世界樹の迷宮より這い出るように歩を進めて、ようやく再会した空をメビウスは仰いだ。  時間は午後を少し回ったくらいだろうか? 危険な魔物がひしめく迷宮内に比べて、海都の雑踏は平和そのもの。未知なる迷宮を地の底にいだいて、今日も観光客や地元の民が賑わっていた。 「はぁ、今日も空をおがめたかあ。隊長、あのフロア……全部埋まりましたね、地図」 「断罪の間、だっけ。少し無駄足だったね、メビウス。周囲はただがらんと広いだけだった」  額の汗を拭ってタリズマンが大きく身を反らせれば、グリフィスも僅かに頭巾の端から疲れをのぞかせた。屈強な百戦錬磨の冒険者でも、今日の探索は流石に堪えた。メビウス自身もそうだが、ソラノカケラの最精鋭達は疲労困憊だ。普段は無表情のネモですら、陽の光に溜息を零している。  今日のメビウス達の調査は、フカビトの真祖を封じた断罪の間……その周囲を囲む広大な空間を調べることだった。それも、直接足で歩いて。地道に一歩一歩。だが、労力に反比例して成果は乏しく、ただ真祖を避けるように開けたフロアには、熱砂の茨以外には何もなかった。 「メビウス、とりあえず茨が茂ってるところは色分けしておいたよ。……妙だね、しかし」 「妙? 何が――」  メビウスは疲れも隠さず首をコキコキ鳴らすスカイアイから、丁寧に巻かれた地図の羊皮紙を受け取った。それを開いて見れば、確かに違和感がこみ上げてくる。 「ああ、確かに。なんだろう、これはまるで」 「断罪の間の周囲を、切り取ったように不毛の地が囲んでいる。そう、まるで」  ――まるで、何者をも拒む溝のように。  スカイアイの言葉は正鵠を射たもので、メビウスも自然と頷いた。 「ま、兎に角、だ……これで地図も埋まった、図鑑はレヴがやってくれたし」  思いっきり身体を大の字に伸ばして背筋を正すと、タリズマンは気持ちよさそうに目を細めて、 「宿で今日はゆっくり休みましょうよ、隊長。俺ぁもう、一歩だって歩けないですよ」  口には出さないが、ネモやグリフィス、何よりスカイアイも相当へばったようだ。今日はいささか強行軍になってしまったようで、自分もまだまだだとメビウスは苦笑を零した。ギルドマスターたるもの、同行する仲間達とのペース配分にも気を配らなければいけない。普段からやれてる実感はないが、出来る限りは尽くしているつもりのメビウスだった。だが、今日は対象となる区域が広すぎた。 「さぁて、一風呂浴びて飯食って、今日は早めに寝るとすっかなあ!」  再三再四疲労を口で訴えながらも、街に戻ってくればタリズマンは普段の陽気さを取り戻して歩き出す。アーマンの宿屋へ向かうその背を追って、メビウスも仲間達と続いた。足取りは重いが、生きて帰れたという充足感は毎度ながら心地良い。  それは仲間達も同じのようで、迷宮の入り口から遠ざかる程に元気を僅かに取り戻してゆく。  だが、少し早めの仕事上がりは、突然の声に遮られた。 「我が君、メビウス殿達が戻られました。あそこに」 「うん。ということは、擦れ違いになったみたいだね」  往来を行き交う人々の奥から、すすけたコートをなびかせクフィールが現れた。彼は隣に控えるラプターに二、三の確認を取ると、改めてメビウスの前で頭を垂れる。 「お疲れ様です、メビウスさん」 「え、あ、ああ、うん。その、お疲れ……クフィールも、ラプターも。イーグルは?」  どこか儀礼的なやりとりが不似合いな王子は、顔をあげるや表情を硬く強ばらせた。それは隣の騎士も同様で、ただ一言「弟は元老院へ走らせました」と静かに述べてくる。  メビウスは事情も掴めぬまま、しかし妙な気配を感じて二人を交互に見やった。見ればクフィールもラプターも、逼迫の空気を帯びて真剣な面持ちだ。咄嗟にメビウスも雰囲気を察して、何かが起こっているのだと気を引き締めた。疲れに身体は重いが、まだ頭はあれこれと良く回る。 「元老院に? 調査の報告……じゃないよね、それはレヴ達に任せてるから」 「実は、元老院に妙な動きがあったものですから。俺が独断で、その、すみません」  どこか頼りなさげに眉根を寄せて、しかしその弱気な表情も一瞬で影を潜める。クフィールはただ静かに、唐突な一言を切り出した。 「ゲートキーパーの破壊を元老院は採択しました。昼前にはフローディア様から使いが」  瞬間、メビウスは鈍器で頭部を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。  ゲートキーパー……それは、第三層の最奥に鎮座する深都の守護神。世界樹の叡智の結晶、恐るべき力でフカビトの侵入を食い止めている魔神だ。それを、破壊する? 何故? その答えはラプターが滔々と語った。 「フローディア様も強硬派の元老達を今まで押し留めていたのですが……」 「なるほど、ご老人達は深都との協調体制を手っ取り早く押し付ける気なんだね」  メビウスの脳裏に老獪なシナリオが閃いた。同時に、その強引なやり口をどうにか説き伏せようとするフローディアの姿がよぎる。あの老婦人はきっと、ゲートキーパーを破壊しろなどとは言わない筈だ。深都との良好な関係の構築には、時間も人材も惜しまないだろう。  だが、元老院のその他大勢の老人達はどうやら焦っているらしい。ゲートキーパーが力を失えば、深都はフカビトを封じる為に海都に頼らざるをえない。それはしかし、友好的とは言い難い。メビウスをはじめとするソラノカケラの誰にも、最良の手段とは思えなかった。 「えっ、じゃ、じゃあちょっと待てよ……あのデケェのを壊せってか」 「それは難しいし、ぼくは納得はできない。メビウス、陰謀の臭いがする」 「同感。元老院も一枚岩じゃないってことかな……どうする、メビウス?」  タリズマンが、グリフィスが、ネモが各々思い思いに言葉を切ってくる。  しばし黙考に俯くメビウスは、細い顎に手を当て肘を抱いた。  だが、時間は彼女に考える暇を与えてはくれなかった。 「姉貴っ! 殿下も……っと、メビウスさん? 戻って……くそっ、擦れ違ったか!?」  元老院へと続く坂道を、転がるようにイーグルが駆けてきた。彼は人の波をかきわけ、息せき切って全力でメビウスの前へと躍り出た。そのまま膝に手をついて呼気を貪り、大きく肩を上下させて呼吸を整える。鍛えられて引き締まった筋肉が汗に濡れて、腰の剣をガチャガチャと揺らしていた。 「ハァ、ハァ……元老院に、顔出して、来ました。……遅かったみたいだ」 「遅かった? 擦れ違ったって……まさか」  メビウスは最悪の事態を即座に選択肢の中から拾い上げる。それが正解である旨、クフィールが黙って首肯を返してきた。隣のラプターも同様で、その顔は僅かに唇を噛んでいる。 「メビウスさん、クジュラさんが既にゲートキーパーに向かっています」 「クジュラが!? そうか、それで……」 「下手をすれば海都と深都の信頼関係はご破算だぜ。ハァ、ハァ……くそっ、こうしてられねぇ」  大きく上下する胸に手を当て、イーグルは顔をあげるや世界樹の迷宮へと踏み出す。 「メビウスさん、俺が……俺達が止める! いいだろ姉貴っ、殿下も」 「待って、イーグル。君達三人だけじゃ」 「ちょうど今、子供達もグリペンの旦那も、機兵のあんちゃんも出払ってる!」  焦りも顕なイーグルをなだめつつ、クフィールも言葉を続ける。 「ファーマーの皆さんでは少し荷が……こんな時、兄がいてくれれば」  手練のショーグンが一人いるだけで、このような窮地は様変わりする。それは、単身クジュラがゲートキーパーに挑んだことが如実に語っていた。正しく一騎当千……しかし、その腕を今は頼れないらしい。何より、船でのクエストにミラージュ達を遣わしたのは、他ならぬメビウスその人だった。 「……よし、タリズマン。グリフィスもネモも、スカイアイも。一度宿に戻って」 「隊長! そいつぁ――」 「デフィールがいるなら、トライマーチにも事情の説明を。きっと協力してくれる」  ふと、脳裏を嫌な予感が擦過する。しかし、こみ上げる悪寒を今は振払うメビウス。 「ぼくも加わる。クフィール、ラプターにイーグルも。追いつくよ……追いついてみせるっ!」  言うそばからもう、メビウスの身は疲れを振り払うように馳せていた。クフィールとその臣下二名が続き……その後を、重い弩を引きずるようによたよたと走る姿があった。 「スカイアイッ、きみも消耗しているっ! 宿で休んで」 「そういう君もだ、メビウス。君が背中を預けるのは俺だろ? いいさ、付き合う」  丁度五人だと言ってメビウスに並ぶスカイアイは、千鳥足で走れば顎がすぐに出る。それでも強情にこの場を譲らないのは、竹馬の友であるメビウスがよく知っていることだった。 「後、任せるよ。クフィール、きみも銃で後列から援護を……よしっ、行こう!」  メビウスは世界樹の迷宮、その奥へ……紅蓮の炎が滾り漲る、第三層最下層へと取って返す。  その先に過酷な運命が待ち受けているとも知らずに。