メビウス達の定宿、アーマンの宿にある大浴場は広い。その高い天井へと、ポカーンと呑気な風呂桶の音が響く。湯気に煙る風呂場で、メビウスは洗髪料のボトルを手に取った。  目の前には今、さらさらと金髪を濡らした異国の姫君が座っている。  上機嫌のニコニコ笑顔で、リシュリーは大親友の背を流しているのだった。 「じゃあリシュ、あなたも明日いってしまうの? ……その、深都に」 「もちろんですわ! 今からドキドキしますの……ジェラにお土産、見つけてきますわね」  せっせとリシュリーが泡立つタオルを動かしているのは、華奢で痩せた小さな背中だ。そこに人ならぬモノの痕跡を見止めて尚、メビウスは仲睦まじい二人の少女へ目を細めた。異形の身に生まれていようと、ジェラヴリグは大事なギルドの頼れる仲間。リシュリーもまた訳アリの身だが、親しいギルドの可愛い同業者だから。 「さあリシュリー、髪を洗うから目を瞑って」  たっぷりの湯を張った風呂桶を傍らに置いて、メビウスはそっと指でリシュリーの髪を梳く。それはきめ細やかな絹のように、清々とした手触りで指の間をすり抜けてゆく。まるで幼子のように身を強ばらせて、固く固く目を瞑るリシュリーに思わずメビウスは笑みを零した。  同時に、やや三白眼気味の紅い半目を向けるジェラヴリグにも微笑む。 「ジェラヴリグ、ぼく達はすぐ戻ってくるよ。今回は顔合わせだけだから」 「本当?」 「ああ、ぼくは嘘は言わないさ。元老院の書状と贈り物を届けるだけだよ」  最も、無事に戻ってこれるという保証はない。深都のオランピアが望んだことは「全てを忘れること」で、恐らくそれは深都の総意……深王の意向なのだろう。それを説明せずとも察するあたり、ジェラヴリグは歳に似合わぬ利発さが光ると改めてメビウスは内心唸った。  リシュリーもまた香料が香りだした頭を大きく縦に振る。 「でも、ジェラにも見せてあげたいですわ。海の中にこぉーんなにおっきな街がありますの!」  両手をいっぱいに広げて、肩越しに振り返るジェラヴリグへとリシュリーが身振り手振りで語りかける。  メビウスもまた、先日の光景を思い出していた。この地に根付いた真の世界樹と、それを拠り所に深海の最奥へ広がる冷たい街……深都。その幻想的な光景は、冒険者であるメビウスにとってなによりの宝物だった。謎と神秘の一端に触れた、その感動は未だ胸のうちに燻っている。  同時に、新たな謎がメビウス達の前に次々と現れ行く手を塞ぐ。その最たるものが、 「深都は百年の時を、何と戦っているのだろうか……少なくともぼく達じゃなさそうだし」 「メビウスさま?」  手は止めずに黙考へ耽っていたメビウスは、ついつい流れる思惟を言の葉に載せて呟く。その声を拾って泡だらけのリシュリーが振り向いた。その向こうからはジェラヴリグも真剣な眼差しを注いでくる。 「いや、独り言。……深都の人達は、海都の人達の為に何かと戦ってるんだって。そゆ話なんだ」 「確かにそう言ってましたわ、クジラさんも。ならきっと、明日には仲直りできると思いますの」 「はは、確かにリシュリーの言う通り。そうなるといいよね。さ、髪を流すよ」  静かにゆっくりと湯を浴びせれば、リシュリーの髪は眩い金色の輝きを一層増した。メビウスは丁寧にその金髪から泡を追い立てながら、自分にも言い聞かせるように言葉を紡ぐ。そうであればと願い、そうであれと祈りながら。 「よし、終わり。いつもはエミットさんが?」 「はい、おばねーさまが洗ってくれますの。でも、今は一人でもできますわ」  ブルブルと子犬のように頭を振って水滴を追い払いながら、リシュリーは「ジェラが教えてくれましたもの」とゆるい笑みを浮かべる。だが、対照的に自分で髪を洗い出したジェラヴリグの表情は僅かに翳りを帯びていた。 「メビウス、深都は何かと戦ってるって……本当? 海都の為に。それって」 「うん、みんなそう言うね。で、それをぼく達海都の誰にも知られたくないみたいだった」  それは不自然を感じるほどの違和感。今回の冒険で紐解かれた真実は、百年前に海中深く没して消えた幻の都の発見。そして、そこに住まう者達の百年の戦……それはさらなる謎を呼びこみ、世界樹の迷宮が先へと続くことを示唆している。  今後を憂いて明日に不安を感じつつも、メビウスはどこか好奇心と探究心が疼く己を自覚していた。  さらなる冒険が深都の向こうに、その先にあるような気がするのだ。  だが、そんなメビウスへ向けられるジェラヴリグの眼差しは暗く冷たい。 「深都のみんなが言う、その、敵……それが、わたしと関係があったらどうしよう。どうする?」  ポツリとジェラヴリグの呟きが湿度に溶けてゆく。彼女は自分でも不安なのか、湯をかぶるや己の肩を静かに抱きながら目線を落とした。二人の間でリシュリーだけが、不思議そうに交互に両者を見詰めてくる。  自分の髪を洗い出していたメビウスは、鼻から小さな溜息を逃がして手を止めた。  その気配を敏感に察して、ジェラヴリグが顔色を変えて前言をかき消すように小さく手を振った。 「う、ううん、なんでもない……なんでもないの、ごめんなさいメビウス」  メビウスは改めて、どこか大人びて背伸びした、それを強いられ生きてきた少女へ想いを馳せた。目の前のジェラヴリグは、大人のメビウス達が感心する程に察しが良く、機知に富み、冒険者として一人前であろうと一生懸命だった。それが年端もいかぬ子供であることが、どこかソラノカケラの大人達に僅かばかりの疼痛を感じさせる。  普段から海都でギルドの一員としてクエストをこなすジェラヴリグが、その無邪気で無垢な自分を踏みしめて大人に並ぼうとする生き方が少し切ない。  加えて言うなら、ジェラヴリグの矮躯は裸へ目を凝らせば純正なヒトではないと知れる身だった。  冒険者の習いに従って、誰もが詮索を避けたが、メビウスは内心彼女のことを気にかけていた。他のギルドとはいえ同年代の友達リシュリーの存在など、ありがたいと思うほどだ。 「……そうだね、ジェラヴリグ。どうしようか? もしそうだったら、どうしよう」  気丈に努めて平静を取り戻そうとするジェラヴリグの、その濡れた頭にポンとメビウスは手を置く。 「その時は一緒に考えよう。どうしようか、って。みんなで一緒に考えるよ、仲間のみんなで」 「わたくしも考えますわっ! そんなことない、そんなわけないって考えますの!」  リシュリーが思ったままを口にしてくれるのが、メビウスには嬉しい。そして、同じ喜びを感じるのか、ジェラヴリグはどこかほっとしたように綻ぶ笑顔を見せてくれた。それでいいと心に結んで、メビウスは頭から湯をかぶる。 「ジェラヴリグと深都の敵に関係があっても、ぼく達はその謎を解き明かすだけさ。ね?」 「そうですわ。その、難しいことは解らないのですけど、メビウスさまなら大丈夫ですっ!」  メビウスは大雑把でぞんざいに髪の水を切ると、普段は三つ編みに結った長髪が所々でよじれてしなりながらふわりと適当に纏まった。それをもう一度手で梳いて、彼女はタイルから立ち上がる。 「……ありがとう、メビウス。リシュも。わたし、待ってるね……この海都で待ってる」  ジェラヴリグも腰掛けから立ち上がると、同じように腰をあげるリシュリーに手を伸べる。 「わたし、二人が……みんなが無事に深都から帰ってくるのを待ってる」 「うん。留守中はレヴがギルドを回してくれるから大丈夫。すぐ戻るから」  今思えば、ジェラヴリグの小さな胸の内は、その奥の心はどれだけ不安だっただろう。ヒトならぬ身に生まれながらも、ヒトの世で毎日を懸命に生きる健気な少女……その耳に入った一報は、未知なる敵の存在。もしや自分がと考えてしまうだけの賢しさが、彼女には歳不相応にしっかりとあったのだ。  だからメビウスは安心させるように笑みを浮かべて、ジェラヴリグとリシュリーの肩を押した。 「さ、身体を洗ったらお風呂に入って! 風邪引かないようにちゃんとつかるんだよ」  ポンと送り出すと、二人の少女は互いに手を取り、湯船の方へ霞んで消えてゆく。  湯煙の中でその背を見送ると、不意にメビウスは先程から感じていた気配へ語りかけた。 「……どう思う、コッペペ?」 「泣かせる話じゃねえか、ええ? おい。あの子等を泣かせちゃ駄目だな、オイラ達」  高い天井の小さな天窓が喋った。その奥から聞き馴染んた声がする。 「あの子等の為にも、どうにか深都との一件は丸く収めねぇとな……そうだろ、メビウス?」 「同感だね。杞憂で終わればと思うよ。ただ、少し気にかかる……ジェラヴリグのことがね」  それと、と腕組みメビウスは天井を見上げる。同時に足はひょいと手近な風呂桶を蹴り上げていた。 「……こっち、見えてる? コッペペ」 「いや、それがなかなか……窓が湯気で曇っててよ。全然見えねえ。ラプターちゃん達はまだか?」 「まだだよ。それより……窓が曇ってるなら、開ければいいじゃないか」 「お前、頭いいな! そうだ、オイラとしたことが……さーて、御開帳――」  トントンと膝の上で遊ばせていた風呂桶を、メビウスは渾身の力で手に取るやブン投げた。遥か頭上で窓の金具が開く音と共に、スパコーンと気持ちのいい音が響いて、コッペペが遠くに落ちて行くのが感じられた。メビウスはやれやれと肩を竦めながら、少女達が無邪気に遊ぶ湯船へと足を向けるのだった。