静寂を満たしていた玄室への入口は今、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。リシュリーの姿に宿る禍神は、ジェラヴリグを連れ去った。それを追ってメビウスは単身、禍神の本体が封印されし玄室の奥へと消えた。  そして今、残された者達は後顧の憂いを断つべく孤立しながらも戦っていた。  モンスター達の群れは容赦なく、エルトリウスとテルミナトルに襲いかかる。 「離せ! 戦力外は自覚している、もういい。……テルミナトル、お前は深都が誇れる機兵の誉だ。だから」  自爆して木っ端微塵になったテムジンの、かろうじて原型を留めている頭部を無造作にテルミナトルは拾い上げた。まるでビスクドールのように美しかったテムジンの顔は今、半分が砕けて機械や回路が火花を散らしている。放熱ファイバーである髪も焼け焦げ、彼女自身が動力炉の臨界で引き起こした爆発の凄絶さを物語っていた。  だが、テルミナトルは周囲の魔物達を牽制しながら、彼女へと自分から引っ張り出したケーブルをつなぐ。そうして腰に生首のように彼女をぶらさげると、両手で剣を握って身構える。その背を庇って断つエルトリウスは、この男の声なき意思を確かに聞いていた。 「テムジンさん、ここは彼に任せて。大丈夫、連れ帰りますよ……私達はまだ死ねない」 「エルトリウス殿……」 「ここを死守せねば、禍神と対峙するメビウスは背後を衝かれることになりましょう。それは避けねば」 「肯定だ、だが私にはもうなにも」  珍しくしおらしいことを言って、テムジンは俯き瞳を潤ませる。それは本来、アイセンサーのレンズを維持する潤滑液なのだが、エルトリウスには涙の雫にも感じられた。冷徹な深都の特務機兵が、今にも泣き出さん表情だ。  だが、テルミナトルは腰にぶら下がるテムジンをごしごしと無造作に撫でる。 「お前、慰めてくれるのか?」 「……」 「なっ! 無礼者! 私とて特務である前に一人の乙女、撤回を要求する!」 「…………」 「そうだな、私の判断はあの時点では最良だった。後は全てをメビウスに託す……そうだな?」  頷くテルミナトルの身体が、湧き出る清水の輝きに包まれてゆく。その身に宿した魔性の力が、彼の躯体に満ち満ちて甲高い駆動音を響かせた。ノイズ混じりの不協和音は、あたかも亡霊が泣き叫ぶような響き。周囲を取り巻く魔物達は、じりじりと間合いを詰めるテルミナトルに威圧されていた。  エルトリウスもまた、二丁の拳銃を手に歩み出す。 「不本意だが協力するぞ、テルミナトル。回避系の制御ナーヴを私に回せ。並列演算で同時制御する」 「……! ……」 「私の方が処理速度が早い。お前は攻撃に専念するんだ。……生きてやれ、テルミナトル。あの娘のために」  ガクン! とテルミナトルの身体が一瞬脱力して、その後にわなわなと震え始める。兜の奥に光る瞳が、ひときわ強い輝きで眩く瞬いた。瞬間、エルトリウスが銃爪を引く。戦端が開かれ、群れなす凶暴なモンスターへ向かって無軌道にテルミナトルが突貫していった。その道筋を弾道で導きながら、背を守ってエルトリウスも懸命に走る。  決して広いとはいえぬ玄室前の広場を、縦横無尽にテルミナトルが馳せる。繰り出す剣の切っ先は水を纏い、触れる全てを両断してゆく。エルトリウスは以前、知己ヨルンより聞いたことがある。高い圧力で凝縮された水は、鋼でさえも容易く両断するという。そしてテルミナトルが宿す海魔の力は、無敵の矛であると同時にまた、最強の盾でもあった。無数に張り巡らされた水の障壁が、テムジンをもってしもても避けきれぬ爪と牙を弾き返してゆく。 「これは……ついていくのも大変ですね。ですが、暫くは持ちこたえられるでしょう」  冷静にテルミナトルを援護して撃ち漏らしを片付けながら、エルトリウスは安堵した。これならば、メビウスと神との相克を邪魔する者はいない。そしてメビウスはきっと、どんな時でもまごついたりはしない。気風のよさと小気味よさで、神が相手でも決して物怖じはしないだろう。そればかりか、仲間のためならば神でさえも殴り飛ばす……メビウスとはそういう娘だ。  エルトリウスは疲労で滲んで霞む視界の中心に、必死でテルミナトルの背を捉えて走った。  二人は敵意と殺意が渦巻く中で、竜巻のように命を飲み込んでゆく。有象無象の区別なく、テルミナトルの剣に触れた獣はバラバラになり、異形とて跡形もなく消え去る。よしんば避けたところで、エルトリウスの堅実な追い討ちを浴びるハメになった。だが、二人共わかっていた……テムジンもあわせて三人、三者三様に理解していた。  暫くは持つ、持たせてみせる。だが、それも長くは続かない。 「エルトリウス殿、ここは私とテルミナトルで抑えます。隙を見て離脱を」 「悪いけどテムジンさん。それは無理ですね」 「私達は最悪、頭部さえ無事ならばなんとかなります。しかし人間は」 「機兵も人間も同じでしょう。まして女の子が身一つ犠牲にしたチャンスです。最後まで守り通しますよ」  そしてメビウスは、絶対にその勝機を逃さない。不思議とエルトリウスの中には確信があった。そして、そういう絶対的な信頼を感じさせる女性を彼はもう一人知っている。両者は全く違う人種で、むしろあべこべという程に両極端な人間だが……この世界樹の迷宮という場所は何故か、二人を同じに見せてしまう。  メビウスと同じ面影を持つ女性を、エルトリウスは気付けば思い出していた。 「迎えに行くと決めているのです。全てが終わったら、深都へ。あの人を迎えに行くと!」  既にもう、その目は見えてはいなかった。先程まで輪郭でもって世界を伝えてきた視力はもう途絶え、今は薄闇の中に影が動くだけ。その中央に気遣う気配は、肩越しに振り返るテルミナトルのものだ。だがもう、そのフルヘルムに覆われた無骨な姿も見えない。  だが、永らくレンジャーとして野山で生きてきたエルトリウスの鋭敏な感覚は、彼の敵を脳裏へと浮かび上がらせる。  額の奥に生ずるイメージを頼りに、肌と耳とで拾う敵影をエルトリウスは無心で撃った。銃爪を引く指の感覚がなくなっても撃ち続け、弾が切れれば神速のリロードでがむしゃらに撃ちまくった。もはや周囲は四面楚歌、どこを見ても敵ばかり……撃てば当たるという状況は僥倖だったかもしれない。だが、その包囲は徐々に三人を追い詰めてゆく。  夢中でテルミナトルの死角をカバーするエルトリウスは、無我の境地で声を聞いた。 『おう異人! お主か、父上が連れてきた異国の射手は。はは、なかなかいい男だなあ。……やらないか?』  なにも見えない目が、セピア色に浮かぶ過去を見詰めていた。豪気であけすけがない女性は、確か客人として迎えられた国の姫君だ。この時は確か、三人目の婿が死んだ直後だったと思う。悪びれた様子もなく、握った拳の人差し指と中指の間に親指を挟めてガハハと笑う、本当に豪快で竹を割ったような女傑だ。  その後ろに隠れて、姉にしがみついている小さな女の子をエルトリウスははっきりと覚えていた。 『ところで異人、弓が達者だそうだな。よかったら妹に弓を教えてやってくれまいか?』  そう言って長身黒髪の少女は、背後の小さな人影をひっぺがす。そうして襟首を掴んで、まるで猫のように差し出したのだ。  それが、エルトリウスにとっては運命の出会いになった。 『これはな、妹のなずなだ。ほら、なずな! 挨拶!』 『こ、こんにち、は……』 『はは、内気な愚昧でな。父上も心配してるのだが、この歳になっても婿を取らず武芸三昧だ』  草壁なずな。それが、東方の列島にある小国のお姫様の名前。この時まだ、彼女は十歳かそこいら、エルトリウスの僅かに半分だ。だが、差し出されるまま借りてきた猫のように大人しいこの少女の、無機質な無表情が美しかったのをよく覚えている。 『よし、じゃあ異人! 頼んだぞ! なに、弓以外も教えてくれていいぞ。例えば西洋の房中術とかな!』  げらげら笑って去る姉へと、あうあうとなずなは手を伸べる。だが、大股で去りゆく背中を見送り、肩を落として彼女は振り返った。本当に小さな矮躯が、エルトリウスをじっと見上げてくる。  その時、既にエルトリウスは恋という名の矢に射抜かれていた。  なずなはもじもじと上目遣いに、半ば睨むようにエルトリウスに呟いたのだ。 『……弓、得意なのか? 私も、上手いぞ……腕比べなら、受けてやっても、いい』  この不器用極まるお姫様が、後にハイ・ラガートで百邪斬りだとか剣聖だとか噂されるようになるなずなの幼少期だ。エルトリウスはゆえあって遠く異国は東洋のこの地で、草壁一門の客人としてなずなと共に過ごし、その面倒を見るためにハイ・ラガートにも同行した。そしてメビウス達に出会い、世界樹の迷宮に魅せられ、多くの友を得た。  その全てを守ることが、一番大事なあの人を、生きるべき道を失った彼女の支えになると信じていた。  一時は仇を討つべしと静かに燃えた怒りを、今は鎮めて無心に戦う。だが、限界はすぐ側に迫っていた。 「脚部ピストン破裂、左腕部回路断線! 動力カット……どうしたテルミナトル、まだだ! まだ私達は負けていない」  エルトリウスはその時、声にならない咆哮を聞いた。それはテルミナトルの動力炉が臨界寸前でパワーを絞り出す音だったかもしれない。だが、正面から突っ込んでくる魔物達を受け止め、割れた兜を脱ぎ捨てるテルミナトルは吠えていた。哭いているようにも思える。その胸の奥から迸る絶叫と共に、彼は一閃で周囲を薙ぎ払うや膝を突いた。  一撃であらかたの魔物が上下に両断されたが、残った者達が屍を踏み越えて殺到する。  テルミナトルを庇いながら銃爪を引いた瞬間、エルトリウスは撃鉄が虚しくカチンと音を立てるのを聞いた。 「弾切れ……ここまでですか」  絶望に抗いつつも、見えないまなこを見開いてエルトリウスは襲い来るモンスターから仲間を庇う。 「エルトリウス殿! テルミナトル、エルトリウス殿が……お助けしろ、私をパージするんだ!」  テムジンが逼迫した声に悲壮感を織り交ぜた、その時だった。エルトリウスは耳に聞き馴染んた、聞き心地のよい鼓動を感じた。  瞬間、めしいた瞳が視界の隅に閃光が突き抜けるのを見た。その光は周囲の魔物達から、鼓動と呼吸を奪って眩く煌めき、刹那のうちに消える。突然のことに固まった魔物達は、次々と鮮血と共に崩れ落ちた。  恐るべき手練の剣は、修羅をも超えた悪鬼羅刹の所業。だが、この太刀筋をエルトリウスは知っている。 「……なずなさん」 「済まない、エル。遅くなってしまった。テルミナトルもテムジンも無事か? 助けに、きた!」  もはや見えぬ目はしかし、溢れる涙だけは止めどなくあふれる。そんなエルトリウスの胸に、懐かしい体温が飛び込んできた。ぎゅむと抱き締められた時に、その腕の硬さにエルトリウスは言葉を失う。失われたなずなの腕は今、金属の硬さで機械的な熱を帯びていた。 「なずなさん、腕が」 「うん。急いで作ったから、ちょっと不恰好になってしまった。後でつけなおすから。それよりメビウスは!」 「この奥へ……しかし扉がもう再生してしまった。魔物はともかく、私達を受け入れるかどうか」  テムジンが冷静に応える声を拾って、なずなはエルトリウスを惜しみつつ手放した。そして背に背負った剣を取り出すなり、厳重に封を施した御札の数々をひっぺがしてゆく。なずなの腕同様に急造品らしく、取ってつけたような柄に鞘、鍔すらついていない。 「真祖が私の腕を切り落とした時、私に付着した結晶から生まれた刃だ……道を開け、羽々斬!」  その時、信じられない光景をエルトリウスは見た。見えないはずの光景がありありと、手に取るようにわかった。なずながかざした剣は、鞘に納められて尚、禍々しくも神々しい光で玄室への扉をこじ開けたのだ。なずなは愛用の胴太貫と、ミラージュの妖刀ニヒル、そして妖しく覇気を放つ羽々斬、三振りの太刀を手に闇が淀む先へと踏み出す。 「なずなさん……お気をつけて」 「うん。約束した、メビウスと。メビウスが己の全てを賭けて戦う時、必ず加勢すると」 「ええ。では私とも約束してください。必ず生きて帰ると」  なずなは大きく頷くや、洞のように口を開いた扉の奥へと消えた。エルトリウスはテルミナトルに肩を貸して立ち上がりながら、魔物達の骸が四散する中、いつまでもその背を見送っていた。