、前列でリシュリーを! コッペペ、解ってるだろ?」 「オーライ、オイラとエミット女史で後は任せな。女の尻追っかけんの、得意なのよねえ」  飄々とした軽い薄ら笑いと共に、気楽な様子でコッペペが銃を抜く。その撃鉄が引き上がる音と共に、メビウスの僚友がエミットの前に出た。そうして今にも飛び出しそうな重装歩兵を手で制する。 「エミットさん! 落ち着いて、冷静に! リシュリーちゃんを守るんだろ? だったら後だ」  タリズマンの声は焦りを帯びて怯えを隠さないが、正直で正答だった。ファランクスの槍ならば、少しの距離を置いても届く。何より守りの要として、背後からパーティを支えるのも務めだ。 「貴公、私にさがれと? 王を、それを自称する下賎のケダモノを前に、この私がっ!」 「エミットッ! 戦端は開かれてしまった……そして、ぼく達は一つになって戦わざるを得ない!」  普段の覚めたような冷静さは、今のエミットにはなかった。だからそれを目覚めさせる為にメビウスは声を荒げる。  海の王は今、戦慄にわななく空気をかきみだしながら牙をむいて襲い来る構えだ。  明らかに今、メビウス達はケトスに敵として認知され、そのまま処理されようとしていた。 「リシュリー、ぼく達に号令を。ぼく達が、何よりエミットがきみを守る。安心して!」 「は、はいっ! メビウスさま、みなさま達も……クジラさん、ごめんなさいですわっ!」  謝意と共にリシュリーの声音が澄み渡り、同時に強烈な大質量がのしかかってくる。その巨体を利用した体当たりは、王の尊厳そのものを具現化したかのような凄絶さでメビウス達を吹き飛ばした。  五人が五人、ひとかたまりに互いを支えながら壁に叩きつけられる。  しかしかろうじて立ち上がるや、自然とメビウスが意図した通りの陣容が形成されていた。 「エミット、落ち着いてよく聞いて。……悔しいけど戦うしかない。なら、ベストを尽くすっ」  猛り逸るエミットを後列に押さえて、メビウスは歯噛みしながら言葉を選ぶ。 「きみはリシュリーを守って……プリンセスがどういう役割か、きみが一番良く知ってる筈だ」 「……プリンセスの健在、堂々たる姿が皆を癒す。だがメビウスッ、私は」 「ぼくも勿論、リシュリーを守る。彼女がぼく達の生命線だ。そして攻撃の要はっ!」  そこから先はもう、言葉を飲み込み拳を握るしかない。実際にメビウスの隣に今、矮躯を奮い立たせてリシュリーが剣を抜いている。そして、彼女のあげるささやかな気勢を吸い込んで、メビウスの仲間にして弟分は疾く疾く、低く速く馳せていた。  迫る白鯨の威圧感を前に、メビウスもまた回復の術を準備しつつ、強く拳を前に突進した。