元老院のクジュラが手配してくれた邸宅は、海都の外れにぽつりと建っていた。がらんと人気のない、古びて傾いだ感のある平屋建てだ。昔はさる将家の屋敷だったというが、今は客将のミラージュ達が身を寄せている。  満月、海都の喧騒と賑わいもどこか遠くに聞こえる、そんな凪いだ夜だった。 「さ、ミラージュ様。一献」 「ああ」  庭に面した縁側で、ミラージュは盃を手にヨタカの酌を受けた。彼の許嫁は目鼻立ちの整った端正な顔を、ややぎこちなく微笑ませてみせる。夏の夜なのだから浴衣ぐらい着飾ればいいのに、家事があるからと二部式の着物にたすきで鉢巻きだ。  どうにもこの、乙女として微妙にいまいちな未来の伴侶がしかし、ミラージュには大事でならない。 「時にヨタカ、あれは……」 「祖父様が用意をと。お客様でもいらっしゃるのでしょう」  ふとミラージュが首を巡らせれば、彼の剣の師が杯をあおっている。しどけなく着崩した着物に懐手で、柱に身を預けて寄りかかって。そうして手酌で酒を飲みながら、シンデンは庭を眺めていた。  その視線を追ってミラージュも、改めてしげしげと庭を見渡す。南方の紅い花が咲いているかと思えば、名も無き草が伸び放題に茂っている。景観を縁取る木々も雑多で、互いに空を奪い合うように枝葉を伸ばしていた。そんな庭から改めて師に目を向けると、その前に空の茶碗が一つ。一膳の箸と共に並んでいる。今夜の肴は勇魚の塩漬けだ。 「どうしたミラージュ。孫の、ヨタカの酌を受けてるのだ。少し楽しそうにしてみせろ」  眼差しに気付いたのか、それとも先程から知っていたのか。ただ手に杯を遊ばせ、その中に滲む月をゆるりと回しながらシンデンが口元を緩めた。それは不器用で生真面目に過ぎる弟子を見ての、苦笑めいた穏やかな笑みだった。  もとよりミラージュは亡国の王子として、流離いながらも剣に生きてきた身……女遊びにうつつを抜かしたこともなかったし、逆に師が時折側にはべらせ楽器を奏で、唄など詠ませているのが理解できないでいた。  ミラージュに解るのは、ヨタカの酒が一時忘れさせてくれる逼迫の念のみ。 「いえ、楽しんでおりまする」 「ならば少しは笑ってみせぬか」 「は、はあ」 「はあ、ではない」  剣の腕こそ並んだものの、ミラージュは師に遠く及ばない。隣でヨタカがくすりと笑う、その潜めた声が夜風に乗って庭の草花をそよがせた。本当に静かな、平穏な夜だった。  そんな安穏とした雰囲気はしかし、突然何者かに遮られた。 「! ……今、気配が走った、が」 「ミラージュ様、わたしが。曲者――そこっ!」  言うが早いか立ち上がるなり、ヨタカが懐から取り出した手裏剣を投げつける。寒々しいまでに蒼い月の光を受けて、鋭い刃が闇夜に光って、そして庭の暗がりに消えた。  ミラージュは突然の闖入者にも驚いたが、家でくつろいでさえ暗器を忍ばせているヨタカにも驚く。そう、刃に心と書いてシノビ……両者は上下に結ばれて決して離れることはない。 「ほう、仕留めたか? ヨタカ」  シンデンだけが平然と酒を飲みつつ、動じた様子も見せず孫へと声をかける。 「はい。仕留めましてございます、祖父様」  静かに音もなくヨタカが庭に降りた。その口調はまるで、掃除や洗濯が終わったかのような落ち着いた響きだ。祖父が祖父なら孫も孫で、不審者とはいえ人を殺めたやもしれぬのにけろりとしている。普段なら溜息の一つも零すのだが、その時ミラージュは庭を注意深く歩くヨタカへ向けて立ち上がっていた。 「ヨタカ、退けっ! 其奴、只者ではないっ」  瞬時にミラージュの背筋を擦過する悪寒。  だが、遅かった。静寂の月夜を引き裂くヨタカの悲鳴。 「ひっ、ひいいいっ! おっ、おのれ何奴」 「ふぉっふぉっふぉ、いい尻しとるのう。これは役得、役得」  忍び込んできた気配は今、月光にその姿を現し……こともあろうか、つるりとヨタカの尻を撫でて立ち上がった。悪びれた様子もなく、総身を震わせ恥辱に真っ赤なヨタカを置いて、その老人はゆらゆらと近づいてくる。そう、老いぼれ縮んだ老人だった。だが、ミラージュはその好々爺然とした姿が「よっこらしょ」と縁側に上がりこんでくるまで、一歩も動けなかった。 「ふはは、許せヨタカ……此奴はワシの客じゃ。よう来たな、ガイゼン」  シンデンだけがニカリと笑って、空の茶碗を手に取るや放る。 「何、呼ばれて参ったまでよ。しかしあの赤子が見事に育ったのう。まっこといい尻じゃ」  図々しくシンデンの向かいにどっかと腰を下ろすや、ガイゼンと呼ばれた老人は茶碗を受け取った。 「まあ、飲め」 「いただこう」  言葉少なく、二人は黙って座したまま酒を飲みだした。呆然とするミラージュはしかし、唇を噛み締め傍らに戻ってきたヨタカと共に、その場にストンと座り込んだ。  思えば、この距離まで気配を悟らせずに忍び込んできた。しかも、それを察したヨタカの一撃を避けたばかりか、背後を取って尻を撫でたのだ。並の腕ではないとミラージュは息を飲む。恐らくは師と同等か。  二人はしばし黙ったまま、互いに酒を注ぎ合い、勇魚をつついては杯を乾かした。やがて、 「元老院は動くかのう? あの若造、クジュラとか言ったか……まっこと恐ろしい小僧よ」  ガイゼンは誰にともなく、独り言のように呟き、そのまま無造作に掴んだ茶碗で酒を飲む。その際、ちらりと動いた細い目が、ミラージュを一瞥して一層細められた。 「動く、な……間違いなく、動く。ワシ等は近々、ソラノカケラに参陣することとなったしの」  シンデンもまた、そう零して口髭を撫でると、クイと杯をあおった。  ミラージュには二人が、まるで旧知の仲のように見えた。そして実際そうなのだろうと感じる。何故なら、彼の師は慎重な上に賢明で聡明、大局を見極め言葉を選ぶ漢だったから。ミラージュ達元老院の客将が、今や海都の代表にまで祭り上げられたソラノカケラに出向くという話は、まだ秘密中の秘密だったから。それを明かし語る仲なのだと自然と知れる。 「ふむ。ワシ等はのう、ちっくと一悶着あったが、トライマーチに今おるわい」 「トライマーチか。では」 「連中の一部はもう、深都を拠点に第三層を奥へ進んでおる」  とっくりを掴むシンデンへと、ガイゼンは茶碗を差し出した。 「ソラノカケラは……リボンの魔女はどうしとるかのう」 「フローディア様の意をくんで、同じく第三層を進んでおる」 「ほう。……美人か? 噂のリボンの魔女は」 「美しい。だが、おなごの色気ではないな」 「ふむう、そうか」 「うむ、そうだ」  ミラージュも自然と、これから轡を並べて危険に挑む、ギルドを統べる者の面影を思い出した。颯爽として涼やかな、小気味良い横顔が脳裏に浮かぶ。それは確かに、隣で自分の袖をつまんで掴みながら、まるで子犬のようにじとりと老人を睨むヨタカとは別の意味で、女性としての美しさ、愛らしさからはかけ離れていた。同時に、人としての気高さや逞しさに溢れ、何より器量があるとミラージュは評する。  そうこうしているうちに、勇魚の最後の一切れを平らげるや、ガイゼンは庭に飛び降りた。 「馳走になった、ではまたの」 「おう、またいずれ」 「次は釣りなどいいのう」 「釣りか。それはいい」  気安い挨拶を残して、すたすたとガイゼンは庭を外へと歩き出した。その足が一度だけ止まる。 「リボンの魔女……さてどうするか? 次なる難題は深都の守護神、ゲートキーパーぞ」  ゲートキーパーの名が思わぬ者の口から零れて、再度ミラージュは驚く。それは深都を頑なにさせ、海都の協力を遠ざけている世界樹の英知。絶対たる深海の守り神の名だった。 「なるようになろうぞ。あの娘なら……なすべきをなすだろうよ」  見送るシンデンの声に「左様か」と応えが返れば、シンデンもまた「左様」とだけ応える。それっきりシンデンは再び一人で飲み始め……ガイゼンの気配はプツリと途絶え、その姿は突然闇夜に溶けて消えた。  まるで化かされたかのように呆けたミラージュはしかし、不敵に笑う師の横顔を見て緊張を解き、隣のヨタカの手を取る。さらなる危険へ共に挑むシノビは、戸惑いがちに、しかし確かにそっと手を握り返してきた。その夜はそのまま、何事もなかったかのように更けていった。