メビウスの予感は的中した。  海都に戻った彼女達は、そのまま迎えの者達に囲まれ元老院へと連れられる。ミッションの報告もそこそこに、豪奢な建物の最奥に位置する応接室へと通されたのだ。そこに待っていた人物もまた、メビウスが思う通りだった。 「ご苦労様です、ソラノカケラの皆様。このグートルーネ、嬉しく思います」  ねぎらいの言葉を浮かべる白磁の如き笑顔も、今日は心なしか陰って見える。メビウスの眼にも、白亜の姫君ことグートルーネは衰弱しているように感じられた。  それでもグートルーネは気遣うフローディアを下がらせると、ソラノカケラの五人に正対してソファに腰を下ろした。一同黙って従い座るが、出される茶に手をつけるものはいない。 「この度は急なミッション、何も言わずに引き受けていただきありがとうございます」  グートルーネは重たげに気だるげに首を巡らすと、「フローディア、報酬をお渡しして」と小さく囁いた。その声は今にも消え入りそう。  何が彼女を苛み苦しめ、こうまで弱らせているのだろうか?  その答を今、メビウスはアイテムポーチから取り出してみせる。 「これがアマラントスの花でよろしいでしょうか」 「まあ、綺麗な花。わたくしも調合される前の姿は初めて見ます。……本当に、綺麗」  メビウスが握る一輪の花は、深い朱の色に艷めいている。摘んで間もないにしても、その花びらが湛える潤んだ色彩はきらびやかに過ぎた。  グートルーネは直接手渡された生命の花を、慈しむように両手で包んで萌香を吸い込む。 「ささ、姫さま……早速秘薬を調合して参りましょう。お前たちもご苦労だったねえ」 「お願いします、フローディア」  僅かに惜しむように、再度香りを吸い込み眼を閉じると、グートルーネは差し出されるしわだらけの手へと花をゆだねた。それをうやうやしく持ち去るフローディアの姿が、部屋の奥へと消えてゆく。  急いて見えなくなったその背を見送ると、メビウスは改めてグートルーネに向き直った。 「……お話があります、グートルーネ様。ぼく達は道中、フカビトに会いました。それで――」 「仰りたいことは解りますわ。それがわたくしの真実であることも」  ふとグートルーネが視線を外した。  その先へと首を巡らせれば、ガラス戸の向こうに広々とした庭園が見える。 「メビウス様、少し歩きませんか? ……外の空気を久々に吸いたく思います」 「ですがお体が」 「秘薬が届いたのです、大丈夫……この意味、もうお解りなのでしょう?」  グートルーネが立ち上がるので、調子を合わせてメビウスも腰を上げた。 「メビウス。俺には、俺達にはまだよく解らないんだが。その、どういう話だ?」  声をひそめるスカイアイを見下ろし、その周囲で同じ色を瞳に浮かべる仲間達をも見渡す。 「ぼくだってまだ半信半疑なんだ。でも、さっきのフカビトが言ったことが本当かどうか」  ――まずはそれを確かめる。  メビウス自身、まだ胸中に動揺がある。そうでなければという想いもあったし、そうだとしても真実に自分は耐えるとも言いきかせる。だが、そうして嫌に冷たいグートルーネの手を取るメビウスとて、ただ一人の冒険者、生身の人間なのだ。  メビウスはグートルーネをエスコートしながら、真実へと歩を進める。  ガラスの引き戸を開け放つと、庭の草花が萌える香りがふわりと鼻孔をくすぐった。 「このお庭は変わりませんわね……わたくしが小さい頃からずっと」 「では、この建物は」 「もとは王家のものですのよ。今では海都の全権と共に、元老院に委ねていますの」  グートルーネは静々と庭にわけいり、瑞々しい夕暮れの空気を吸い込んだ。  遠くに見える海の上では、水平線へと身を委ねる太陽が紅く燃えている。その絶景へと目を細めるグートルーネの横顔もまた、夕映えに染まり輝いていた。メビウスには一時、グートルーネの頬に血の気が、人らしさが戻ってきたような錯覚を覚える。  二人だけの声しか聞こえぬ場所まで歩み出て、グートルーネは太陽を背に振り返った。 「小さな頃、この庭で兄様と遊びました。兄様は優しくて、いつもわたくしに花の冠を」  うっそりとささやくグートルーネの声は、ともすれば聞き逃しそうな程に小さい。だが、その僅かな空気の震えがメビウスの耳朶にはやけに響いた。  恐る恐る口を開くメビウスの、その小さな唇が震えて戦慄いた。 「兄君がおいででしたか。……それは、何年前の思い出なのです? ぼくはもう、知ってしまった」 「ふふ、わたくしはじゃあ、知られてしまったということですね」  氷の微笑がメビウスに向けられた。今はもう、眼前の生気を感じさせぬ笑顔がメビウスには恐ろしい。恐ろしいがしかし、毅然と真実を暴かねばという気持ちだけが強まってゆく。  同時に、その真実を永らく抱いてきた目の前の姫君に、淡い同情が湧き上がった。 「小さな頃は楽しかった……兄様と、フローディアと三人で。それはもう、百年も前」 「やはり……では」 「メビウス様、もしやあの魔女にお会いに? そうです、全てメビウス様の見聞きした通り」  俯くグートルーネの唇が、より一層色を失ってゆく。沈みゆく太陽の残照が象る、その輪郭がメビウスには酷く不確かなものに見えた。息苦しい空気が二人の間に横たわる。 「メビウス様。わたくしはフカビトの術により、百年の刻を生きて参りました」  改めて示された真実に、思わずメビウスはよろめいた。 「そんな……何故? フカビトとは海都にとって、忌むべき邪ではないのですか?」 「そうです、フカビトとは種を違えた解り合えぬ存在。決して交わらぬ存在です。ですが」  面を上げたグートルーネの顔に、珍しく表情が浮かび上がる。それは涙をこらえている幼子にメビウスには見えた。そう、初めて白亜の姫君はその白すぎる顔に感情を滲ませていた。 「そのフカビトと戦うため、兄様は行方不明になってしまいました。……それが、百年前」 「では、グートルーネ様は」 「わたくしは兄様のいない日々に耐えられず……フカビトの術にすがったのです」 「……そこが解らない。兄君の為とはいえ、どうしてそこまで」 「それは、わたくしが兄様の為に生きているからです。わたくしは、兄様のものなのです」  いびつに歪んだ情愛が、一瞬激しく燃え上がった。グートルーネの大きな瞳には、暗く濁った情念が渦巻いている。  だが、そうまで人を想うグートルーネの百年の恋慕が、メビウスには理解不能だった。  あるいは別の誰かであれば、不憫に思うなり悲恋に感ずるなりしただろう。だが、メビウスに唯一欠落しているのは、男女の情に関する知識と経験、何より好奇心だった。  だが、メビウスには人の情は人一倍解る。感じるのだ。兄妹の気持ちという形で、彼女の中にグートルーネの想いが結晶となって降り積もった。しかしそれは、フカビトの不死の力に手を染めた、血のような赤で濡れている。 「グートルーネ様、兄君を想えばこそ……くっ、言葉が出てこない。なんて言ったらいい?」 「わたくしが誤ちを犯したこと、今も犯し続けていることは承知のうえです」 「そんなことをして兄君がお喜びになるかどうか」 「喜んでくださいます。純潔を守り貞淑に、兄様の為の若さを守ったわたくしを」  なんの迷いもないグートルーネの声に、メビウスは言葉を失った。  背後に突然気配が立ったのは、まさにそんな瞬間だった。 「姫さま、火急の要件が……ソラノカケラの、急ぎ頼みたいことがある」  クジュラだ。彼はいつもの老成した眼差しを僅かに細めて、メビウスに逼迫した空気を伝えてくる。 「クジュラ? いつからそこに……聞いていたのか?」 「いや、俺が割って入る筋ではない。たった今来たところだ……それよりメビウス」  あのクジュラが今日に限って、その顔に浮かぶ焦りを隠そうともしない。この元老院が抱える青年剣士は今、額に汗の雫を浮かべる程に表情を歪めていた。 「深都の冒険者達が、王家の森に通ずる転送装置に近づいている。急ぎ排撃、撃滅せねば」 「待ってくれクジュラ……転送装置? それは……いや、それ以前に戦いは回避しなきゃ!」 「王家の聖地に通ずる、太古の術で作られた不思議な装置です。……わたくしの秘密、です」  クジュラの焦りが伝染して、メビウスは冷たい汗に濡れながら振り向いた。  すでに太陽は海中深く没し、夜の帳がグートルーネを包み込んでいた。その姿は元老院の建物が発する灯りを吸い込み、反射することなく闇のような影となって立ち続けていた。